第58話
石嶋が着替えを探しに奥に入って行った。
ナミは、とりあえずハンドバックから携帯歯ブラシを取り出し、歯を磨くと、顔を洗って昨夜からの化粧を落とし、軽く肌を整える程度の朝の顔を作った。その間もユカがナミのそばにべったり張りつき、不思議そうにナミのやっている事を見つめていた。
「ユカちゃんそんな目で見ないで。女がスッピンでいられるのは、ユカちゃんの頃から女子高の年代までよ。私くらいの年になるとね…」
石嶋が持ち出してきたジャージに着替えて、少し大きめだが、石嶋が昔使っていた運動靴も借りて準備は万端。3人はウオーキングに出発する。
必死に歩くナミであるが、そんな距離を歩いていないのにもう息が上がってきた。ユカに手を引かれながら、肩で大きく息をしながら歩く。石嶋はそんなふたりを笑顔で眺めながら、後方からゆっくりと歩いていた。
「おいユカ。ナミ先生が苦しそうだから、少し休むか」
石嶋の配慮で、公園のベンチで一休み。石嶋はベンチのそばの砂場で遊んでいるユカを見守っている。ナミはそんな石嶋を見ながら、改めて自分の今の状況を考えてみた。
目が覚めた時に自分のベッドの中に自分以外の誰かがいる朝。目覚めの直後に、コーヒーの湯気につつまれた男の顔に迎えられる朝。こんな朝は、未だかつて経験したことが無い。そしてなにより、休日の朝に、朝日に反射して光る石嶋の顔をひとり占めできることが、何と言っても嬉しかった。そう、夢のようだ。
「ごめんなさい。かえって足手まといになっちゃって…」
「いいえ、とんでもない。ナミ先生のおかげで、初めてあんなに楽しそうに歩くユカを見ました」
ユカが嬉しそうに石嶋とナミに手を振る。ナミも笑顔で応えた。
「ところでヒロパパ。ゆうべはなんで私がいるところがわかったの」
「えっ、それも覚えてないんですか?メールくれたじゃないですか」
自分は打った覚えが無い。テレサの奴めやりやがったな…。あんな話をしたもんだから、テレサが気をきかしたのだろう。でもこんな状況を作ってくれても、付き合っている人がいる男相手に、いい大人がコクルなんて出来るわけがない。
「さあ、ナミ先生。この後はスーパーに買い物ですが、歩けますか。おなかも空いたし、朝ご飯を買って家で食べましょう」
そう言いながらナミを見た石嶋の笑顔が、輝いていた。石嶋がベンチから立ちあがる。ナミはその姿をベンチから見上げた。長身でありながらバランスのとれた体躯は、ナミにあらためて男のセクシーな美しさを感じさせる。ナミは考えた。でももしかしたら、たった一日だけなら夢をみることが許されるかもしれない。
「あの…。ご迷惑をかけたお詫びに朝ご飯は私が作ります」
「いいんですか?楽しみだな」
「それから…。ヒロパパはハングル語をご存知ですか?」
「いえ、さっぱりわかりませんが。なんでですか?」
「スーパーで朝からヒロパパ、ナミ先生って名前を呼び合うのも変ですから、今日だけ、お互い『ヨボ』って言い合うことにしません」
「どういう意味なんですか?」
ナミは顔を赤らめながら答えた。
「まあ、英語の『ユー』みたいなもんです…」
実は、この答えはまったくの嘘だ。ナミは韓国ドラマでよく耳にするこの言葉に憧れていた。意味は慈しみ合う夫婦がお互いを呼ぶ言葉で、日本語で近い意味は『あなた、お前』なのだ。
「ヨボか…。面白いな。では行きましょうか、ヨボ」
「そうしますか、ヨボ」
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