狂える世界とボヘミアン
メルヘンポエマー
第1話:長い夜のはじまり
1-1
風にまじる気配に、振り返る。
あからさまな悪意。
ぞんざいな殺意。
たわむれな害意。
雑念入り交じる街中とはいえ、なんとも物騒かつ、俗悪で、不純な────見過ごせない〈気〉の動き。
時刻は確か、七時すぎ。
日の落ちかけた、大都会。
人の行き交う繁華街に、不穏な気配が、高速で接近してきていた。
反射的に、駆け出す。
もっと、その〈気〉の動きを探ろうと、そちらへ意識を向けたところ─────。
女性の悲鳴が、あがった。
……気づくのが遅かったかな。
それを手早く首へ、顔の下半分を隠すように、マフラー状にして巻き付けた。
戦闘準備完了。
一気に速度を上げ、人混みをすり抜ける。
そして、事件現場と、邪悪な気配の主を確認。
人混みの中、地面に、女性が倒れこんでいた。
先ほどの悲鳴は、このひとのものだろう。
まわりの人々は、突然の出来事に、なにが起きたのかさえ、認識できていない。
一方、邪悪な気配の主……犯人は、悠々と、ビルの壁面へと跳躍したところだった。
その左手には、赤ん坊が無雑作≪むぞうさ≫に握られている。
─────OK、把握した。
猛加速して、こちらもジャンプ。
空中で追いすがり、犯人の無警戒な左手に、手刀を一閃。
その一撃で、犯人の手から、赤ちゃんの体が離れる。
すかさず赤ちゃんをキャッチ。
ついで、もう片方の掌から、犯人めがけ、体内で練り上げた生命の力、〈気〉の塊を撃ち放つ。
仙境で会得した技のひとつ────名を、〈
言うなれば、それは、生命エネルギーが形を成した、衝撃弾。
光り閃く〈気弾〉は、犯人の体を捉え、弾き飛ばした。
犯人の体が、跳躍先とは別方向のビルの壁に、激突する。
あちこちで、悲鳴と、驚きの声があがった。
その間に、着地。
赤ちゃんは大泣きしているが、幸運なことに、怪我はなかった。
急いで、路上にへたりこんでいる女性……赤ちゃんの母親に近づく。
女性は、呆けたような表情で僕を見あげた。
僕が抱えている赤ちゃんに気づくと、矢も楯もたまらず立ち上がってきた。
「はい」
僕が赤ちゃんを差し出すと、女性は歓喜の声をあげ、ひったくるように、僕から赤ちゃんを抱き取った。
良かった、良かった。
と、感動に浸りたいところなのだが、そうもいかなかった。
「逃げて。それと、お子さんを大切に」
簡潔に告げて、再びジャンプ。
空中で回し蹴りのカウンターを一撃。
背後から襲いかかろうとしてきた犯人を、地上に叩き落とす。
懲りずにもう一度、赤ちゃんを奪い取りに来たのだ。
人だかりの中で、誰かがひときわ大きく、叫び声をあげた。
「〈
いかにもその通り。
ところで、叫ぶ暇があるんなら、さっさと逃げてほしいんだけれど。
と、そう思ったところ、路傍の人々は、我先にと、この場から逃げ出していた。
賢明な判断だ。
一方、地面にはいつくばった犯人は、諦めることなく起き上がっていた。
犯人の方から、獣の臭気が漂ってくる。
その頭部は──────狼そのもの。
だが、体躯は人の輪郭。
その全身は、汚らしい黒灰色の体毛で覆われている。
……わかりやすいくらいに、偽物の〈
『同族ガっ! ナゼ、邪魔ヲスルッ?』
獣の唸り声混じりに、狼男が叫んだ。
冗談はよしてほしい。
人間を襲ってる時点で、誰が同じなものか。
そう思ったけれど、時間がもったいないので、僕は、シンプルに答えることにした。
「邪魔したいから」
狼男は、僕の返答がお気に召さなかったようだった。
次の瞬間、僕の頭があった空間を、狼男の腕が薙いでいた。
狼男の攻撃をすり抜けて回りこみ、その背中を、軽く蹴り散らかす。
それから、逃げる。
地面を蹴ってホップ。
街灯の柱でステップして、ビル壁面へ、そしてまたそこから大ジャンプ。
空中跳躍行の開始だ。
案の定、狼男は激昂して、僕を追ってきた。
単純な相手だ。
誘導に手が掛からないから、助かる。
……徐々に高度を上げるように跳んでいく。
跳び移るうちに、ビル屋上まで登り詰め、今度は屋上から屋上へ、また跳び続ける。
そして、頃合いを見計らって、着地。
数秒遅れ、狼男も、着地してきた。
『───貴様ァっ! 何者ダァッ……!?』
狼男が、そう吼える。
「……見てわかんないかな?」
僕は、両手を腰に当て、胸を張る。
狼男は喉を唸らせながら、怒りをたたえた目で僕を睨むが、言葉はない。
仕方なく、ヒントをひとつ。
「赤いマフラーをして、悪漢の前に立ち塞がる謎の人物───っていったら、相場は決まってるでしょ」
そう、僕が首に巻いている織布の色は、赤。
………赤いマフラー、なんとかのしるし。
たとえ
『ザレゴトヲッ!』
もちろん戯れ言だ。
だけど世の中、戯れ言だろうと、
咆吼と共に突進してくる狼男を眺めながら、そんなことを考えた。
軽く蹴りを一発、そして追加で回し蹴り。
そのあと後ろに跳んで、少し距離を置く。
「今度は、僕が訊きたいんだけど」
蹴られて転がった狼男に、僕は、問いかけた。
ぐるる、と唸りながら、狼男はこちらを見上げる。
「……今、例の、噂のヒトを探してるんです。───知りません? 滅ぼされた、って話だけど。……やっぱり通り名どおり、不死身ってことかな?」
『ナンノハナシダッ!』
狼男の反応は、簡潔なものだった。
しらを切ってる風でもないし、どうやら、完全に本当に、まるっきりの雑魚だったらしい。
人助けのついでとはいえ、無駄な質問になってしまった。
僕の空振り感などお構いなく、狼男は、またも突進してきた。
本当に懲りないなあ、逃げればいいのに。
──────────まあ、逃がすつもりは、全然ないけれど。
…………〈
が、それは種族が、存在性が違うからこそ生まれる、力の差だ。
F-1マシンと、自転車を比べるようなものだ。
なら、同機種────同じような存在だったなら?
歴然として、性能の差が問題になってくるだろうし、あとはそう……どれだけ経験の蓄積が反映されているか、その差が物を言う。
今、この一瞬のことで言えば。
たぶん、そのどちらも、僕のほうに分がある。
こちらは、伊達に仙境で修行してたわけじゃない。
相手は〈力〉任せに人を襲うだけの〈
仙境で得た技を用いるほどの手合いでもない。
─────ちょっと、〈力〉のギアを二段階くらい上げてみる。
狼男に、蹴りと拳撃を、一息に十六連打。
だめ押しに、なんちゃって八極拳、
拳法の、型通りな体当たりで、狼男の体を、大きく吹っ飛ばす。
たぶん、狼男は、自分が何をされたのか、わからなかっただろう。
狼男の体は、屋上を飛び出し、落下していった。
ビルづたいの跳躍はできても、通常の〈
都会の喧噪に、狼男の絶叫が響いていく。
………見たくはないけど、事の顛末を見届けなくては。
狼男は、重力に逆らうこと叶わず、地面に激突していた。
受け身も着地もろくにできず、天に召された……。
と、思いきや。
見れば、よろめきながら、なおも立ち上がろうとしていた。
偽物でも、そこは〈
けれど、そこまでだった。
轟音が、夜の街に響き渡る。
そのあと、狼男の体が、地面に崩れ落ちた。
轟音の発生源は、遅れて現場に急行しようとしていた、武装警官隊だった。
狼男は、警官隊の一斉射撃───推測するまでもなく、すべて銀製の弾丸───を浴びたのだ。
降って湧いた凶行者への反応は、普通の警官隊といえど、的確なものだった。
……通報されたことから考えて、警官隊がやってくるルート。
それを予測して、そこに落としたんだけれど。
後味は、良いものじゃない。
しかし、あの狼男は、赤子を攫って、喰らおうとしていたのだ。
外道にはふさわしい末路だと思えば、いくらか心は晴れる。
「──────さて」
呟いて、身をひるがえす。
退散、退散。
警官隊に見つかれば、僕もああならないとは限らない。
そうして、ふと───────。
街を、眺めた。
夜闇の幕は、ゆっくりと降りようとしていた。
都市の灯りも、それにつれて、瞬きの数を増していく。
薄闇に包まれながら、光と影を淡く浮き立たせている、都市のビル群。
その輪郭は、まるで、歪に並ぶ墓標の群れ。
けれど、その光景は、美しい、と思えた。
…………ビルの屋上からでは、都市の喧噪が、さざ波のように聞こえる。
先ほどの、狼男の起こした騒動など、なかったかのようだ。
だが、それも、表層だけのこと。
人間の世界には、いつだって、
はたして、この街に、華やかな灯りの数ほど、人の幸福は、存在するのだろうか────────。
──────首に巻いてる織布が、強く、夜風になびいた。
それで、我に返る。
……面倒事の直後だったせいで、感傷的になってしまったのか、どうか。
そんな物思いが似合う年齢でもあるまいに…………。
と、ひとり、軽く赤面してみたり。
ひと運動したら、お腹もすいた。
「───────問題ないでしょ。どのみち風は吹くんだし」
誰もいないのに、そううそぶいて、屋上の縁を蹴った。
夜の
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