第46話

「おやまあ、泰佑や、いつの間に。具合はもういいのかい?」

「全部吐いたし、少し休んだら楽になったよ。それに、ふたりのおしゃべりがうるさくて、おちおち寝てられない」


 少し怒気を含んだ泰佑の口調に、ばつが悪くなった希久美が席を立った。


「やだ、すっかりおじゃましちゃって。おばあちゃん私帰ります。ご馳走になりました」

「オキク。タクシーがつかまる通りまで送って行く。今ざっとシャワーを浴びて来るから、待っててくれ」


 スウェット姿の泰佑に付き添われながら、希久美は黙って夜道を歩いていた。

 やがて泰佑が口を開く。


「俺の部屋に入ったのか?」

「泰佑ねぇ、そんなことを気にする前に言うことがあるんじゃないの」

「う…今日は面倒かけたな。ありがとう」

「声が小さくて聞きとりにくいけど、まぁいいか」

「…だからさ、ばあちゃんとなに話してたんだよ」

「別になにも…」

「嘘だろ。机に俺の昔の写真があったぞ」


 食い下がる泰佑に逆切れした希久美が立ち止まって語気を荒めた。


「そうよ、泰佑の部屋にも入ったし、服も脱がせたし、子供の頃の写真も見たわよ。泰佑のこと、よーくわかっちゃった。スポーツやってないと言いながら、野球が大好きで部活をしっかりやって、暇な時はギターも弾くし、天気のいい休日にはバイクでツーリングもするのね」

「そうか…」


 泰佑は消え入りそうな声で返事を返す。希久美は今の状況が優勢であることに勇気を得て、気になっていたことを一気に仕掛けてみた。


「ところで、菊江って誰?」


 ぎょっとした泰佑のその時の表情は、その名前を恐れているかのようでもあった。


「なんでその名を?」

「うなされながら言ってたわよ」


 黙ったまま泰佑は何も答えなかった。長い沈黙の間の後、泰佑は重たい口を開く。


「オキクが、今日知ったことを、べらべら他人に喋るような奴ではないことは、良くわかっている」

「なにが言いたいの?」

「だから…、これだけ俺のことを知っている女は、お前だけだってことだ」


 希久美は泰佑が止めてくれたタクシーに乗り込んだ。走り始めたが、泰佑は路上からいつまでも希久美のタクシーを見送っているようだった。

 希久美は後部座席で別れ際の、泰佑の言葉を思い返した。『これだけ俺のことを知っている女はお前だけ』それって、特別になったということかしら。希久美は、いよいよ仕上げの時期が迫ってきていることを感じた。


「それにしても…」


 希久美は、ハンドバックから自分のラブレターを取り出して眺めた。ラブレターに書かれた『菊江』という名前。泰佑の口から出てきた久しぶりに聞く『菊江』の名前。10年前に消えたはずの自分に、今ここで会うことになるとは考えてもいなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る