黙示のメディカル・レコーズ(2)

 翌日、診察を終えた俺は馴染みの店へ急いでいた。最後の患者に小一時間ほど説教をしたことで、待ち合わせの時間に遅れてしまった。


「肝癌の患者が酒を飲むんじゃねーっての、まったく……」


小走りの一歩手前ほどの速度で歩を進めつつ、ひとりごちる。俺が受け持つ肝癌患者の一人が酒を飲んでいたことが発覚したのだ。クチでは生きたい、生きたい、と言っていたのに、行動が伴っていなかった。それは患者自身の意志の弱さかもしれないし、アルコールの恐ろしさなのかもしれない。


 俺も酒飲みだ。体の40%はビールでできていると言っても過言じゃない。それゆえに禁酒が辛いのはよく分かる。だがどんなに優れた治療をしたとしても、患者自身が病気を治すための努力をしないのであれば治りはしないのだ。そういう俺はもし肝癌になったら禁酒できるのかって?治療の方を諦めるかもしれないな。


 放射線治療。世界水準と比較しても、この国では放射線は絶対的な悪役として忌み嫌われている。二度の原爆に原発事故まで経験すればそれも詮なきことかもしれない。だが放射線はそこら中に存在する。トリチウムなんざ太陽光でバンバン作られてんだ、そう騒ぐなよっての。


 そんな放射線アレルギーともいえるようなこの日本で、がん治療における放射線治療の重要性はようやく認知されてきた。今ではその治療内容のほとんどが国民健康保険でカバーされている。今日の飲酒患者にしたって自己負担は3割だ。残りの7割の金は天から降って来るわけでもなく、壺から湧いて出てくるわけでもない。国民全体から金を集めている公的保険で賄われる。日本が世界に誇る国民健康保険、その額は年間40兆円を超えるに至った。一般会計100兆円とは別枠の、特別会計というやつだ。億を越えた時点で金銭感覚が麻痺してくるが、少なくとも国会議員や公務員の給与がどうのと言っているのが馬鹿馬鹿しくなる金額なのは間違いない。


 そんな大切な金を無駄にしないためにも、件の患者には禁酒できないなら治療を止めると脅しておいたが……こいつはきっと、いつものクレーム案件だろう。上司にどやされる明日の自分自身に対し、俺は溜め息で同情の意を示した。


 近年、医療がサービス業と言われ始めて久しい。今でこそ『患者さん』の呼称が復権してきたが、一時はそこかしこで『患者様』と呼ばれていた。病院にとって患者数は死活問題だ。患者の来ない病院など経営が成り立たない。だからか、患者が治療に非協力的であっても、ご機嫌を伺って強い指導をしにくくなった。まったくもってどうかしている。患者様は神様ですってか?金出してるのは国民だぜ、見ようによっちゃぁ議員やら公務員よりタチが悪い。――まぁ、それでもうまくやっている医者もいるようだから、どうかしているのは俺の方かも知れないが。


 生活指導医――肝癌と肺癌、そして緩和の放射線治療をメインで受け持つ俺は、いつしかそう揶揄されるようになっていた。禁酒・禁煙できない患者に対し厳しく対応するようにしているためだろう。自慢じゃないが、クレーム受諾数ナンバーワンの座を、ここ3年は譲っていない。


 とはいえ俺が解雇されることはなく、事実上は病院側も黙認しているような状況だ。必要に応じて副院長に対し、彼と秘書との不倫の証拠をチラつかせたりもしているが……。この権謀術数が渦巻く医療業界で、俺のような善良な医師が生きて行くには、こういった毒を身に宿すことも必要なのだ。


 そんな中、医長の相馬は部下の手綱を握るポーズを示すためか、ことあるごとに難癖をつけてくる。寛大な副院長の庇護下にある俺にとってはチワワの鳴き声に等しいが、精神的ストレスは積み重なる。いずれパワハラだかモラハラだかで訴えてやろうと思っている。



 そんなことを考えるうち、目当ての店に辿り着いた。


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