鹿野園先生と秋川君
@2222anpan
第1話 幸福
書斎に悩める青年が生産した溜め息が充満している。鹿野園は座椅子の背もたれに上体を預けて、天井を見上げた。メランコリイが雲を作って、そのうち書斎に雨が降りそうだ、と思った。
秋川は今朝からずっと上の空だ。万年筆を握ったまま窓へ向けた横顔は、裏庭ではないどこかを見ている。
昼食もあまり箸が進まない様子だったので、どこか具合が悪いのかと鹿野園が尋ねたが、秋川は「なんでもありません」と言うばかりだった。
食欲はないようだが、顔色は悪くない。彼が言うように体の具合が悪いわけではなさそうだ。
では、何がこの青年を悩ませているのか。
創作に対して常に直向きな秋川である。彼が、執筆中に湧いた疑問を鹿野園に話すことはよくあった。その質問は実に様々で、小説とはという思想的なものから、句読点の位置という細部にも及んだ。彼が鹿野園に話そうとしない所を見ると創作関係の悩みではないのだろう。
おそらく個人的な問題なのだろう、と鹿野園は結論付けた。どのような悩みなのか気になるが、本人が話すつもりがないものを無理に聞き出すのは無粋というものだ。自身に言い聞かせるが、どうも気になる。
悩める弟子と同じように師である鹿野園の筆も進んでいなかった。
「おいおい。なんだ、この辛気臭い空気は」
書斎の襖を開けて中を見た前田が目を丸くした。
開いた襖から風が吹いて、滞った部屋の空気が循環し始める。
「こんな所で油を売っていていいのか? 仕事中だろう」
鹿野園は闖入者に呆れ顔を向けながら、書斎の空気を変えてくれた神出鬼没の風神に心の中で感謝した。
「堅いこと言うなよ。客先での用事が早く終わって少し時間ができたから顔を見に来たんだぜ」
前田は悪びれもせず畳の上に直に胡座をかいて座った。
前田は鹿野園の高等学校時代からの友人だった。文学を愛する物静かな鹿野園と、新しい物好きの快活な前田。共通点がほとんどない二人だが、不思議と馬が合った。
高等学校を卒業してからは別の進路に進んだが、そろそろ中年になろうとしている今でもこのように二人の交流は続いている。
「失礼いたします」
襖の向こうこちらに呼びかける声がした。続いて静かに襖が滑り、博子が顔を覗かせた。
「お茶をお持ちしました」
どうぞ、と博子が有田焼の湯飲み茶碗を前田の前に置いた。続いて、
「おもたせで失礼ですが」
と、湯飲み茶碗の隣にとろりとした琥珀色のあんがかかった団子の小皿を置く。
「おぉ、みたらしか」
小皿の上のみたらし団子を見て、甘い物好きの鹿野園の顔が綻んだ。
「ええ。前田さんから戴いたお団子ですよ」
博子が頷いて鹿野園の前に湯飲み茶碗と小皿を置いた。
「半月堂のみたらし団子だ。お前の好物だろう」
前田は得意顔で言った。
「たしかに好物だが、半月堂といえばここからも君の職場からも遠いじゃないか」
鹿野園は顔をしかめた。近くに来たついでの訪問でわざわざ手土産のために遠回りするだろうか。いや、何か大事な用で来ているに違いない。
「何を企んでいる?」
鹿野園はみたらし団子に体を向けたまま、顔だけを僅かに前田に向けた。
警戒心を剥き出しにした鹿野園の顔を見て、前田は口を尖らせた。
「企むだなんて人聞きが悪いな。俺はただお前の喜ぶ顔が見たくて買って来たっていうのに」
「やめろ。気色悪い」
甘えたように膝に置かれた前田の手を、鹿野園はぴしゃりと叩いた。
やりとりを見ていた博子がくすりと笑い、秋川の側に移動した。
「秋川さん。お茶をお持ちしましたよ」
先ほどから会話にも加わらず窓の外を見ている秋川に博子が話しかけた。しかし、彼はぼんやりと視線を遠くにやったまま、返事もしない。博子は肩をすくめ苦笑し、
「ここに置いておきますから、良かったら食べてくださいね」
と、言って湯飲み茶碗と小皿を秋川から少し離して置いた。
「失礼しました。どうぞごゆっくり」
博子が挨拶して書斎を出ていく。再度詰問しようと鹿野園が口を開く前に、
「で? 何があったんだ?」
と、前田が先手を取ってしまった。彼の真面目顔の下に好奇心が透けて見える。
「それは私も知りたいよ」
鹿野園は机に肘を立て、その手の甲に自身の頬を当てた。彼の視線は未だ心ここに在らずの秋川に向けられている。
「あぁ。なるほどねぇ」
「何だ?」
秋川の表情を捉えた前田は何か気付いたらしい。一人で納得して頷いる。
「どれ。ここは一つ俺が話を聞いてやろう」
「待て。無理に聞き出すのは無粋というものだ」
鹿野園が前田を阻止しようと手を伸ばす。しかし、前田はそれよりも早く立て膝で秋川にすり寄った。
「やぁやぁ青年。そんな顔してどうしたんだい?」
「うわぁ! あ。前田さん?」
前田が徐に秋川の肩を抱く。物思いに耽っていた秋川が素っ頓狂な声を上げた。
「いらしてたんですか? すみません、気がつかなくて。今、お茶をお持ちしますね」
秋川が慌てて腰を上げる。
「もう博子が持ってきたよ」
鹿野園が困ったような笑顔で自分の湯飲みを持ち上げて見せた。
「そうですか。気が回らなくて、すみませんでした」
そう言って腰を下ろした秋川は項垂れて、見るからに落ち込んでいた。
「気にしなくていいよ。それより、随分悩んでいたようだけど、何か困りごとかい?」
「ご心配をおかけしてすみません。大したことではないので、大丈夫です」
鹿野園はそれとなく話を聞き出そうとしたが、やはりあっさりと躱されてしまった。
「そうか。もし私に手助けできることがあれば、いつでも言いなさい」
詮索を続けて信頼関係にひびが入るのは避けたい。それに、時間が経てば本人から打ち明けてくれるかもしれない。そう考えた鹿野園は引き下がったが、前田は違った。
「いやいや。師匠に恋の相談はできないよなぁ」
前田が茶を啜りながら、当たり前のように言った。
「何故それを!」
「なんだ。恋煩いだったのか!」
秋川と鹿野園の目が大きく見開かれる。理由はそれぞれだが、自分の発言に同じ反応を示す師弟が可笑しくて前田は噴飯した。
「君の物憂げな眼差しを見たら、誰でもすぐにわかるよ」
前田は小皿のみたらし団子に手を伸ばしながら答えた。
「君の師匠は気づかなかったみたいだけどな」
前田がニヤニヤしながらみたらし団子で鹿野園を指す。鹿野園は苦虫を噛み潰したような顔で小さく唸った。
「どうだい? 年長者の私たちに話してみないかい?」
前田はみたらし団子を咀嚼して飲み込むと、秋川に尋ねた。
「本当に大した悩みではないので」
「良いから話してごらん」
両手の平を前田に向けて秋川が頭を振る。しかし、前田は有無を言わせない威圧感で畳みかけた。
「では」
秋川は前田の圧力に負けてぼそぼそと話し始めた。
「僕の想い人はよく行く蕎麦屋の娘さんです。働き者で朗らかで、器量良しで……」
秋川は蕎麦屋の娘を思い出しているのだろう。目を細めてうっとりと滑る舌が、彼の心酔具合を物語っている。
「へぇ。器量良しか。一度見てみたいな。どこの蕎麦屋だ?」
「前田」
身を乗り出す前田を、鹿野園が叱責した。
「構わないから続けなさい」
前田の質問に答えようと語りを中断した秋川に、鹿野園が先を促す。
「その娘さんに見合いの話が来ているらしいんです。蕎麦屋の主人は彼女の気持ちが一番なので、娘さんが気に入らなければ無理に結婚させるつもりはないと言っているらしいのですが……」
「逆を言えば、娘さんが相手を好きになれば結婚もあり得る、と」
前田が顎を撫でつつ思案顔で呟いた。
「しかし、君の口ぶりから推測するに、蕎麦屋の主人から直接聞いた話ではないのだろう?」
「はい。前田さんがおっしゃる通り、人づてに聞いた話です。でも、真実がどうであれ彼女が誰かのものになると想像するとなんだか嫌な気分になるんです」
秋川はそう言うと深い溜息を吐いた。前田の登場で低くなっていた室内の憂鬱濃度がまた少し高くなる。
「秋川君は、その娘さんと夫婦になりたいのかい?」
鹿野園が腕組みをして首を傾げた。
「だから娘さんに見合いの話があると聞いて不快なのだろう?」
違うのか、と前田が太く形の良い眉を顰める。
「夫婦になりたいのなら、見合い話の件を知らないふりをして求婚すれば良いだろう。しかし、秋川君はそれをせずに悩んでいる」
鹿野園は腕組みのまま秋川を見据えた。君は何を躊躇っているのか、と視線で語りかける。
「僕は彼女を独り占めしたいと思ってはいませんでした。でも、彼女が誰か一人のものになると聞いて、その誰かが自分ではないと思うと胸がざわめきました。僕は彼女を、誰かに取られたくない」
秋川は激しい感情に奥二重の奥にある瞳を揺らした。男性にしてはやや繊細な手を膝の上で強く握り締めている。
「彼女を独り占めしたい。でも、僕は小説家を志す身です。将来が不安定な僕の嫁に来て欲しいなんて、言えません」
秋川の声は震えていた。将来に対する不安、満たされない独占欲、無力感、若者の苦悩が彼を苛んでいる。じめじめと重い、梅雨時の曇天の如き苦悩だ。
「そういえば、俺の友人に似たような男が居たな」
重量を増す室内で前田がぽつりと言った。その一言で、停滞した空気が僅かに流れ出す。
前田を見る秋川の瞳に、光が宿る。手がかりを一つも逃さないという気迫が漲っている。良い顔だ、と鹿野園は思った。
自分ではこうも若者を勇気づけることはできない。鹿野園は、君に任せる、と前田に頷く。前田も頷き返し、口を開いた。
「その男は銀行に勤めながら、君と同じように小説家を志していた」
前田が誰の話をしようとしているのか、鹿野園は語り出しで悟った。
やめろ、と視線を送るが前田は気がつかない。
真っ直ぐな瞳で前田の話を聞く秋川の手前、話に割り込むわけにもいかず鹿野園は弟子が鈍感であることを願った。
その男は銀行に勤めながら小説家を志していた。
昼は仕事をし夜は執筆活動に勤しむ。休日は一歩も外に出ない日もある。そんな地味で静かな生活をする男に、見合いの話が転がってきた。いつまでも嫁を取らない男を見かねて、彼の上司が持ってきた話だった。
男は所帯を持つつもりはなかった。しかし上司がわざわざ自分のために持ってきてくれた話を会わずに断るのは不義理というものだ。男は話を受けることにした。
五月の晴れた日の午後、料亭の離れで見合いは行われた。
一枚板の重厚な机。丸窓からは丁寧に手入れされた庭が見える。
男は一張羅の背広で、上司と見合い相手を待った。
見合い相手は島谷と言う瀬戸物屋の娘だという。島谷はある窯元の生まれらしい。彼は幼い頃より培った鑑識眼と天性の商才で、婿入り先の小さな瀬戸物屋を一代で大きくした実力者だと、男は上司から聞いていた。
男は、見合い相手がどのような人物かなど全く興味がなかった。元々断るつもりの縁談だ。嫌われるようにわざと振る舞うことはないが、特別好かれるために媚びる必要もない。失礼がないように気をつけるだけで、普段通りでいれば良いのだと考えていた。
障子戸が開いて、小太りの中年が部屋に入ってきた。続いて、薄紫の振袖を着た娘が現れた。
若竹のような人だ、と男は思った。しなやかで瑞々しく、内面の強さと聡明さが顔つきに表れている。生まれが裕福な家だとか、そういうことではない魂の高貴さを男は目の前の娘から感じ取った。
半端な気持ちではいけない。誠心誠意で向き合わなければ失礼だ。男は姿勢を正して前を向いた。
島谷は社交的で人懐っこい人物だった。気さくな態度で男に話しかけ、男の地味な日常の話を丸い腹を抱えて楽しそうに笑った。
和やかに行われた見合いも終わりになった時、島谷が真面目な顔で「君の夢は何だ?」と男に尋ねた。
「夢、ですか?」
男は目を丸くして聞き返した。島谷の質問の意図が読めず、男は首を傾げる。
そうだ、と島谷が頷いた。そして、世界を動かすのは高い志を持つ者だと考えている。だから夢を持った男の元に娘を嫁がせたい、と語った。
男はちらりと娘を盗み見た。娘は島谷と同じく真剣な眼差しを男に向けていた。
「私の夢は、小説家です」
男は目の前の父娘と同等の真摯さで答えた。
「小説で一番になるのが夢ですか?」
娘の瞳にきらりと星が宿る。その輝きに好奇心が窺えた。
「いえ。小説は優劣や順番を決めるものではありません。自身の中に書きたい世界があって、書かずにいられない思いがある」
語るだけで腹の底から熱が生まれる。男の瞳にも光が点った。
「私はそれを、死ぬまで書いていたい」
「素敵ですね」
娘は頬を紅潮させた。大きな瞳が夏の昼の水面のように煌めいている。
男と娘の視線が空中でかち合い、眩い光が生まれた。
その透明な一閃の温もりに、男は自身の心が幸福で満たされるのを感じた。
今まで所帯を持つことなど考えたこともなかった。嫁が居らず困ることもなかったし、自分の生活に他人を招き入れるなど煩わしいだけだと思っていた。しかし、彼女なら良いと思った。いや、妻にするなら彼女でなくてはいけないと、男はそう思った。
見合いの後、男は上司にあの娘を嫁に迎えたいと伝えた。
嫁を取る気はないと撥ね除けられると予想していた上司は一瞬面食らった顔をして、それから満面に喜色を浮かべた。よし、後は俺に任せておけ、と上司は張り切って言った。
しばらくして、男は島谷から結婚を辞退するという返事を受けた。
自分の何が気に入らなかったのか。娘との結婚相手として何が不足だと捉えられたのか。男は理解できなかった。
納得がいかず上司に理由を尋ねると、
「島谷氏は君を野心のないつまらない男だと思ったらしい」
と返された。
確かに自分は、島谷の質問に「小説家になりたい」と言った。そして、娘の「一番になりたいのか?」との問いに、否と答えた。ただ死ぬまで書いていたいという返答が、野心のない軟弱な男と言う印象につながったのだろう。しかし、それは間違いだ。自分は決して野心がないわけではない。創作活動は他の誰かと競うものではないと自身に言い聞かせながら、人一倍に結果に執着し、名を上げたいと思っている。誰よりも認められたいと願っているのだ。
それを島谷に証明しなくてはならない。そして、なんとしても結婚を認めさせなければ気が済まない。
男は上司に頼んで娘と会う約束を取り付けた。そして、約束の日まで睡眠時間を削り、一篇の短編小説を書き上げた。それは、娘への想いを、島谷に認められたいという執念で磨き上げた渾身の作品だった。
島谷の屋敷の客間で、島谷と男は向かい合って座っていた。
同席している上司と娘が見守る中、島谷が三十枚程の原稿用紙をめくっている。男は下瞼に濃い隈を作った険しい目で、文字を追って動く島谷の眼球を挑むように見つめていた。
呼吸さえ許されないような静寂の中、紙がこすれる音だけが室内に響く。
三十分に満たないが、部屋に居る人物全員が緊張感で疲弊するには充分な時間だった。
作品を読み終えた島谷が、深く息を吐く。
「君のことを見誤っていたようだ」
すまなかった、と島谷が謝罪した。
「改めてお願いします。娘さんとの結婚を認めてください」
男が頭を下げた。
「君は思ったより諦めが悪い男らしいね」
「はい。諦めが悪いので、認めていただけるまで何度もお願いに伺うつもりです」
睡眠不足で凄味を増した男の双眸が島谷を凝視した。
「こんな情熱的な恋文を読んで反対などできるもんか。だから、そんな怖い顔はやめておくれ」
今にも襲いかかって来そうな男の表情に、島谷は苦笑した。そして、
「どうだろう。君の気持を娘にも読ませて構わないだろうか?」
と、原稿用紙の束を持ち上げて見せた。
「はい」
男は頷いた。
娘を想い執筆した短編である。彼女が読むことに異論はない。
娘が島谷から原稿用紙を受け取り、読み始めた。
一枚、二枚、三枚。娘が読み進める。
十枚、十五枚、二十枚。進むほどに長い睫毛に縁どられた黒曜石の瞳が揺れた。
そして、三十枚。
娘は読み終えた原稿用紙を膝に置き、赤らめた頬を隠すように俯いた。
「私はあなたが好きです。私は、あなたを妻として迎え生活を共にしたい。あなたと愛し愛される関係を築きたい。そして、あなたを私の夢の向こうまで連れて行きたい」
男は俯く娘に向けて言葉を紡いだ。
「執筆に夢中になって寂しい思いをさせることもあるかもしれません。きっと、贅沢な暮らしだって、させてあげられません」
胸が昂ぶって声が震えた。男は一度、目を閉じて深く呼吸をした。そして、改めて落ち着いた声で話し始めた。
「こんな私ですが、あなたを幸せにしたい。私と夫婦になってくれませんか?」
娘が両手を畳の上について、深々と頭を下げた。
「不束者ですが」
琴の音のような娘の声が客間に響いた。
その後、とんとん拍子に話は進み、二人は秋に夫婦になった。
そして数年後、新人作家として文壇に上り小説家になるという夢を叶えた。
男の熱意と執着が、愛と夢を掴んだのだ。
鹿野園は白けた表情で前田を見た。
何が「愛と夢を掴んだのだ」だ。そんな陳腐な言い回しでよく雑誌記者が勤まるものだ。
そもそも、秋川を激励するためになぜ自分の話が引き合いに出されなくてはならないのか。全くもって腑に落ちない。
こんな状況もまるで違えば教訓にもならないような話を聞かされて、秋川もさぞかし迷惑だろう。そう思い鹿野園が目を向けると、秋川は全身に熱い決意を漲らせていた。
「決めました! 僕も熱意を持って彼女に想いを告げます」
頬を紅潮させ興奮気味に宣言する秋川に、鹿野園は苦笑した。あの話のどこに秋川を奮い立たせる要素があったかわからないが、何にせよ元気が出たのなら何よりだ。
「善は急げ。今から彼女に会ってきます」
秋川はいそいそと机を片付け、荷物をまとめると席を立った。
「前田さんのおかげで元気が出ました。ありがとうございました」
「おう。頑張って来いよ」
「はい。僕も鹿野園先生のように愛も夢も手に入れられるように頑張ります」
秋川は清々しい顔で言い放ち、帰って行った。
「気付かれてしまったな。名前は伏せていたんだけど」
秋川を見送り、前田が肩をすくめた。
「隠すつもりなんかなかった癖に」
弟子に妻との馴れ初めを暴露された恨みを込めて、鹿野園は前田を睨みつける。
「まぁ、良いじゃないか。幼気な青年を悩みから救ったんだから」
悪びれもせず飄々と言う前田に毒気を抜かれ、鹿野園は溜め息を吐いた。
「それにしても、何故あの場に居なかった君が僕の見合いであった出来事を詳しく知っているんだ?」
鹿野園が首を傾げた。婚約の際に鹿野園が話した内容以上のことを前田は知っていて、秋川に話して聞かせていた。しかも、所々おかしな脚色も加わっていた。
「ああ、お前の祝言の時に島谷氏と意気投合してな。鹿野園青治を応援する会を発足したんだ。で、その会合で島谷氏から聞いたんだよ」
秋川が残していったみたらし団子を摘まみ上げて、前田が言った。
「義父上……」
鹿野園は自身の舅が前田にべらべらと話しているのを想像し、あの人ならやりかねない、と頭を抱えた。
「ちなみに、お前の仲人も会員だ」
項垂れる鹿野園を尻目に、前田は追い打ちをかけるかのように付け加えた。
舅と上司、見合いの場に居た二人が仲間となれば前田が事細かに知っているはずだ。前田に話していない話が二人によって暴かれていたのかと思うと、鹿野園はぞっとした。そして、前田しか知らない学生時代まで舅と上司に筒抜けの可能性もあることに気付いた。
「今度からその会合には私も参加する」
鹿野園は言った。今後も自分の知らない所で自分に関することを共有されてはたまったものじゃない。
「応援する会に本人が参加するって変じゃないか」
前田は困ったように眉を下げて笑った。
「いや、絶対参加する」
鹿野園は一歩も譲る気はなかった。
これ以上、噂話のネタにされるのはごめんだ。なんとしても阻止したい。
「わかった、わかった。今度の会合には誘うから、そう怒るなって」
前田は片手で鹿野園をあしらい、もう片手で懐中時計を見た。
「絶対に声をかけろよ」
「はいはい。さて、そろそろ俺も帰らないと」
前田が湯飲みの茶を飲み干して立ち上がった。
「そういえば、何か用があったんじゃないのか?」
鹿野園は前田を見上げて尋ねた。
秋川の件ですっかり忘れていたが、未だ来訪の理由を聞いていない。
「大したことじゃないんだけどな。俺、春には父親になるんだ。今、ハツネの腹に俺の子がいる」
前田はさらりと言うと、荷物を持って書斎から出ていった。
「馬鹿! 大したことだろう! そんな大事なことを言い逃げするな!」
鹿野園は急いで立ち上がり、前田の後を追った。
前田とハツネは十年前に結婚したが、今まで子どもを授からなかった。周囲は前田に離縁を勧めた。しかし、彼はハツネを愛していると周囲に言い放った。ハツネと離れるぐらいならば、子どもなど要らない堂々と言ってのけた。
前田夫婦を見守り応援していた鹿野園にとっても、ハツネの懐妊は大変喜ばしいことだった。
「おめでとう。良かったな。本当に」
鹿野園は玄関で靴を履く前田の背中に向かって言った。
「おう、ありがとう」
振り返った前田が顔をしわくちゃにして笑った。
鼻の頭を赤くして目を潤ませた前田から喜びが伝染し、鹿野園の目頭を熱くさせた。
玄関先で前田を見送り、鹿野園は台所に向かった。
台所では博子が夕飯の仕度をしていた。西に傾きつつある陽が、博子の姿を白く眩しく照らすのを鹿野園はしばらく見つめた。
ふいに振り返った博子と目が合う。
「どうされました?」
博子が尋ねた。
「いや……、今日の夕食に一本つけてくれないか?」
鹿野園が右手の人差し指を立てて言った。
鹿野園は滅多に酒を飲まない。その彼が自ら酒を所望したことに博子とは驚き、目を丸くして頷いた。
「珍しいですね。何かありましたか?」
「前田のところに子どもができたらしい」
西日の眩しさと、込み上げる柔らかく心地良い歓喜に、鹿野園は目を細めた。
「まぁ。それは良かったですね」
博子もにこりと笑む。
ぐつぐつと湯気を出す鍋を博子がかき混ぜる。鰹出汁の香りが鼻先をくすぐる。
裏庭で我が子たちが遊ぶ声がする。
幸せだ、と鹿野園は思った。それと同時に、胸の奥が詰まるような心細さが彼をを襲った。
自分は前だけを見てきた。望むものを掴むために、ずっとがむしゃらに進んできた。そして、手に入れてきた。今の自分の幸福は、目の前の妻の支えなしには得られなかっただろう。
では、自分は妻に何をしてきただろう。ろくに贅沢な暮らしもさせてやらず、寂しい思いをさせてきたのではないか。今、自分が感じる幸福は独り善がりなものではないかと、鹿野園は思った。
「君は私と結婚して良かったと思うかい?」
私が幸福なように、君も幸福だろうか。
私は君を幸せにしてやれているだろうか。
「はい」
博子が振り返り、柔和な笑みで頷いた。
「あなたの夢の向こうに、連れてきてもらいましたから」
鹿野園先生と秋川君 @2222anpan
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