第585話 夕凪の海

 李軍リージュンの言う「異世界最強説」は、今のところ叶に論破され、ガタガタである。


 確かに叶の説には、一理も二理もあった。

 元の世界で人生に失敗した者が、異なる世界で成功する保証などどこにもない。むしろ、文化習俗価値観おまけに物理法則すら異なるかもしれない異世界では、こちらの世界における成功者ですら厳しい戦いを強いられるに違いないのだ。

 それに、引きこもりニートはどんな世界に行ったって「引きこもりニート」というその人物の本質を覆せるものではない。愚か者はどこに行ったって「愚か者」だし、コミュ障は、所詮どこに行ったって「コミュ障」なのだ。


<――まぁ……どんな世界だって、支配層は支配層ですし、底辺者は底辺者のままですからね。それは認めましょう。ですが――>


 李軍は語気を強めた。


<――ですが先生、ひとつ大事なことをお忘れですよ!? このポータルでは、ありとあらゆる世界に……>

「――!!」


 その一言に、叶は思いがけず動揺する。だが士郎は、なぜ叶が動揺したのか、今ひとつ分かっていない。


「……そうか、つまり――」

<えぇ! ようやくお気づきになりましたか?>

「ど……どういうことだ!?」


 士郎は堪え切れずに話に割り込む。すると李軍が勝ち誇ったような感情を迸らせているのが伝わってきた。まったく――コイツとの同期は、実に忌々しい……


<――要するに、この世界で誰かが命を落としたとしても、その人がまだ死ぬ前の時間軸に戻れば、いくらでもを選択し直すことができるわけです>


 ――!!

 それってまさに、今自分たちがやっているタイムリープそのものじゃないか――!?


 今の士郎は、未来みくが死なない未来みらいを選び直すために、二度目の生を繰り返している真っ最中なのだ。


 だが、士郎の場合は特例だ。神さまである広美ちゃんの助けを借りて、ようやく『因果の螺旋樹』に辿り着き、極めて例外中の例外としてタイムリープという恩恵にあずかったに過ぎないのだ。そしてそれはもちろん――誰でもがやれることではない。

 もし誰もがそれを自分勝手に行使し始めたら、この世界を構築しているさまざまな因果関係が破綻し、世界の成り立ち、そして秩序が根底から破綻してしまう。


「……まさか……このポータルを使えば、過去や未来に自由にアプローチできるから……」

<その通りです。だからこそ、これには価値がある。特別な人間だけではない、誰もが利用できるということこそが、このシステムの最も重要な部分なのです。そして――>


 李軍はまたもや、尊大に間をおいた。


<――この機能を用いれば、人は二度と死を恐れる必要がなくなる――>

「……事実上の……不死化ということか……」


 士郎は、ようやく声を絞り出した。これは、どこかの間抜けが一発逆転を狙って異世界に転移しようとか、そういう類の話ではない。それはあくまで娯楽の世界の夢物語。

 要するに、このポータルの最も危険なところは「異なる世界へのアプローチができる」という機能そのものではない。それを「誰でもが自由に扱えること」なのだ。


 世界の時間軸を、不特定多数が恣意的に操作できてしまうということ――

 あらゆる世界線に、誰でもが自由自在に介入できてしまうこと――


 その時だった。

 デス・スターの下方から、大きなどよめきが起こる。残存している帝国兵たちだった。いったい何が――

 だが、次の瞬間士郎は慄然とする。


 空全体に幾つもあるゲートのひとつが、俄かに大きく拡大されたのだ。今や蜂の巣状に開いた無数の穴の、とあるひとつだ。

 もちろんそんなことができるのは、李軍に違いない。そしてその理由を、士郎は瞬時にして理解した。

 その大きく開かれたゲートの向こう側に広がる世界が――


 太平洋戦争末期の、大日本帝国の姿そのものだったからだ。


 その映像はまるで映像クリップのコラージュのように、次々と戦時下日本のさまざまな場面を映し出していた。

 例えばそれは、南方のどこかの島でバンザイ突撃をする日本軍守備隊の壮烈な姿であった。あるいは空襲で焼夷弾に焼かれた、どこかの町の様子だった。普通の家族が、親子が、幼子が、年寄りが、逃げ惑っている。

 その中には、敵味方両軍の装備や戦旗、地形などから、具体的な場所さえ特定できるシーンまであった。

 例えばそれは、大和の水上特攻の場面だった。延べ数千機の米機動部隊艦載機に襲われたその艦上は、真っ赤な血で染まっている。そうかと思うと、零戦が敵艦に体当たり攻撃をする直前の映像が映し出された。片道燃料しか積んでいない特攻隊機が、次々に激しい対空砲火を浴びせられ、撃墜されていく。

 そして――あぁ……あの火炎放射器で無残に焼かれているのは、間違いなく沖縄の非戦闘員たちだ。琉球家屋独特の赤瓦が、その周囲に散乱している――


 帝国兵たちから発せられるどよめきは、そのうち慟哭に変わっていった。

 その時だ――


石動いするぎ少佐……ヂャン将軍から通信だ……」

「え……」


 ためらう間もなく、士郎は叶から受令機を渡される。


『――石動です……』

『あぁ、すまない石動少佐――実は、列線の帝国兵たちが、どうしてもあの中に突入させてくれと……アレは別次元の光景だから気にするなと言ったんだが……どうやら納得してもらえそうにない』


 ――!!

 ついに……恐れていたことが起こってしまった。


 ある日突然、士郎たちの世界に出現した帝国陸海軍兵たち――

 彼らはもともと、今から145年前の、現役の大日本帝国軍の兵士たちなのだ。最近ではようやくこちらの世界にも慣れ、もはやこっちで骨をうずめる覚悟さえしていた様子だったのだが――


 目の前であんな場面を見せつけられて、動揺しないわけがなかった。だってあの中の世界こそが、本来彼らがいるべき時空なのだから――


 あちらには、戦友もいるだろう。家族や大切な人だって残してきているはずだ。そんな人々が、目の前で断末魔の悲鳴を上げているのだ。

 

 彼らを助けに行きたいと願う帝国兵たちの思いは、痛いほどよく分かった。それは、至極まっとうな感情だ。だが――


 何より最悪なのは、今や行こうと思えば誰でも……

 あのトンネルの中に入っていけるという事実だった。そう――それは、この世界のことわりを完全に破壊してしまう行為だ。


「――ど……どうすれば――」


 士郎は思わず叶を見る。だが――

 叶は厳しい表情のまま、固まっていた。確かにこれは、極めて難しい判断だ。


 もちろん歴史の事実としては、大日本帝国は昭和20年8月に無条件降伏を受け入れた。だから万が一ここで帝国兵たちがあのゲートをくぐって向こうの世界に戻ったとしても、本来の世界線の上では、その大きな歴史的事実を覆せるものではないだろう。

 ただ、彼らが歴史に介入することによって、本来あそこで死ぬはずだった多くの人々が、その死を回避できるかもしれない。だがそうなると、次に起こるのはたったひとつ。


 新たな世界線の出現だ。


 人々の運命が変わった瞬間、世界線はタイムパラドクスを回避するため、新しい分岐を生むに違いないのだ。そして当然、その新しい世界線は、今の士郎たちとは一切繋がらない、未知のルートということになる。


 だったらいっそ――


 士郎はついそう思ってしまった。そんな士郎の感情を後押しするように、李軍がまたもや頭の中に語り掛けてくる。


<――どうしました!? さぁ、助けにお行きなさい。今の皆さんほどの戦力があれば、にっくき鬼畜米英を押し返し、同胞たちを窮地から救うことが出来るはずだ。ほら、あの人たち、助けを求めていますよ? もっと生きたいと、必死で願っていますよ……>


 くッ……

 李軍が、士郎たちをけしかけているのは明白だった。


<――さぁ、奇跡を起こすのです。このポータルは、そんな奇跡が簡単に起こせる、夢のシステムなのです。私たち四次元世界の住人は、本来『時間』という次元を任意に操作することができない。でも今なら……今なら奇跡を自由自在に操れるのです。太平洋戦争当時の日本が連合軍に敗退したのは、あくまで戦略的な理由によるものです。個々の戦闘、局地的な戦術では、最後の最後まで皆さんは決して連合軍に引けを取らなかった……さぁ今からでも遅くはありません。行って同胞たちをお救いなさい>


 恐らくその声は、帝国兵たちの頭の中にも響いているのだろう。彼らの動揺と焦燥が、空間全体にますます強烈に広がっていく。その誘惑はとても抗いがたく、魅力に満ちたものであった。


 それでも未だ帝国軍部隊が統制を保っているのは、彼らが鉄の規律で縛られているからだ。そしてそのことが、士郎たちに辛うじて冷静な思考を促す。


「――いや……駄目だ」


 叶が決然とした様子で言い放った。それは『幽世かくりよ』侵攻部隊の総指揮官、叶元尚中佐の言葉だ。


「――石動少佐……我々はこのポータルを一切使わない」

「中佐……り、了解しましたッ!」


 士郎は思わず敬礼し、そして受令機に向かって応答する。


『――張将軍! 却下だ! 帝国兵たちに、転移は却下だと伝えてください。これは、総指揮官叶中佐の命令です!』

『……了解だ! その旨帝国軍の部隊長にただちに伝える。元の世界への転移は却下――承知した』


 ブチッ……と無線が切れる。


<――な、なぜ……!? 信じられません……私は別に、変な策略など仕掛けていませんよ!? このままゲートを通り抜けて行けば、あなた方日本軍は、敵に圧倒的な反撃を繰り出せた。多くの同胞が、犬死せずに済んだんです>


 李軍が呆れたように口を挟んできた。

 だがその言葉を聞いた瞬間、逆に士郎は妙に腑に落ちてしまった。それは本当に驚くべきことなのだが、なぜ叶がそれを却下したのか、すべて理解できてしまったのだ。


「……じゃない」


 士郎は、思わず口走る。


<え? なんです!? よく聞こえなかった……>

「……犬死じゃない……」


 それは、士郎の本心だった。そしてそのことを否定される気は、さらさらない。特に、李軍に否定されるのだけは、どうしても許せなかった。


<なんて――>

「いいか李軍、彼らは決して犬死じゃない。もちろん太平洋戦争は、俺たち日本人に拭いきれない大きな傷を残した。だがな……その敗戦という経験があったからこそ、俺たちは62年前のあの時、決然と立ち上がることが出来たんだ」

<えっと……62年前……って2028年、あぁ――日朝戦争ですか……それがいったい――>

「――日本が原発テロに遭い、3万人の国民が一瞬にして命を落としたあの時、俺たち日本人はおよそ一世紀ぶりに外国に対し宣戦布告したんだ」

<え、えぇ……厳密には、確か87年ぶりのことでしたね>

「そんな細かい数字はどうだっていい。だが、それがなぜだか分かるか!? 一国平和主義で、軍事に対して病的なほど臆病だった我々日本人が、自らの意思で戦争という行為を選択した……」

<えぇっと……ただ、その前年に日本は中国大陸に進出しましたね? もちろん中国内戦を監視する国連軍の一員という位置づけでしたが……それで心理的ハードルが下がったのでは?>

「それは違う――」


 叶が口を挟んできた。


「――日本は21世紀に入ってから、中東やアフリカでも国連平和維持活動に幾度となく参加している。中国への派遣もその一環とみるべきだ。それに対し日朝戦争は、日本が単独で宣戦布告した、過去100年の中で唯一の選択だ」

<えっと……>


 戸惑う李軍に、士郎が畳みかける。


「――俺たち日本人はな、かつてご先祖様がその命を賭して守ってくれた国土を蹂躙されることが、どうしても許せなかったんだよ。この国は俺たち日本人にとって、絶対に守らなきゃいけない神聖な故郷なんだ。大切な人と一緒に暮らせる、大切な居場所――それを一方的に蹂躙し、放射能で汚染する行為を繰り返した隣国を、俺たちは決してなぁなぁで許すことはできなかった。その結果――」

「日本という国土は守られ、僕たちは未だに日本人と名乗ることが出来ている……」


 叶が言葉を継いだ。それは、負け犬には決して真似できない、価値ある結果だからだ。士郎は、李軍の貧しい反論に引導を渡す。


「つまり――ご先祖様たちの死は、決して犬死じゃない。俺たちに、を、ちゃんと認識する価値観を教えてくれたんだ」


 いつの間にか、戦場全体の刺々しい空気が穏やかに変化していた。それはヂャン秀英シゥインの、ほんのちょっとした気配りだった。

 李軍の声だけが一方的に兵士たちに届いていることを察した彼は、その李軍と真っ向向き合っている、我らが指揮官たちの会話を密かにモニターし、兵士たちに聞かせていたのである。


 士郎の話は続く。


「――確かに同胞の死は、胸が張り裂けそうなほど悔しいし、悲しい。でも、そうした傷のひとつひとつもまた、今の自分たちを形成してきた、大切な疵痕なんだ。それらを全部含めて、今の俺たちの存在価値がある」


 それは、かつて士郎が未来みくの『アポトーシス』によってその身体を欠損した時、オメガたちがその力を結集して士郎の身体をつぎはぎに修復してくれた時の話と全く同じだった。


 『金継ぎ』――

 割れた椀を、漆と金箔によって美しく修復する、日本古来の技法。


 過去に受けた疵もまた、今のあなたを形成する大切な一部なのだとそっと教えてくれる、優しくも凛とした思想――


 士郎はそれと、自分たちの経てきた歴史を重ね合わせたのだ。


 それに気づいた帝国兵たちは、やがて夕凪の海のように、静寂を取り戻していく――

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