第64話
「この店、翁庵っていうんだけど、ネギせいろと鴨せいろが抜群なのよ」
上野駅のそばにあるふるぼけたそばやの暖簾をくぐりながら希久美は言った。
「どうでもいいけど、そばやに入る時まで腕を組んでる必要ないでしょ。ふたり並んで入るには入口が狭すぎだろう」
「いいから…。とにかく食券買って」
「おれが出すの?」
「恋人だったら当たり前でしょ」
「で、何を?」
「あんた人の話し聞いてる?さっき言ったでしょ。ネギせいろと鴨せいろよ。いつも来ると両方食べたいんだけど、一人じゃなかなか食べられなくてね。今日は嬉しいわ。ふたりだから、恋人らしくシェアして食べましょ」
手書きの紙の食券を買って、しばらくするとせいろが運ばれてきた。ネギせいろの汁には、縦に切ったねぎと大きなかき揚げ、鴨せいろの汁には、ジューシーな鴨の胸肉が入っていて、どちらの汁も温かい。なかなかのボリュームだ。
「まず、私がネギせいろ。泰佑が鴨ね」
ふたりはそばにたっぷりと汁をからませ、黙々とそばをすする。
「はい、ここでストップ。こんどは私が鴨ね」
希久美が泰佑の汁椀を奪って、自分のものと交換した。
「ちょっと待て、ネギとかき揚げがほとんど残ってないじゃないか」
「あら、そう」
希久美はそばを口に入れながら平然と答える。
「おれは遠慮して、鴨を結構残したのに…。はっきり言うが、これをシェアとは言わない。日本のそばを食べる日本人でありながら、日本が世界に誇れる良き慣習である奥ゆかしさを、お前はいったいどこへ捨ててきてしまったんだ」
「珍しく長セリフはくかと思えば、意味のないことをウダウダと…。ぐずぐずしてると残ったネギも食べちゃうわよ」
「これが恋人らしくといえるのか?」
「上手いモノの前では、恋人もクソもないの。黙って食べなさい」
「食べ物を前にして、汚ねえな」
「そんなに言うなら、食べさせてあげましょうか。はい、あーん…」
「もういいよ。自分で食べるよ」
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