ワルキューレ機行

蜂蜜 最中

第一章

序幕『勇者の死』

第1話

 薄らいでいく。絵の具を水で溶くみたいに、溶けて、蕩けて、滲んで、薄まっていく。

 魂が抜けていく感覚とは、ロッキングチェアに揺られる感覚に近いのかもしれない。どこか心地が良くて、安心してしまう。これは主の慈悲なのか? 彼に答えはわからない。


 ドイツ帝国陸軍の歩哨だったヴィルヘルム・フリードリヒ・フローレンヴェルグは鉄風雷火飛び交う戦場の真ん中で空を仰いだ。


 視界の端に映った丸い影に背筋が凍り、隣にいた名前も知らない戦友を突き飛ばしたら、光と衝撃に意識を刈り取られた。

 気が付けば真夏の塹壕の底で横たわっていた。浅い呼吸を繰り返しては喉から迫り上がる血液の塊に溺れそうになる。


 水場どころか水筒の水すらも無いのに溺死しそうになっていると、今にも泣きだしそうな空模様を引き裂く鉄の怪鳥を五羽見つける。


 それらが踊るようにくるくると回っては雲を引いて、弾丸を撒き散らす。さながら死出のはなむけのようだ。


 餞にしては少々火薬臭いが、兵士の旅立ちなのだからこのくらい無骨な方がきっと、らしい。


 掠れた意識は既に痛覚を気取ることすらできなくなっていて、ヴィルヘルムは小さく笑う。

 それとも血液の流し過ぎか、冷たさだけは感じることができた。凍える体は痙攣けいれんするみたいに小刻みに震える。

 震える度、死に近づいて行っている気がして。ヴィルヘルムはまた、小さく笑った。


 怖くはなかった。ヴィルヘルム自身、連合国軍の兵士を殺したから、いつ死んでも不思議ではなかった。まともに死ねるとも、思っていなかった。死んでいいとも、思っていた。


 父が死んだ。友も、教官も。もうこの世に誰も残っていない。


 最早、この世に未練はない。


「――生きてるか?」


 意識を投げうとうとしたその寸での所、一人の少年が現れる。この激戦区の西部戦線で一際目立つ、ブカブカな白衣を翻す少年だった。頭には申し訳程度にヘルメットを被っているのだが、白衣とヘルメットという取り合わせが絶妙に滑稽で、ヴィルヘルムは思わず口元を緩める。


「笑う元気はあるようだ。結構結構。ふむふむ、五体満足だが胸部に弾痕が八つ。心臓も肺も破裂しているな。出血も尋常ではない。これなら余裕で退役コースだ。何なら人生からの退役まである。むしろ、生きているのが不思議ですらあるね」


 ポカンと寒さすらも忘れて少年の言葉を他人事のように聞いていると、彼はヴィルヘルムとようやく視線を合わせる。


「――お前、これから僕にこき使われてくれないか?」


 なんともあんまりな一言だった。少なくとも、死の間際にある人間に投げかけていい言葉ではなかった。その程度には無慈悲な言葉だった。


「実はこれから大変なことが起きるんだ。いや、既に始まっていると言ってもいいだろう。それにあたって、立ち向かうことの出来る勇敢な人間が欲しくてさあ。ああ、聞いといてあれだけど、残念ながら選択権は与えてやれそうにない。時間的には切羽詰まっている。はいかyesか、どっちか選べって感じだ。もちろん冗談なんかじゃあないよ? 全て本気だ。本気でなければ、国の為に戦った勇者にこんな話は持ちかけない。だから、予め先に言っておく。済まない。僕のことは恨んでくれていい。その代わり、どうか頼む。今一度立ち上がってくれ。世界を救うために戦ってくれ」


 ヴィルヘルムは少年の言っている言葉がわからなかった。死に逝こうとする我が身に何故頭を垂れるのか? どうしてそんなに辛そうな顔をするのか? 何一つわからなかった。


 わかるのは冷たさだけ。凍えるような冷たさだけ。



 ――一九一六年、七月末。真夏の戦場に雪が降った。

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