ある異世界の片隅で
ターレットファイター
第1話
「主任、黒煎茶をどうぞ」
そう声をかけられ、反射的に書類から目を上げると、澄ました顔の女性が使い捨てのカップを差し出してきた。助手のウィンディーネだ。使い捨てのカップから立ち上る香ばしい薫りは黒煎茶のものに違いない。資料リストを置いてカップを受け取る。水面に三十絡みのオッサンになりかけた男の姿が浮かぶが、それを無視して軽くすすると口の中にじわりと苦味が広がった。酸味もなく、苦味もさほど後を引かない。いい茶葉を使っているであろうことが察せられる味だ。
「ありがとう。これは列車の?」
「いえ、私が持ってきたものです」
そういってウンディーネは黒煎茶を静かにすする。確かに、客室の片隅のスタンドに備え付けられている茶葉はパッケージからして安物だと一目でわかるものだった。
黒煎茶を片手に客室の妻面上半分をまるまる占領している [現在の世界線離心度]表示盤を見やる。離心率ゼロ、基底世界線を中心に各群世界線を示したその地図のなかでC世界線群のみに光が当てられ、暗色の世界線図の中から浮かび上がっていた。その線上、十一号世界線と十二号世界線の間でランプがひときわ明るく輝いている。世界線というのはグラーデーションのように緩やかに変化しながら連続的に分布しているのではなく、それぞれがはっきりとした差異をもって離散的に存在しているものだから、今列車は世界線のはざまにある何もないところを走っているはずだった。そんな場所を走る列車だから、当然の如く客車には一切の窓がない。 十一号世界線と十二号世界線の間で列車の現在地を示すランプはゆっくりと十二号世界線群の方へと移動している。移動していく先をたどると、十二号世界線の先には十三号、十四号と番号が振られた世界線がプロットされている。今回の出張の目的地はその中に含まれる世界線、C群第十三号世界線である。そして、十三号世界は、故郷でもあった。
「ずいぶん考え込んでいるようでしたが、どうされたんです?」
「ああ、向こうで探すべき資料についてもう一回目を通しておこうと思ってね」
そう答えると、ウンディーネはテーブルの上に投げ出された繊維シートを見やって納得したように頷いた。紙のような手触りのそのシートには、十三号世界線のある地域で確保すべき資料が一覧になっている。普段は世界線を越えて配送できる事業者を介して通販で購入していたが、そのリストに載っている資料はどれも通販では購入できないものばかりだった。だからこそ、いつものように研究者の依頼を受けて基底世界線の〈大書庫〉から発注し、内容を確認、分類して〈大書籍体系〉の中に組み込むというふうにはいかず、こうして異世界行きの列車に揺られている。
「そういえば今回の調査対象地域、主任の故郷でしたっけ」
そんなことをぼんやり考えながら資料リストの書名と、それが購入できる(あるいはそうであることが期待できる場所)の羅列を眺めていると、ウィンディーネがそう声をかけてきた。「そうだね」と短く答える。
今回の目的地は第十三号世界線の中で「トウキオ」と呼ばれる地域だった。現地の発音に従えば「とうきょう」と呼ばれるその地域へ前に足を踏み入れたのはもう十年以上前のことだ。ある朝目を覚ますとそこは異世界だった。そうしてまあ、もろもろの偶然があって今もその異世界、基底世界線で仕事をしている。ありとあらゆる世界線につながり、世界線転移技術を持つ基底世界線で他の世界線から収集されてきた記録や技術、文化などに関する資料を収集する〈大書庫〉の司書だ。気が付けば、もうその仕事に就いて十年以上が経ち、基底世界の〈大書庫〉がある都市の街並みに郷愁を感じるようになっていた。
別に十年の間、故郷へ帰ることに全く興味がないわけではない。ただ、一回馴染んでしまえば基底世界の暮らしは快適で楽しいものだったし、帰りたいという気持ちも余り長続きしなかっただけだ。それに、こうやって異世界へ旅行することはこうやって何か業務上特別な理由があるのでもない限り、まずないことであった。
もう何回も最終頁まで目を通して内容もほとんど頭に入っているリストをひっくり返し、ちらりと[現在の世界線離心度]表示盤を見やる。向かいに座ったウィンディーネも退屈そうにしていた。あと一時間ほどはこの状態が続くだろう。娯楽小説の一本でも持ってくればよかった。
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