リニアックの凶刃―放射線治療殺人事件―

ヱビス琥珀

黙示のメディカル・レコーズ(1)

 お手上げだ。


 机の上で堂々巡りを繰り返す難題に、俺は頭を搔いてため息を吐く。目の前にはグラフが描出されたノートパソコンと、ウィスキーの入ったグラス。体積を失った氷が白骨化した小動物の骨格のようにバランスを崩し、カラリ、と小気味の良い音を立てた。


 家に帰ってきてもデータ整理をしているなんて、俺もなかなか仕事熱心になったもんだ。酒を飲みながら、だが。


 神怒川カドカワ県のがん拠点病院、聖叡智セント・ソフィア病院の放射線科医。それが俺、荒木耕平の肩書きだ。放射線科に所属する医師の多くは診断、CTやMRIの読影による病気の診断を主とする事が多い。しかし俺のメインは治療だ。放射線治療専門医の資格も取得している。


 グラスに手を伸ばし、琥珀色の液体を啜る。イスの背もたれに体を預けてもうひとつため息を漏らすと、BGMとしてかけていたロックミュージックが鼓膜を震わす。Pay Money To My PainのRain。若くしてこの世を去ったそのボーカリストの歌声を、ライブで聴くことはもう叶わない。失われた魂が永遠に戻ることがないらないのと同時に、失われたチャンスもまた永遠に戻らないのだ。Linkin Parkのチェスター・ベニントンも、Slipknotのポール・グレイも死んでしまった。命を燃料に楽曲を作り出しているとでも言うのだろうか。


 頭をひと振りし、意識をディスプレイ上のエクセルシートに戻す。それは論文を書くためにまとめていた、聖叡智病院で過去に放射線治療を受けた乳癌患者の治療後の経過を示している。15年前から10年前までの5年分、実に800人にのぼる臨床データだ。それを多変量解析ソフトに放り込んで出てきた回答が、いま俺を悩ませている。


——ある2年間に治療した患者だけ生存率が顕著に低く、乳房内の再発率に関して見れば約2倍——


 そんな結果が出るなど、どう考えてもおかしいのだ。平たく言えば、医療ミスでもあったとしか思えない。理解できない、いや、理解したくない。俺が着任する遙か前の話とはいえ、自分が勤務する病院でそんなことが起きたなど、考えたくもないものだ。だが。


「ちっ、仕方ねぇ。ちょいと調べてみるか……。」


 面倒ごとは嫌いだが、見過ごすわけにもいくまい。同じ過ちを繰り返さないためには、何があったかを知らねばならないのだ。義を見てせざるは勇なきなり、だったか。俺の場合は勇気というよりやる気だな。仁義八行以前の問題だ。


 とはいえ、調査すると言っても俺自身が動くわけじゃあない。俺には過去の出来事を覗くことは出来ない。霊能力者でも超能力者でもありゃしねぇからな。ならばどうするか?過去を記憶しているもの……そう、放射線治療装置リニアックに聞けばいい。機械は物忘れをしない、機械は嘘を吐かない、最高の証人だ。じゃあ俺が機械の声を聞けるのかと聞かれれば、残念ながらそいつもノーだ。放射線治療のことは理解しているつもりだが、放射線治療のこととなるとそこまでの技術はない。医者が治療装置を知らないのは無責任だと?何を言うか、それをフォローするために専門職があるのだろう。八百屋が農薬の化学構造を知らないとして、誰が彼を責めようか。高度に発展した文明社会において、一人の人間が全てを把握するなど不可能なのだ。


 この問題を調査するにあたってふさわしい人物が、俺には一人しか思い浮かばなかった。すでに退職したスタッフを巻き込むのは気が引けるが……あいつだったら、まぁいいか。


 椅子から腰をあげて少し背を伸ばし、机の上で行儀よく待機していたスマートフォンに手を伸ばす。連絡先を検索し、通話アイコンをタップ。呼び出し音が3回ほど鳴った後。


『……はい、もしもし?』


 返ってきたのは怪訝そうな返事。この声を聞くのも1年半ぶりか。


「よう高杉。久しぶりだな、荒木だ。」


『げっ、荒木先生!?あっ、いやその、えーと。こちらこそご無沙汰してます。先生の携帯の番号は存じませんでしたので……失礼しました。』


「はっ、ずいぶんなご挨拶じゃねぇか。まぁいい。明日、時間はあるか?ちょいと話もあってな、久しぶりに一杯どうだ。」


 俺の言葉に、迷う素振りもなく聞きなれたセリフが返ってきた。



『先生のおごりですよね?』

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