Ⅲ-129 落ちた御幣と拾われた心

「うぅ…ごめんね…?」

「全く、お前も不用心な奴だな」


 彼岸花の毒に当てられた祝明を寝かしつけると、太陽は一際赤く染まっていた。


 横になった祝明は時々苦しそうな呻き声を上げているが、一先ずさっきまでよりは楽になったように見える。


 だがしばらくは、彼岸花の球根なんて食べるどころか見たくもないだろうな。


「にしても、今日は疲れたな」


 妖力をオイナリサマにせがまれたと思えば、今度は祝明が毒に倒れた。


 これも向こうに帰る前の最後の一波乱だと思えば、少しは趣深く感じられるのか。


「いよいよその時も近いって訳だ」


 偶然に偶然の重なり合った予定外の旅路に、運命と呼びたくなるような出会い。


 オイナリサマ…昔爺さんが守っていた稲荷神社の、祭神様。


 もう二度と、稲荷のモノと関わり合いになることなんて無いと思ってた。本当に、何が起こるか分からないものだな。


「うぅ…お腹すいたぁ…」

「…分かった、お粥でも作って来る。だから大人しく待っとけよ」

「…うん」


 だがこの出会いも、向こうに帰る時が来ればお終いだ。


「…何か、話してみるか?」


 せめて最後に、会えなくなる前に。

 お稲荷様と、例えそれが完全な決別になってもいいから話がしたい。


 ついさっき結んだお粥の約束も忘れてしまうくらいの強い衝動が、俺の足を突き動かした。




―――――――――




 オイナリサマは、神社の離れにある書斎にいた。


 この建物は神社とは打って変わって洋風で、しかし森に隠れているから特に景観を損なうことも無い。

 収められている本は何万冊に達するだろう。ヒトの一生で、読み切ることは出来るのか。


 オイナリサマは入ってきた俺の姿に気づくと、読んでいた本を閉じてこちらに目を向けた。


「…コカムイさんは、落ち着きました?」

「ああ、オイナリサマの薬もやったし、このまま安静にしてれば問題ないだろうさ」


 俺に医学の知識はさっぱり無いが、外から見える症状は一通り収まっていた。


 薬にちゃんと効き目があれば、完治もそう遠い話ではない。…と伝えた。


「そうですか…良かったです。この一件は、私にも責任がありますから」

「…まあ、御手水で毒抜きしてたもんな」

「だって、参拝してくれるお客さんなんていなかったんです…!」


 顔を抑えて悲劇的に語っているが…そりゃそうだ。


 結界を通り抜けてまで参拝してくる猛者なんていないし、いたとしたらソイツに神は必要ない。


 もちろん言っても意味は無いから、俺の胸の中に仕舞っておくが。


「これからは気を付けような…?」

「はい、神に誓って」


 何言ってるんだこの神様。

 笑ってるってことは…ああ、ボケか。

 

「…それで、こんな時間にどうしました? コカムイさんの用事…ではないですよね?」

「ん、まあな」


 椅子を引いて差し出されたから、それに甘えて腰掛けることにした。


 すると向かいにオイナリサマが座り直して、俺たちは丁度見つめ合う形になった。


「話したいことがあるのでしょう? 私でよければお聞きします」

「ありがとう。でも、『私でよければ』なんて言わないでくれ」

「…え?」

「だってこの話は…オイナリサマ。貴女にしかできないから」

「……!」


 俺の言葉を聞いて数秒後、その意味を理解したようにオイナリサマは目を見開いた。

 そしてゆっくり、深く深く頷いて、とびきりの微笑みを俺に向けた。


「分かりました。神依さんのお話、しかと聞き届けましょう」

「…ありがとう」

 

 二度目のお礼を口にして、昔話を語りだす。


 そのお話の主人公は、神主様の孫だった。他ならぬ稲荷神社の家系に生まれた、他ならぬ俺のお話だった。




―――――――――


 


 ――そしてこれは、俺が、もはや誰にも話す気のない思い出の一欠片。今になっても忘れられぬ、懐かしき爺さんとの会話。


 それは確か…九才の正月のこと。


 長い間爺さんと会えない暮らしにいよいよ嫌気が差して、律儀に正月まで待って抗議に行った話。


『ねぁ爺ちゃん、やっぱり一緒に住めないの?』

『無理だ。お前はここに住むには無垢すぎる…前にも話したであろう』

『うぅ…』


 ”無垢”という言葉を、恐らくその時の俺は理解していなかった。


 ただ爺さんの口ぶりから、何かが足りていないと言われていることは何となく察していたはずだ。


『でも、爺ちゃんが守ってくれればいいじゃん!』

『はっはっは…簡単に言ってくれるのう』

 

 豪快に笑った爺さんは、奥に入っていなくなってしまった。

 だけど戻って来ると知っていたから、俺はじっと爺さんを待っていた。


『…やっぱり、誰もいないな』


 俺がしょっちゅう神社を訪れていたころは、そこかしこに人ならざる者が犇めき合っていた。


 俺が年に一回、正月にしか来れなくなってからは…一度も見ていない。


『やっぱり爺ちゃんのお祓いのせいかぁ』


 言葉こそ交わせなかったが、彼らとは何回も一緒に遊んだ仲だった。

 姿すら見えないのは、とても寂しかった。


『待たせたな、神依』

『爺ちゃん…それは?』


 奥から爺さんが持ってきたのは、先にいくつかの鈴と白い紙が付けられたお祓い棒らしきものだった。


 爺さんが小さい頃の俺にそれを持たせると、風も無いし揺らしてもいないのに鈴はりんりんと鳴り出した。


『え、何これ!?』

『これは御幣。それも、妖の類を察知する力を持っている特別な物。じゃから、辺りに妖怪がいると鈴が鳴ってその存在を教えてくれる』


 途切れなく、自らを意識させるように鈴は鳴る、鳴り響き続ける。

 

『すぐ近くまでは来れずとも、これがあれば確かに”いる”ことが分かるだろう。せめて、これで…』

『爺ちゃん…』


 幼心に、爺さんの優しさと、俺を妖怪から引き離してしまったことへの後ろめたさを感じ取った。


 この御幣一本でそれは十分に分かった。…だから、気になって仕方なかった。


『ねぇ…どうしてそんなに、俺と妖怪を離そうとするの?』

『…一度だけなら、見せても構わんか』


 小さく呟いて、爺さんは俺に隠すように左の手袋を脱ぎ始めた。そして、着物の左腕の部分も大きく捲った。


 そういえば、服を脱いだところなんて見たこと無かったな。そんなことを思いながら、俺は爺さんの左腕を目にした。


 …それを見たのは、たった一回きり。


 「また見たい」だなんて、お世辞にも思えない代物だった。


『え…その色は…?』


 爺さんの左腕は、指先から肘の辺りまで塗りつぶしたように赤かった。

 まるで絵本で見た鬼のような、少なくとも人とは思えない見た目。


『…驚いたか?』


 子供の目には衝撃的にも程があって、しかし子供だったから、俺はそこで止まらずに爺さんに近づけた。


『さ、触っていい…?』

『ははは、よもやそんなことを言われるとは。…ああ、いいぞ』

『…硬い』


 指の先が触れただけで分かった。この腕は人間のモノじゃない。そして、他にも異変はあった。


『何で…鈴が…?』


 爺さんに近づけば近づくほど、御幣に付いた鈴の音が大きくなっていた。

 一歩近づけば大きくなり、もう片方を踏み込めばさらに大きくなる。


『まさか…爺ちゃん…?』

『そうか…やはり、もう…』

『なんで、どうして爺ちゃんが!?』


 爺さんは俯き、手袋をはめ、着物を元に戻した。

 俺は御幣を地面に落として、ただ茫然とそれを眺めていた。


 そして、爺さんは拾った御幣を俺に再び持たせて…


『神依よ、この世の妖怪には…特に執着心の強いモノがおる。人よりも粘着質で、一度心に決めた者を決して逃さぬ執念の妖怪がな。儂は、奴らのような存在からお前を守りたかった。お前は儂と同じく、妖を引き付ける魂を持っておるのだから』


 爺さんは左の手で俺の頭を撫でた。手袋越しの感覚は、確かに柔らかく暖かかった。



 俺が覚えているのは、ここまで――




『――そしてそれは神も同じで、場合によっては妖怪より質が悪い。気を付けろ。神は、気に入った人間を我が物にするためなら手段を選ばぬぞ』


「……え?」


『滅多にないことだがな。…さあ、今日は帰るがよい。その御幣、大事にするのだぞ――』




 ――あれ、こんな記憶、あったっけ?



「……」


 オイナリサマに洗いざらい話したから、今まで掘り起こされなかった部分から蘇ったのか…?


 神様が、気に入った人間…


 今更思い出した理由は分からない。

 

 分からないし、理由があるのかも定かじゃないけど。何かを勘ぐらずにはいられなかった。




―――――――――




 さておき、それは俺が話さなかった事実で、全て頭の中での出来事。


 俺がを全て話し終えると、オイナリサマは頷いてまず一言呟いた。


「そうでしたか……道理で」


 いつの間にか現れたココアを口にし、彼女は天井を見る。俺も倣って喉を潤し、長く喋った疲れを癒した。


「…ああ」


 こうして全て話し終えると、途端に言葉が拙くなった。


 そうだ、この先は何を言えばいいんだ? そもそも、俺は何の為にオイナリサマにこれを話した?


 衝動に任せた向こう見ずの吐露は、何も実らず終わる未来しか見えない。


「……」


 オイナリサマも、額に手を当てて考え込んでいるように見える。


 それも当然だ。


 何の前触れもなく重々しい過去を語られた方の気持ちを俺は考えていなかった。せめて、もう少し早く考えが及べば。



 …ああ、そっくりだな。

 

 外の世界で、遥都にことを伝えたあの日。丁度その時も今も、別れを目前にしていた。


 やっぱり何も変わってないのかもしれないな、俺は。


「…悪い。おかしなこと、話しちまった」


 居たたまれない、もう戻ろう。

 俺はそっと椅子から立ち上がった。


「ま、待ってください! 何もおかしくなんてありません、神依さんの話が聞けて、私は…嬉しいです」


 オイナリサマも椅子から立った。


 だけど彼女は、立ち尽くして動けない俺とは違う。俺の目の前まで小走りでやって来て、両腕を固く掴んで離さない。


「…神依さん、あなたはきっと、外の世界から『逃げてきた』と思っているんでしょう」

「…そうだ」


 どんな言い訳で繕っても、その現実は消えやしない。俺は、逃げた。


「それでも、悪いことばかりではないはずです。こうして今、私たちは会えたのですから」

「……そう、なのか?」


 揺らぐ。甘い言葉に揺らされる。俺は、それを良しとしている。


「神依さん、私はあなたの味方です」

「…あぁ、ありがとな」

 

 そうだ、大した理由なんて無い。

 オイナリサマに聞いてほしかったから話した、それだけのことだ。


 話せて良かった、心がこんなに軽くなったから。



「例え私以外に味方がいなくなったとしても、神様の力でちゃんと守ってあげますからね!」

「…ハハ、そんな日が来ないといいけどな」

 

 とは言ったものの、割と可能性の無い未来じゃないぞ。


 良く会う中で俺に協力的に接してくれるのは、祝明と博士たち二人…つまり、合わせて三人。


 祝明の方はイヅナやキタキツネ…あと最近はギンギツネもか。その三人次第で対立することは十分予想できる。


 博士たちについてはそういった心配は少ないように思えるが、島の為とあらば…という片鱗は実は度々目にしている。


 料理で懐柔…それだって、限度ってものがある。


 だからこそ、オイナリサマがこんなことを言ってくれるのは本当に心強い。もうすぐキョウシュウに帰らねばならないのがとても名残惜しいな。


「神依さんは…ここに住み着いたりしてくれないんですか?」

「それは…悪い。一応、俺にも待たせてる二人がいるからな」


 祝明が電話した限りでは博士たち二人の話は出ていないようだが…多分、陰で愚痴ってるだろうな。


 『神依の作った美味しい料理は何処なのですか』とわめき散らす様子が簡単に想像できる。


「…そうですか、残念です」


 尻尾をぐでっと落し、耳をペタンと寝かせて、見るも分かりやすく落ち込んだ。…罪悪感が湧いてくる。


「そ、そんなにか…!?」

「そうですよ。私、神依さんのこと…結構ますから」

「…っ!」


『神は、気に入った人間を我が物にするためなら手段を選ばんぞ』


 爺さんの言葉が、オイナリサマの言葉に共鳴して脳裏に深く焼き付いた。


 まさか…そんなはず、ないよな…?



「そうだ…神依さん、これを」

「…え、御幣?」


 オイナリサマに手渡されたのは、今更見間違い様の無いモノ。


 記憶の中と違うのは、鈴がついていないことだけ。


「私特製の御幣です。たっぷり神気を込めておいたので、きっと神依さんを守ってくれますよ」

「…なぁ。オイナリサマって、心が読めるのか?」

「え? …うふふ、まさか。私は覚ではありませんよ。神様ですけどね」


 首をかしげてニッコリと微笑むオイナリサマ。

 

 いつもならただ麗しく見えるだけのその姿も、今の俺には理解の及ばない、正に強大な神のようにしか思えなかった。


 風の無いはずの書庫で、白いが揺れた――

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