第84話

「石津先輩、神様から貰った時間も残り少なくなったわ。そろそろ帰ります」


 希久美は、ベッドで半身を起こし泰佑に言った。

 長い時間話していたから、薬が切れかかっているかと心配したが、泰佑はまだ身体が動かせないようだ。


「そうか…。今日は来てくれてありがとう」

「最後にお願いなんですけど…」

「なに?」

「私が天国に帰っても、あのホテルに誘った性悪女は、だめですよ」

「だから、親友の見合い相手には近づかないって」

「安心しました」

「でもね…自分が本当に愛することができた女性だから、こころ中に居続ける女性として、菊江とともに一生大切にすることは許してくれるよね…」


 希久美の胸がキュンと鳴った。ここで、なんでそんなセリフがはけるの。狂おしいほどこの男が愛おしく感じられた。


「だめに決まってるでしょ」

「だめか?」

「石津先輩の心の部屋は狭いから、ふたり入るのは物理的に無理なんです」


 インカムを通してふたりのやり取りを聞いていて、テレサの霊感が働いた。マイクに向かって指示を出す。


『ナミからのお達しよ。男性機能が回復しているか、キスして確かめてから去りなさいって』


「えーっ?」


「どうした?」


 ひとりで何かに驚いている希久美を見て、泰佑が不思議そうに尋ねた。


「いいですか先輩。これから私が先輩に何をしても、先輩からは何もしないでください。私に触ったりしたら殴りますよ」

「どっかで聞いたことがあるセリフだな…」


 希久美は、起こした半身を泰佑に近づけて、泰佑の頬を優しく支えながらキスをした。ホテルでキスをした時と違って、泰佑の唇は荒れていてざらざらしていた。けれど、泰佑の心の奥底を知ってしまった今では状況が違っている。

 頭のてっぺんで鳴る鐘はあの時以上、いや想像を絶するほどのボリューで希久美の全身に響いた。希久美が嫌がる自分の身体をなだめてようやく唇を離すと、息が上がっていてなかなか話し出すことができない。


「ハァ、ハァ、どうです…からだに変化ありましたか?ハァ…」


 目をつぶって希久美のキスを受け入れていた泰佑が薄眼を開けた。口もとに悪戯な笑みを浮かべていた。


「どうかなぁ…。なんかあったような、なかったような…。悪いけどもう一度お願いできるかな」

「えーっ、もう一回ですか?」


 嫌がった希久美だが、それでも身体は泰佑の唇に吸い寄せられていた。

 突然泰佑が希久美を抱きしめた。


「不思議だ、あの時と同じだ。体に力が満ちて来た」


 ついに薬が切れたんだわ。今度は泰佑が希久美を抱きしめて力強いキスをした。希久美は、10年間このキスを待っていたことに気付いた。


「わかりました、石津先輩。菊江は今夜一晩、先輩のものになりますから…。好きにしてください。でも…壊しちゃだめですよ」


 熱い喜びのうねりの中で、意識が薄れていく希久美は、こう言うのが精いっぱいだった。


「オキク。武士の情けだ」


 外にいるテレサが、インカムのスイッチを切った。

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