優しい選択肢と背負う決意
「やぁ、エマ」
随分と陽気な声だった。
まるで古くからの友達だったかのように声を掛けられる。
そっと後ろを振り向けば、深緑色の髪の青年がいた。
私はハッと息を飲み込む。
一見ただの容姿端麗な男だが──今ではその顔には恐怖しか覚えない。
何故なら彼の名はルシファー、私の国や家族を滅茶苦茶にした張本人だからだ。
どうして今、私の目の前にこいつがいるの……?
唇が震えて、私は拳を握りしめた。
その拳をルシファーに思い切りぶつけようとしても、彼は軽く避けていく。
「はは、血の気が多いこと。王女なんだからもっとおしとやかにすれば?」
「ふざけないで!! よくそんなことをズケズケと──!」
その時、お腹に違和感を覚えた。
見ればルシファーの腕が私の、お腹を──。
ゴフ、と口から大量の赤い塊を吐き出す。
頭が真っ赤に染まった。何も考えられない。
嫌だ、嫌だ。
何度もそう呟いて、首を横に振った。
「逃げられないよ? 君は“勇者”になってしまったんだから」
「!」
「なに驚いたような顔をしているの? 君が決めたことなんだろ? ほら、」
ルシファーに顎を掴まれて、放り投げられた。
そのまま無様に地面に這いつくばる私の身体。
起き上がろうとしたけれど、突然の重みにそれは叶わなかった。
私の身体の上にママやパパ、おじいちゃんや、アムや……皆の身体が積み重なっていたのだ。
重くて、息苦しい。吐血もさらに酷くなった。
「──可哀想に」
ルシファーが私の顔を覗きこむ。
その瞳に私の泣きそうな顔がやけにはっきり映っていた。
「君はただの女の子なのにそんな重いものを抱えてるんだね」
「っ、」
「その上に勇者だとか王女だとかの鎖で縛られてさ。よく今まで窒息死しなかったねぇ」
誰のせいだ。
そう言おうとしたけれど、どんどん視界が狭くなっていく。
上からの圧力がどんどん増していっているのだ。
「僕が手を下すまでもなくいつかはソレに潰されて死ぬんだろうね、君」
──その一言を最後に、私の視界は押し潰されて暗闇に染まった。
「──っ、はっ、」
気付けば、呼吸が暴れていた。
見知らぬ天井。私の頭が混乱する。
ルシファーはどこにいったの? ここはどこ?
知らない場所にいるという恐怖と寂しさでどうしようもなくなる。
すると部屋がノックされ、ノブナガ君が入ってきた。
「! エマちゃん、起きたんだね!」
「ノブナガ君……ここはどこなの……あ、そ、それより毒は!? リュカは、」
聞きたい事が多すぎて言葉に詰まる。唇が思うように動かない。
代わりに涙だけが私の感情を消費してくれた。ポロポロと。
ノブナガ君がそんな私に戸惑ったようだった。
「エマちゃん!? 大丈夫!?」
「──、っく、ごめん。なんか、涙が──へへ、なんでだろ……勝手に……恐い夢見たからかな……」
必死に拭うけど止まらない。
私の嗚咽が納まるまで、ノブナガ君が私の背中を撫でてくれた。
その時の私を見つめる彼の顔があまりにも優しくて──私は次第に落ち着きを取り戻す。
そしてノブナガ君は話してくれた。今まで何が起きたのか。
どうやら私達はラファエルの試練を合格したらしい。
試練が終わったので神殿は静かに消え去り、毒に汚染された私達だけが海底に残された。
そこでずっと神殿の前で待っていてくれたガルシア王に保護されたというわけだ。
「ヒュドラの毒はガルシア王が涙を俺達に飲ませてくれたから浄化されたらしい。それでも二日は掛かったみたいだけど」
「! そっか。人魚の涙ね! あらゆる怪我や病気を治癒する効果があるとは聞いていたけれど、解毒まで出来るなんて……」
頭の中であの恐ろしい九つの頭を思い出す。今更ながらぞっとした。
「エマちゃん? どうしたの、そんなに顔をこわばらせて」
「……もう、あんな化け物とは関わりたくないなって思ってさ」
ノブナガ君が困ったように目を泳がせる。
……分かってる。そんなことが無理な話なんだって。
まだ試練は二つ残ってる。ヒュドラよりもっと恐ろしい化け物だっているに違いない。
相変わらず弱虫な自分に自嘲してしまう。
ノブナガ君がそんな私の手を強く握った。
「! ノブナガ君?」
「……ここから逃げる?」
「え、」と声が漏れる。
ノブナガ君は冗談を言っていなかった。本気だった。そんな顔をしていたのだ。
「逃げてもいいんだ。君が今抱えているものはたった一人の女の子に背負える程小さなものじゃない。ミカエル様だってそんなこと百も承知だよ。だから、逃げてもきっと何も言わないだろう」
「…………、」
「代わりに俺が勇者になるよ。君の苦しみを俺に背負わせてほしい。俺が、君の家族も国も守ってみせる。だから君は、逃げてもいいんだ」
ノブナガ君の言葉をじっくりと反芻する。
私は目を閉じた。今すぐにこの部屋の窓から逃げ出せばどうなるのだろう。
窓の向こうの深海に飛び込んで、化け物なんていないどこかの国へ泳いで行ってしまえば──。
そう想像したところででそっと目を開けた。
ノブナガ君の黒い瞳をじっと覗いて、あまりにも澄んだソレに、なんだか見惚れてしまう。
「──、ふふ、あはは」
「え、ど、どうして笑うの!? 俺は大真面目だよ!」
「分かってるよ。ノブナガ君の今の顔を見てたらそれくらい分かる。でもノブナガ君、何の戸惑いもなく言うからさ、私がぐだぐだ悩んでるのが馬鹿みたいに思えてきちゃって、」
「そ、そんなことは──」
「ありがとね、ノブナガ君」
私は窓に広がる薄暗い深海を見る。
「……でも、その選択肢を教えてもらったから分かったよ。やっぱり私がやらないとなって。ここで逃げたら私は一生逃げないといけなくなる。それは──勇者以上の呪いでしょう。それにそれじゃあ、パパやママやおじいちゃんに顔向けできないしね」
そうだ。ヒュドラに立ち向かうと決めた時に一緒に誓ったはずだ。私は絶対に逃げない、と。
ヒュドラの毒と一緒にその決意も解かされてしまったの? そんなはずない。まだ私の中にはっきり残ってるよ。
次にあんな夢みたら力いっぱい皆を持ち上げて、「ざまぁみろ」ってあいつに笑ってやるんだ。
ノブナガ君がそんな企みを思いついていた私に小さく「ごめん」と言った。
「なんで謝るの。むしろ感謝してる。ちょっと肩が軽くなったっていうかね。私の事を一生懸命に思いやってくれる人が傍にいることってこんなに心強いんだって実感した。君は本当に優しいんだね。いい
するとノブナガ君の顔が悲しげに歪んだ。
私は何かいけないことを言ってしまったのだろうか。
彼の顔色の窺おうとすれば、震える彼の両腕が私の両肩をがっしり掴んだ。
「え、エマちゃん!」
「!? え、」
「お、俺は、その、君を、友達としてじゃなくて──」
しかし彼の唇がその先を紡ぐことはなく。
カタン、と物音がした。
そちらの方を見る。ドアがほんの少しだけ開いているではないか。
声をかけると、リュカとガルシア王が顔を覗かせた。
何やらニマニマしているガルシア王。
「お邪魔してすまんなぁ。はっはっはっは! 若い若い!」
「いてっいてっ」
ガルシア王が「やるではないか小僧」と言いながらノブナガ君の背中をバンバン叩く。
リュカはというと、何故かかなり機嫌が悪かった。
「りゅ、リュカ? どうしたの? な、なんか元気なくない?」
「……別に」
「そ、そっか……」
その後、ガルシア王と今後の事を相談している間もリュカの機嫌がよくなることはなかった。
不思議に思っていたけれど、ガルシア王が私にこっそり「気にしてやるな」と教えてくれたのでそうすることにした。
──そして結局、私達は毒の様子を見るためにもう少しだけガルシア王の国であるアトランシータに滞在することになったのだった。
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