石晶藻の口づけ

kanegon

第1話 黒猫を求めて

 ルウーナ河が古代植民都市ダルレスの遺跡付近から枝分かれして十六の三角州を形成して海に注いでいる湿地帯で、ぼくは彼女と出会った。

 清楚な白いワンピースをまとって、強い陽光を遮るツバ広の帽子を被り、その上さらに白い日傘を差しているその美少女は、何かを探しながら向こうから歩いてきた。

 セミロングの銀髪を微風に揺らしながら彼女は、右に、左に視線を送りつつ、前ではなく自分の足元の少し前あたりを注視しながらゆっくり歩いていた。だから前方から畳んだままの薄緑色の雨傘を持ったぼくが近付いていることに気づいていなかったかもしれない。


「いない。どこに行ったの?」


 彼女の真珠のように淡くピンクに色づいた唇から、小さく言葉が漏れた。

 ぼくは、彼女に話しかけようかどうか迷った。久しぶりに出会った人間だから。

 いや、記憶が定かではないが、人間に出会ったのは、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。ぼくはずっと一人ぼっちだった。

 お互いの距離が接近すると、白い日傘と帽子の陰になっていた彼女の顔立ちが明らかになってきた。閉ざされた谷にある蒼碧色の泉のような澄み渡った青い瞳。高級な絹のような皓い肌。そして首には黒いチョーカーを巻いているのが見てとれた。

 古代帝国の人が大理石で彫った女神像のように麗しい美少女に気後れして、ぼくは話しかける勇気が出なかった。

 自分の足元ばかり見ていた彼女も、ぼくの存在に気づいたらしい。ぼくの黄色い目と彼女の青い目の視線が合った。


「ねえ、あなた、この辺に住んでいるの?」


 ぼくが話しかけるかどうか躊躇している間に、彼女がその場に立ち止まって先に話しかけてきた。囁くような、それでいて透明感のある声。ぼくも立ち止まり真っ正面から向かい合う。彼女は17歳くらいだろうか? 顔立ちに幼さを残してはいるものの、ぼくよりは年上らしい。向かい合って立つとはっきり分かるが、小柄な少年であるぼくよりも彼女の方がかなり身長が高かった。


「ぼくはダルレスの遺跡に住んでいるんだ。古代帝国の時代には円形闘技場だったところ」


「そう。私はルピナ・ゼファーっていうんだけど、私の探し物、どこにあるか、あなた知らないかしら?」


 ルピナ・ゼファー、か。きれいな名前だな。と思いつつ、自分が名乗る前に探し物の件を問いかけられて、ぼくは当惑せずにはいられなかった。ルピナが何かを探しながら歩いているのは気づいていたけど、具体的に何を探し求めているのかまでは知るはずもなかった。


「何を探しているの? 五色の鶸ならこの辺にはいないと思う。ルゼルネの紫色の花を探しているなら、ここのような湿地帯ではなくもっと乾燥したところを探した方が……」


「違うわ。探しているのは黒猫よ。尻尾がとても長くて、くるんくるんと螺旋の渦を巻くような格好をしているのが特徴よ」


「く、黒猫……か。こ、この辺では、見ていないね」


 少し震える声を押さえつけるように意識しながら、ぼくは正直に答えた。この辺は、ぼくが住んでいるダルレスの遺跡からそれなりに南に離れた三角州地帯だ。この近辺では黒猫は見ていない。


「そう。ならば明日は別のところを探そうかしら」


 ルピナ・ゼファーは長い睫毛を伏せて悲しげな表情をした。


「その黒猫は私にとって大切な友達だったのよ。でもね、ある日、蒸気機関車にひかれて死んでしまったの。でも遺体がきれいさっぱり消えてしまったの。それは、異世界に転生したから」


 突然荒唐無稽になったルピナの話に、ぼくの戸惑いは、レ・ボーの地獄谷にある妖精の洞窟のように深くなった。


「だから私も一時的にではあるけど、異世界に移転して黒猫を探しに来たの。時間制限があるから、早く見つけないと、あっちの世界に引き戻されてしまうのよ」


 あまりにもあっさり語られた彼女の正体に驚きすぎて、ぼくは二の句が継げなかった。


「黒猫がどこにいるのか知らないというのなら、あなたに用は無いわ。さようなら」


 異世界人のルピナは別れを告げて歩き去った。声をかけて引き留めようとしたが、かけるべき言葉が見つからなかった。

 黒猫を探しながらゆっくり歩いているはずのルピナの姿は、あっけなくぼくの視界から消えてしまった。

 また、会えるだろうか?

 そう思いつつ、空を見上げる。雲間に翳りつつも陽が傾き始めている。



 結果的には雨が降り出したのは遺跡に戻ってからだった。

 ルウーナ河東岸のダルレスの古代都市は、使われなくなった円形闘技場の内部に民家が建てられる形で発展した。らしい。今となっては廃墟で、ぼく以外は誰も住んでいない。

 厳密に言うと、最近はぼくと黒猫が住んでいる。

 尻尾が長く、ワインのコルク抜きのように螺旋を描いている黒猫だ。ずっと孤独を抱えて生きてきたぼくに懐いてくれた、初めての友達だった。


「どうしよう、ルピナに嘘をついちゃった……」


 本当のことを言う勇気が持てなかった。自分の不甲斐なさを情けなく思うが、その反面、ルピナが時間制限で元の世界に戻る前に正直に言えば済むことなのかもしれない、とも思う。

「にゃあ」

 帰宅したぼくに、黒猫が寄り添ってくる。よしよし、と喉元を撫でると、ごろごろと気持ち良さそうな声を立てる。


「そういえばルピナは今、どこで雨宿りしているんだろうか?」


 ルピナは異世界から来たという。仮にそうだとしたら、こちらの世界には住処は無いはずだ。


「ルピナをここに呼べば良かったかな?」


 いや、それはダメだ。黒猫が一緒にいるということを知られてしまう。

 ぼくは部屋の隅に座り込み、膝を抱えてうずくまった。黒猫がぼくの足に頬をこすりつける。


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