第571話 水中の決死隊
久遠と
その光景はまさしく『
「――まさかコイツ……みんなの異能をすべて我が物にするつもりじゃないだろうな!?」
そんなことになったら大ごとだ。
ただでさえ今のオメガたちは『覚醒』し、一人ひとりの異能は凄まじいレベルにあるのだ。そんな彼女たちの能力をすべて手中にしてしまったら、手の付けられない凶獣と化すのは火を見るよりも明らかだった。
どうにかして、奴を止めなければ――
その時だ。
『――少佐ッ!
無線が飛び込んでくる。田渕だった。
『田渕少尉!?』
『スミマセンッ!! 部隊の再編に手間取りました。既にそちらの状況は把握していますッ』
あぁ――なんて頼もしい……
恐らく田渕は、
そしてようやく、反転集結してくれたに違いなかった。
見回すと、周囲は既に特戦群と帝国兵、そして自由日本軍の兵士たちで埋め尽くされていた。まさに完全包囲だ――
『――ありがたい! だけど、今キノと文が捕まってしまった』
『直接攻撃は? やめといた方がいいですか?』
『うむ……少し待ってくれ……』
士郎は再び怪物を見上げる。先ほどの楪たちのように、亜紀乃と文はその液体状の球体の中に取り込まれていた。中でくるくると回っているのは、もがいているせいだろう。
いっぽうくるみは、辛うじて踏みとどまっていた。だが、こちらもそろそろ限界のようだった。既にその場にへたり込み、顔を上気させながら女の子座りでモジモジしている。
士郎はそんなくるみを見て、咄嗟に先ほどの光景を思い出した。彼女が、その異能で怪物に一撃を喰らわせたシーンだ。確かにあの瞬間、李軍はたじろいだ――!?
そうか――少なくとも、まったく歯が立たないわけじゃない。外からの攻撃も、あるいは多少なりとも牽制になるのだろうか――
『――田渕少尉! 通常兵器でどこまで通用するかは分からんが、あの化け物に向けて何か攻撃してみてくれ!』
『えっと……中にいる亜紀乃さんと文さんは……?』
『あの球体に取り込まれている限り、こっちの攻撃そのもので傷つくことはないだろう。それより今は、奴の気を逸らすことが最優先だ!』
『了解しましたッ!』
そうだ――
そうすればあるいは、二人があの中から脱出するきっかけを作れるかもしれない。
直後、雨あられと銃弾が撃ち込まれた。
球体の殆ど直下に詰めている、特戦群兵士たちからの一斉銃撃だ。途端、球体の下半分が、激しく水飛沫を立てる。
すると程なく、今度は迫撃砲弾が次々に放物線を描いて球体に吸い込まれていった。こっちは帝国兵たちだ。日本陸軍は伝統的に、迫撃砲攻撃を得意としている。歴戦の帝国兵たちは、目測だけで正確に球体の上半分にその砲弾を命中させていった。
球体の上半分には、次々と大きな水柱が立つ。
下からはライフルの一斉射撃、上からは迫撃砲攻撃――球体全体が、一気に水煙に包まれていく。
『どうですかッ!? 効果はありますかッ!?』
田渕が訊いてくる。球体のほぼ直下に位置する士郎たちならば、中の様子が見えるのだ。だが――
もともと「水」というのは、銃砲弾に対して極めて高い防御力を発揮する。空気よりも圧倒的に分子密度が高いせいだ。
通常なら有効射程500メートル以上もあるアサルトライフルや、破壊力抜群の50口径対戦車ライフルでさえ、その水中貫通力は1メートルにも満たないという。
これらの強力な火器は、初速が早すぎるせいで水表面に着弾した瞬間、大幅にエネルギーが減衰されてしまうのだ。却って9ミリ拳銃など初速の遅いハンドガンのほうが、よほど水中貫通力がある。まぁ、それでもせいぜい2、3メートルといったところだが。
だから防御力を強化することを目的として李軍がこの形状を選んだのだとすれば、それは実に正しい判断だ。案の定――
『――芳しくない……中までは……まったく届いていないみたいだ……』
その返答に、無線がしばし沈黙する。これほどの飽和攻撃でも、牽制にすらならないのか……
だが、士郎たちに悩んでいる暇はなかった。その球体の表面が、突如として変色し始めたからだ。
――!?
士郎は嫌な予感に包まれる。そしてそれは、すぐに現実となった。その変色部分に当たった銃砲弾が、突然跳ね返されるようになったからだ。
『――少佐ッ! 銃弾が跳ね返されていますッ!!』
再び田渕の声が響く。その瞬間、士郎はその原因に思い至り、そして戦慄した。これは――
間違いない。文の異能力だ。彼女はその類まれな運動能力で知られているが、もうひとつ、途轍もない異能を備えている。『皮膚硬化能力』だ。その硬度はダイヤモンドの十数倍。
その能力を……この怪物は自分のものにした――!?
黒い変色面は、徐々に球体を覆い始めていた。その変化速度はそれほど早いものではなかったが、それでも徐々に徐々に、球体全部を覆い尽くしていく。
マズい――このままでは、そのうち手も足も出なくなる!
その時だった。田渕から再度無線が飛び込んでくる。
『――少佐、我々を突入させてくださいッ!』
え――突入ってどこへ……!?
田渕の声が再度響く。
『少佐ッ! 取り敢えず一個分隊、水中活動装備を搔き集めました。あの球体、見る限り“水”だと思います! あの中に突入して、取り敢えず二人だけでも救出します!!』
『し……しかし――あれがただの「水」だという確証はない。そんなことしたら、少尉たちだって――』
『構うもんですかッ! 自分ら、今まで散々オメガさんたちに助けられました。みんな助けに行きたがってるんです! 頼みますッ!! 許可をッ!!!』
士郎は、田渕たちの決意に思わず胸が熱くなる。
そうだ――今必要なのは、逡巡することじゃない。即断即決することだ――
『――よしッ! じゃあ田渕少尉以下一個分隊、怪物の腹の中への突入を命じる。オメガ二名を救出せよ!』
『ウゥオッ!!』
それから程なくして、10名の精鋭たちが球体のすぐ傍まで駆け付けてきた。もちろん、全員死を覚悟しての志願兵だ。だが、どの兵士もみな、どこか清々しい表情をしている。義を見てせざるは勇無きなり――ということか。
「少尉……俺も一緒に行きたいところだが――」
「分かってます。少佐は全体の指揮を! 個別事案は我々に任せてください」
それは、最期になるかもしれない会話だった。二人はキリッと顔を見合わせ、そしてザッと短く敬礼を交わす。
目の前に、球体の最下部が浮かんでいた。そこから田渕が球体内部を覗き込むと、遥か上方に二人のオメガがぽっかり浮かんでいるのが見える。必死でもがいているが、恐らく窒息するのは時間の問題だ。
その様子をしっかりと目に焼き付けた田渕は、クッと右手を上げると分隊員たちに指示を下す。全員が完全被覆鉄帽にエアポンプを繋いでいた。ポンプはそのまま背中に伸びていて、その背中には何やらランドセルのようなものを背負っている。酸素ボンベだった。お互いの装備を確認し合った兵士たちは、全員が右手の親指を突き立てる。準備完了――
次の瞬間、決死隊は次々と球体の中に飛び込んでいった。
***
もう……駄目かも……
その時亜紀乃は、ほぼ諦めかけていた。
それでも必死で鼻と口を塞いでいたのは、ここでガバっと口を開けてしまえば、空気を渇望している自らの肺が、喉から入ってくるものが空気だろうが水だろうが、全力で吸い込もうとすることが分かっていたからだ。
そんなことをしたが最後、自分は完全に溺死する。もちろん、あとせいぜい10秒くらいしか息を止めておくのは不可能だと知っていた。それでも限界いっぱいまで、抗いたかったのだ。
今さら死ぬのは怖くない。だけど……
亜紀乃はどこかで信じていたのだ。きっと、少佐がなんとかしてくれる――
ここで頑張れば、もう一度みんなに逢える……
だが、既に亜紀乃の身体は限界を迎えつつあった。
頭がガンガン痛い。まるで万力で締め付けられているようだ。四肢の先端はさっきから痺れはじめていて、肺と喉が焼け付くように熱い。身体中が「息を吸え」と悲鳴を上げている。
ぎゅっと瞑った瞼の裏に、無数の星がチカチカと点滅し始めた。耳がぎゅぅーんと詰まって、ついに意識が飛び始める。
もう……無理……だ……
ついに亜紀乃は、自らの身体が発する激しい生存本能に耐え切れなくなった。次の瞬間、ついにその口をガバと大きく開き、胸いっぱいに何でもいいから吸い込もうとしてしまう。刹那――
いきなり頭部をがしりと掴まれたかと思うと、すぅぅゥゥゥ――と新鮮な空気が胸いっぱいに充満していった。
――!?
直後、亜紀乃はむさぼるように何度も深呼吸をして、その空気を吸いまくった。そして――
ようやく目を開ける。
目の前にいたのは、兵士だった。誰!? 士郎少佐!? ……いや――この人は……
するとその兵士は、亜紀乃の頭を左右から手で挟み込むと、コツンとフェイスシールドを当ててきた。
この人は……田渕少尉――!!
田渕は、亜紀乃の口にズッポリとマウスピースを突っ込んでいた。そこから、しゅぅ――と空気が惜しみなく注入されているのが分かる。
空気――!
つい数瞬前まで、死ぬほど欲しかった空気だ。
田渕少尉が、助けに来てくれた――!!
すると、あっという間に酷い頭痛も手足の痺れも、嘘のように消えていった。視界が大きく広がり、ようやく亜紀乃は周囲を見渡す余裕ができる。
少し離れたところで、文が同じように助けられていた。兵士が数人ずつ、自分と彼女のところに寄り添ってくれているのが分かった。
この人たち……わざわざ私たちを助けに、ここまで来てくれたの――!?
思わず亜紀乃は、子供のように傍にいた田渕に抱きついた。いっぽう田渕はそんな亜紀乃を、まるで娘を慈しむようにそっと抱きしめる。
さぁ、脱出しましょう――
シールドの奥の優しげな眼で、田渕がそう告げていた。亜紀乃はコクリと頷くと、田渕につかまりながら後を追う。ふと横を見ると、文が同じように兵士数人に囲まれ、泳ぎ始めていた。
辺りの様子が微妙に変化していたことに気付いたのは、その時だ。
なんでこんなに暗いの……!?
亜紀乃はそう思って、ふと周囲を見回した。そして今度こそハッキリと、その異変の原因に気付く。
通常、水の底から水面上を見上げると、日中であれば外光がキラキラと射し込んで、明るく水中を照らすものだ。そして、さっきまでここはそんな感じだった。
だが今は、その大半が薄暗く、先ほどまではハッキリと見えていたはずの水中の奥の方が、今はほとんど見えなくなっている。
そう――水面が、何かに徐々に覆われ始めていたのだ。それはいってみれば、流氷が押し寄せてくるのを水中から見上げているような、そんな光景だ。
このままでは、ここに閉じ込められる――!
いっぽう田渕の方を見ると、彼は厳しい表情で水中をグングン突き進んでいた。そうか……彼らは、こうなることを最初から知っていたのだ――
水中は、あっという間に暗闇に閉ざされつつあった。今や明るく光っているのは、真っ直ぐ進行方向上の一点のみだ。あそこが唯一のゴール穴だ。あそこまで辿り着けば、ここから脱出できる――
二人を伴った兵士の一団は、ますます必死で水中を泳ぎ、閉じられつつあるその小さな一点に、必死で辿り付こうとしている。塞がれる前に、なんとかあそこまで行こうとしているのは明らかだった。
ドクン――!
亜紀乃の心臓が跳ね上がった。せっかく助けてくれたのに、このままじゃ全員この中に閉じ込められる――!?
亜紀乃は必死で泳いだ。隣の文もだ。だが、つい先ほどまで溺死する寸前だった二人の身体は、思うように動かない。その動作は至極緩慢で、当の本人たちがそれを一番分かっていて、そして焦りは頂点に達しようとしていた。その唯一の出口が、今にも閉じられようとしていたからだ。
その時だった――
数人の兵士たちが、一斉に亜紀乃たちを追い越していく。彼らは屈強だから、さっきから水中でも機敏に動いているのだが、見ていると、それら兵士たちはゴール穴に向けて一直線に水中に並んだのだ。
それはまるで、滑走路の進入灯のようだった。途端、一番近くにいた田渕少尉が、亜紀乃の肩をむんずと掴むと、ためらうことなく前方に力強く押し出した。
えっ――!?
すると、その先に待ち構えていた別の兵士が、やはり同じように亜紀乃を掴み、先ほどと同様、ぐわっと彼女を前方に送り出す。
そうやって次から次へ、まさにバケツリレーの要領で、亜紀乃はグングン前へ送られていったのだ。
文も同様だった。あれほど遠く見えたゴール穴が、あっという間に二人の目の前に迫ってきて……そして次の瞬間――
どさッ――という音とともに、亜紀乃と文はついに球体の中から脱出を果たした。
その直後――
最後まで開いていたその穴が、ギュッと固く絞られる。ついに球体は、完全に覆われてしまった。
もちろん、その中に一個分隊の兵士を残したまま――
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