第515話 玉座

 士郎は、死ぬほど後悔していた。なぜ気づかなかった――


 ついに繭畑の最奥――万魔殿パンデモニウムの魔王の玉座に取りついたのだ。

 あれほど苦労し、犠牲を払って辿り着いた、中国軍司令部中枢。敵首謀者である李軍リージュンの立て籠もる、悪魔の棲家――


 その扉を開けた瞬間、すぐに気付くべきだったのだ。まるでドライアイスのような白い蒸気が、濛々と扉の向こうから溢れ出てきた時に――


 その扉の奥は、まるで一切の光を拒絶するかのように、漆黒の闇がその口を大きく開けていた。士郎たちはそこへ、何の準備も心構えもなく、飛び込んでしまったのだ。気がはやっていたのだろうか……それとも、慢心していたのだろうか――


 その“小屋”は、少なくとも少し大きめの喫煙ルームくらいの大きさだった。しかも、その外壁はなんだか半透明のすりガラスのようにボウッと明るく光っていて、きっとその中に李軍はいるのだと無意識に思っていた。

 そこにオメガたちがなだれ込めば、秒も経たずにあっという間に小屋を制圧できる……はずだったのに――


「――士郎くん……ッ 士郎くんッ――」

「――未来みくッ!? どこにいるッ!!」

「……ここだよ……士郎くんッ……見えないよ……」


 未来の声だけが、どこかから聞こえてくる。だが、その姿はどこにも見当たらない。

 そこには、ただ果てのない暗闇の空間が広がっているだけだ。


 一応床はあるのだろう。足元にだけはしっかりと地面の感触があった。だが、だからといって地面というか、床そのものが見えているわけではない。


 しかしもっと深刻なのは、横方向と上方向の空間には、まるで終わりがないということだ。いや、見えないのだから本当はそれすらも分からないはずなのだが、延々と空虚な空間が、茫漠と広がっているような気がする。それは、士郎の遠近感すらすっかり奪い去ってしまっていた――


 どう考えてもこの空間は、あの貧相な小屋の中ではなかった。外から見たサイズと、目の前に広がる空間のサイズでは、明らかに辻褄が合わない……


 その答えは、ひとつしかなかった。小屋の扉から飛び込み、異次元空間に落ちたのだ――


 士郎は、今更ながらエヴァンスたちのような建物突入行動ハウスクリアリングの専門家たちを随伴していなかったことを悔やむ。彼らなら、きっと突入する前にワンクッション置いただろう。そして内部の危険を察知し、飛び込む前に何らかの対策を立てたはずだ。


「――まずは全員が何とかして合流するんだ! みんな自分の位置を、なんとか知らせられないかい?」


 叶の声だ。


「少佐ッ!?」


 くるみの声――! 「くるみッ!!」

 士郎は思わず叫ぶ。


「士郎さんッ! どこ!?」

「待て! みんな落ち着け――」


 そうだ――まずは落ち着くんだ……

 まだ声の聞こえない者もいるが、どうやらお互い見えないだけで、すぐ傍にいるに違いないのだ。だって、声は聞こえるのだから――

 心なしか、その気配すらうっすら感じられるような気もする。


 士郎は、じっと目を瞑って考える。次の瞬間――思いついたのは、オメガたちにとって至極当たり前のことだった。


「――みんなッ! 同期シンクロナイズしてみよう!!」


 そうだ――こんな時、お互いを感じるには同期するのが一番だ。それはたとえ数千キロ離れていたって、お互いの感情を共有できる、オメガ特有の仕組みだ。オメガたちと士郎なら、きっとできる――

 次の瞬間――


<――士郎?>


 久遠の感情が、ほとばしるように士郎の頭の中に流れ込んできた。<……久遠か!?>

 続けて――


<士郎きゅんッ!>


 この甘ったるい感覚は、間違いなくゆずりはだ。よかった! 見つけた――という感情は、きっと今、楪にも即座に伝わっているはずだ。


<――ねぇみんな……みんなで士郎くんのところに集まろう!?>


 未来の感情がなだれ込んできた。同時に、それに同意するみんなの感情が津波のように押し寄せてくる。そうか――逆にここが異空間である分、このシンクロナイズという感覚が研ぎ澄まされているに違いない――

 即座に士郎たちは、今までにない複数の共有感覚を味わう。


 次の瞬間――


 士郎と、未来と、くるみと、久遠と、そして楪が、そこに抱き合って一緒にいた。まるで折り重なるように――


「――わわっ……!?」「え――?」

「びっくりしたぁ」「……っと!?」「ひゃあ……」


 お互いの距離が、ほぼゼロ距離だった。つまり――5人は密着し、突如としてそこに実体化したのだ。お互いの存在を直に肌で感じ、心から安心する。


「――えっと……よかった……」


 その瞬間の士郎の顔はきっと、真っ赤だったに違いない。士郎だけではない。きっと、他の子たちも同様だっただろう。しばらく戦闘しかしていないから、こんな感覚を忘れかけていた。


「――ねぇ、かざりちゃんとキノちゃんは? 少佐は?」


 あぁ……そうだ。

 この三人とのシンクロナイズが困難だろうということは、ほんの僅かだが予想していたことだ。なぜなら、士郎と文、士郎と亜紀乃は、他のオメガたちのように恋愛感情を共有していないからだ。

 この二人は、士郎にとってどちらかというと妹のような存在だ。ましてや叶少佐に、そんな感情は一切持っていない。


「――だれか合流できたかい?」


 また叶の声が聞こえる。


「はい! 未来、久遠、くるみ、ゆずは自分と合流できました。でも――」

「やっぱりね! この空間は、もしかしたら一人ひとりが自分自身で構築してしまった、それぞれが独立した世界なのかもしれない。それを破るには、お互いが強く惹き合う必要がある! 誰か私を強く思ってくれないか!?」

「……はい……そうしてるつもりなんですが……」


 士郎は困り果ててしまう。叶に対する感情は、尊敬、信頼といった類のものだ。当たり前だが、恋愛感情などこれっぽっちも持っていない。そもそも、この同期現象は、対オメガのみに有効なのだ。同期を目指すなら、士郎ではなくオメガの誰かに任せるしかない。だが、果たしてこの子たちに、叶に対する恋愛感情……せめて憧れのような気持ちを持っている者がいるだろうか……


 その時、ようやく救世主が現れた。


「――えっと、私……少佐が見えます。キノちゃんも……」


 その声はかざりだった。


「――見える!? なんで……?」

「分かりませんが、見えるんです。右目だけですけど――」


 右目だけ……?


 士郎ははたと考え込んでしまう。なんで右目……?


「あ――! それって!」


 叶が素っ頓狂な声を上げた。


「――それって、かざりちゃんの銀色のほうの目だよね!?」


 ――!!


 そうだ――

 文は今、オッドアイなのだ。以前の戦闘でその右眼を失って以来、彼女はしばらく隻眼だったのだ。それが『幽世かくりよ』と『現世うつしよ』のそれぞれの意識を交換し、そのあとまた元に戻った際、なぜだか彼女の失った右眼だけが、銀色の瞳で復活したのだ。


 それってまさか……あの……なんでも見通せるという『ホルスの目』――!?


「はい――とにかく、みんな見えてるんで、今から順番に合流していきますね」


 文はそう言うと、おそらく亜紀乃から合流を始めた。ほんの僅かだが、彼女のホッとした感情がふわっと伝わってきたからだ。恋愛感情はなくても、それくらいの感覚共有はもちろん可能だ。


 しばらくすると、士郎たちの目の前に叶と亜紀乃を連れた文が現れた。ということは……やっぱり叶の感情は共有できなかったということか――


「――かざりちゃんッ!」「みんなッ!!」


 士郎の微かな懸念をよそに、なぜだか叶が、また大好物を見つけてしまったような顔をしていた。


「――いやぁ! みんないろんな角度で立ってるんだもの……この空間、上下左右の感覚もその人によって違うみたいだよ」

「え? そうなんですか!?」


 士郎は思わず訊き返す。人によって上下感覚が違うというのは……同じ空間なのに上下逆さまや横を向いて立っていた人がいるということか――

 つまりそれは、ここがということだ。だとすれば、ますますここが異次元空間であるという状況証拠が揃ってしまう。


「――このグループは、こっちが下向きなんだね」


 そう言いながら、叶が足元の地面――と思われるもの――を踏みしめた。その時だった。


「――やぁ……ようやくみなさんお揃いのようだ」


 ――――!!!!

 それは間違いない。この玉座のあるじ――


「――李軍ッ!!!」

「待て待て待て――」


 その声は、なぜだか先ほどまでの彼の声と異なっていた。そうか――スピーカではなく、この声は地声なんだ……

 つまり、李軍は間違いなくこの空間にいるということだ。だが、士郎にはその姿がどうしても見えない。その声も、確かに地声には間違いないのだろうが、少しリバーヴがかかっているようだ。つまり、風呂の中でしゃべっているような声だ。


「――かざり!? 見えるかッ?」


 先ほど、なぜだかみんなの姿が見えると言った文。その銀色の右眼が、世の中のあらゆるものを見通す『ホルスの目』なのだとすれば……


「見えるよ。彼は目の前にいる――でも……」


 やはり――!

 でも……なんだ!?


「この男は、既に人間の姿じゃない……」

「え……?」

「――なんだかとても気味の悪い……そう……何かの壷にでも収まっているような――」


 壷――!?

 いったいどういうことだ!?


「――ほぅ……そっちには、私の姿が見えている者がいるんだね」


 李軍がうそぶいた。


「さすがは異なる次元を経験したことのある皆さんだ。この空間を共有できるとは、実に心地よい。もっとも、君たちはもう、外には出られないがね」


 ――!?


 今……なんて言った――!?

 確かに先ほどから、自分たちは驚いてばかりだ。だが、今の李軍の発言はそれまでとは毛色の異なる話だ。背筋にゾッと冷たいものが走った。


 もちろん、今の状況がかなりヤバいことは直感的に分かる。士郎は、『幽世』から帰還する際に誤って迷い込んでしまった次元の狭間での出来事を思い出し、身震いした。

 そんな……冗談じゃないぞ……


「――いったいどういうつもりだッ!?」


 士郎は、見えない李軍に向かって精一杯威嚇してみる。だが、案の定彼には何の牽制にもならない。


「賢明なみなさんならもうとっくに分かっているはずだ。ここは外の世界とはまったく異なる空間です。あれを見てみなさい――」


 その途端、士郎たちの眼前に、何やら映像が浮かび上がっていた。これは何だ!?


「あッ――」


 亜紀乃が思わず声を出してしまう。ほぼ同時に、士郎もその映像が何なのか、理解してしまった。


「これは……外の……」

「えぇ――あなたのお仲間ですよ。もっとも、約1名は確かつい先刻まで我が軍の兵士だったようですがね……それともでしたかな……?」


 そこには、この空間の外側にいるであろうミーシャと田渕たち第一戦闘団の兵士たちが映っていた。

 ただし、その動きは実にゆっくりだ。静止しているわけでもなさそうだが、その動きはとても緩慢で、まるで超スロー再生の動画を見ているようだ。


「――お気づきになりましたか!? 彼らは今、私の下僕どもと戦闘の真っ最中です。そうですね……みなさんがここに侵入してから5秒ほど経った頃でしょうか!?」

「え……!? 5秒? 5分の間違いじゃないのか――」

「いいえ。間違いなく、単位は合っていますよ。いや、もしかしたら4秒ほどかもしれません。正確でなくて実に申し訳ない」


 この男は、一体何を言っているのだ!? 俺たちがここに入って、そして何が何だか分からなくなって、ようやくみんなと合流するまで、少なくとも数分間は経っているはずだ。

 叶が、ハッとした様子で口を開く。


「――時間の経過が……ズレているね……?」

「おぉ! さすがは叶博士!」

「はぁ!? 時間がズレてるって――」


 士郎は思わず口を挟む。


「――言葉通りだよ」


 叶が言葉を継いだ。


「――こちらの世界と、ミーシャ君たちがいる外の世界では、時間の進み具合が異なっているんだ……そうですね、李博士?」

「はははっ! さすがは叶博士――その通りですよ」


 何を……何を言っているのだ!?

 さっきからコイツは……何を言っているんだ――!?


「……中尉、落ち着くんだ。ここは恐らく、何らかの高次元だ。もしかしたら、事象の地平シュバルツシルト面の境界あたりなのかもしれない」

「シュバルツシルト面――!?」


 それは、初めて士郎たちが並行世界に転移する前後に知った、物理境界のことだ。時間を含めたあらゆる次元が歪み、余剰次元が垣間見える特異空間――

 異次元との境界線――


「――でもなんで!? そんなことは……普通の人間にはできないはずだッ! ここにはヒヒイロカネのご神体だってないのに――」

「おやおや――随分見くびられたものだ……この私にできないことがあるとでも?」


 李軍が傲岸不遜に言い放った。


「――ここは私の世界……私にできないことなど、何もないのですよ」

「ふざけるなッ!」


 士郎は堪えきれずに怒鳴る。


「貴様は……貴様はいつだって、誰かの命や、誰かの大切なものを……まるで自分のモノのように扱っていただけじゃないかッ! 貴様自身で何かを成し遂げたことなど……何もないじゃないかッ!!」


 士郎の言葉にビクッと反応したのは未来だ。それと同時に彼女の脳裏に浮かんだのは――


「――李軍ッ! オマエはッ……」


 未来は泣いていた。その時、士郎の中に彼女の感情が迸る。クッ……それは、途轍もない悲しみだ。

 士郎の脳裏に、未来の想いが怒涛のように流れ込んでくる――

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