パパの誕生


「パパって、誕生日とかないの?」


 そんな愛娘の一言は魔王に過去を思い出させるきっかけとなった。

 中庭で遊ぶテネブリス探検隊とルーメンを傍らで眺めていた時、エレナが魔王の肩の上に座りながら、冒頭の質問を投げかけてきたのだ。


「エレナ! エレナも遊ぼうよ!」

「今はパパとお話しているから駄目~」


 やんちゃな弟を魔王の肩から軽くあしらうエレナ。


「そうだな。誕生日は……覚えていない。随分前の話だ」

「ふーん。パパもルーメンみたいに成長が早かった?」

「いや、ルーメン程ではなかった。成体になるまで……一年はかかったな」

「一年で大人!? それでも随分早いよ! 魔人って不思議だなぁ。じゃあパパはどれくらい前にアムとアスに出会ったの?」

「そうだな。アムドゥキアスとアスモデウスに出会ったのは──ううむ、いつだったか……三十年か四十年ほど前か。テネブリスを建てたのはそのすぐ後だ」

「へぇ。それまでパパは何をしてたの?」

「答えに困るな。過去を話すのはいささか恥ずかしい。……あぁ、姿を変えて人間として暮らした時期もあった」


 魔王の言葉にエレナはひっくり返りそうになってしまう。

 魔王がエレナの身体を瞬時に支えた。


「え、え? パパが!? 人間に!?」

「あぁ。孤独から逃げたいと足掻いていた時期だ。私も若かったな」

「う、嘘だぁ」

「さてどうだろうな。最初の質問だが、私が生まれた日は強いていえばエレナと出会った日だろう。エレナは“父親”としての新しい私を与えてくれたのだから」


 魔王は特に何も考えず、事実としてそれを言う。

 するとエレナは少し照れくさそうに「パパってそういう恥ずかしいことさらっというのやめた方がいいと思うの」とそっぽを向いた。

 魔王は「善処しよう」と返し、エレナを自分の身体から降ろす。

 ルーメンが恨めしそうに魔王を見ていたからだ。エレナと余程遊びたかったのだろう。

 エレナもそれに気づき、やっとルーメン達の輪に入っていく。

 魔王はそれを眺め、幸福をただ感じていた。

 すると、魔王の傍らにいつの間にかアムドゥキアスが立っていた。


 ──あぁ、アムドゥキアスの気配に気づかないほどに、今私は幸福に溺れていたのか。


 魔王は自分でその事実に驚きながら、気を引き締めなおす。

 

「魔王様がエレナ様を拾ってきてからもう十年以上経ちますか。時間とはなんとも早いものです」

「あぁ。娘や息子を持つと特にそれを感じるものだな」

「あの時は本当に驚きましたよ。まさか魔王様が捕らえられたゴブリン達を救いに行かれたと思ったら……死にかけの赤ん坊を抱いて帰ってくるんですから!」

「……そうだったな」


 魔王の闇の中に、赤ん坊のエレナの姿が浮かび上がった。

 十年前の、あの日。

 魔王が父親になった、あの日──。


 そう、あの日は魔王城の兵士であるゴブリンが数名、人間に捕らえられたと報告があったのだ。

 ゴブリン達は過重労働をさせられ、奴隷として扱われているという。

 それを聞いた当時の魔王は居てもたってもいられなくなり──直接、ゴブリン達が捕まっているという人間の集落に踏み込んだのだった。

 その集落は腕に自身のある戦士一行に支配されており、ゴブリン達に労働させるというのもその戦士たちの指示だと聞く。

 戦士たちは勇ましく魔王に立ち向かってきた。

 しかし魔王の圧倒的な闇の前では無力だった。魔王の闇はその集落の──全てを飲み込んだ。


 はずだった。


 戦士の亡骸を見た村人達が逃げていく。

 魔王はそれを追うことはせず、ただ攫われたゴブリン兵士の安否を確認した。

 その時だ。

 どこからか、気配を感じた。気配を追って、魔王は小屋に入る。

 そこには狂ったように地面に這いつくばった人間の女と──赤ん坊がいた。

 女は魔王を見るなり、死人と変わらない顔色になった。


「ああ、もう!! なんでこんな時に!!! こんなタイミングで産まれるのよ!!」


 赤ん坊は産まれたばかりなのか、体液でべっとり濡れていた。

 母親と思われる女も出産のダメージで動けないようだった。


「あの馬鹿男の子供の癖に! 私の人生めちゃくちゃ!! お前のせいだ、お前のせいだ! お前のせいで私は逃げられない! この怪物に殺されてしまう!! お前が、産まれてきたから──!!」


 女は赤ん坊に腕を振り上げる。魔王はその腕をほぼ反射的に掴んでいた。


「な、何よ、赤ん坊を庇う気? 怪物の癖に!?」

「この赤ん坊は、死ぬぞ」

「はぁ?」


 女は嘲笑した。


「魔王でも赤ん坊を憐れむ心はあるって? 笑い話ね。じゃあそいつあげるからここから出て行ってくれる? ほら、どうせ私もそいつも喰い殺すつもりでしょ?」

「そうか」


 魔王はそれはそれは優しく赤ん坊を抱いた。

 女は唖然とする。


「お前の言葉通り、この子は私がもらおう。お前は二度と、この子の母親を名乗るな」


 ──これは、ただの気まぐれなのだろうか。

 ──これは、ただの偶然なのだろうか。

 ──それとも、必然?


 ただ、考える前から、分かっていたように腕が動いた。

 長年求めていた宝が手に入ったような興奮で疼く。


 ──私は何を求めていた?

 ──仲間も、住む場所しろも手に入っている。

 ──他に、何が欲しいのだ?


 誘拐されていたゴブリン達が救出にきた魔王を見上げ、尊敬の眼差しを向けてくる。


 ──もう独りではない。

 ──この赤ん坊がいてもいなくても、変わらない。


 ──だが。


 魔王は魔法で赤ん坊の命を繋ぎ留めながら、城に帰った。

 そしてすぐに赤ん坊を救うための儀式を行う。

 死にかけの赤ん坊を救うことなど、簡単なことではない。

 しかし──魔王の血を──その溢れんとする魔力を、もってすれば──。


 魔王は自分の腕を切り、その血を赤ん坊の口内に垂らした。

 血は赤ん坊の粘膜に浸透し──身体中を巡る。

 そして。

 産声を、上げた。

 

 その時、魔王は分かったのだ。

 赤ん坊を──エレナを抱いた。


 ──魔王は、ただ怖かった。


 当時は特に人間と魔族の衝突が激しい時期だった。

 魔王城の兵士達がみな人間への怒りに燃えていた時だった。

 

 ──魔王は、


 怒りとは、沼だ。

 その者を深い深い所に沈めて、周りを見えなくさせてしまう。

 

 その沼から、救ってくれる光を、魔王は求めていた。


 は今、魔王の腕の中にあった。


 そして──その光は、今では立派な少女として、魔王の目の前を走り回っている。

 中庭に顔を覗かせたゴブリンやドワーフ、ラミア達がそんな少女らに手を振り、声をかけていた。

 もし光に出会っていなかったらこの城の者全員が沼から逃げ出せないただの怪物に成り果てていたかもしれない。


 エレナはいつも「魔族は皆とってもいい人よ」と言っているが。

 魔王にしてみれば、彼らをそうさせたのはエレナ自身だと確信している。


「恨みや怒りほど恐ろしいものはない」

「魔王様?」

「いや、なんでもない。気にするな」


 誰かを傷つけることしか考えられないことが、どれほど恐ろしいことか。

 誰かの為に己に何が出来るのかと考える事が、どれほど素晴らしいことか。


 魔王は改めて誓った。

 この先も、光を守り続ける事を。

 

 ──もう二度と、魔族を沼に沈めるようなことがないように。

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