第495話 ヘルズキッチン

 そこは今や、まさに地獄の釜というか、悪魔の胃袋とすら称してもいいかもしれない。


 東京駅地下――俗に『八重洲地下街』と呼ばれていた都心の一大ショッピングモール。今や廃墟と化したこの巨大な地下空間のどこかに存在するはずの敵司令部を目指し、決死の突入を図ったオメガ特戦群だが、まんまと敵の術中に嵌まり、気が付けば進退窮まっていたのである。


 駅正面、丸の内線に通じるエレベーターシャフトを伝って地下街にエントリーした士郎たちは、さっそく超高濃度の放射線撒布という卑劣な洗礼を浴びた。

 それを何とかやり過ごし、更に地下階に下りて行こうとしたところで、今度は敵兵が巧みな偽装工作で待ち伏せていたのである。もっとも、これについては斥候役の久遠たちによって事前に察知され、逆に敵の意表をつくかたちで先制攻撃、事なきを得た。


 ここまでは良かったのだ。だが――


 敵はいきなり士郎たちの退路を断ってきたのである。

 突然分厚い隔壁が次々に降りてきてあらゆる通路を塞がれ、まさに袋の鼠にされてしまったのだ。


 おまけに、斥候役の久遠とゆずりはの様子が先ほどからおかしい。そんな二人を見たかざりは、いきなり殺意を剥き出しにして、彼女たちに襲い掛かる始末だ。


 まさに、敵に――というのが今の偽らざる現状だった。


「――中尉、あの二人の目を見てくれ」


 叶が険しい表情で久遠と楪を見つめていた。


「え、えぇ……あの瞳は、例の子供たちそっくりです……」


 二人の目は、もはや士郎が知っている彼女たちのそれではない。その瞳は真っ赤に染まり、白目の部分は黒く変色している。間違いなく、あの灼眼の子供たち――確か情報部によれば中国軍は『神虫』と呼称しているらしいが――の目と同じだった。

 叶が躊躇いながら続ける。


「もしかすると――」

「え……?」

「――もしかすると、敵は彼女たちに何らかの即効性遺伝子改変を試みたのかもしれない……」

「即効性……遺伝子改変!?」


 そんなこと、医学的にはあり得ないことではないのか――!?


「中尉……自分でもそんな馬鹿な――とも思うが、でも彼女たちの外見症状を見る限り、そうとしか考えられないんだ……」

「だって……遺伝子操作の結果って何週間も経たないと現れないんじゃ……!?」

「あぁ、その通りだ。通常ならね……」


 簡単に整理しよう。

 この時代の遺伝子操作の主流は、Aという個体から取り出したオリジナル遺伝子になんらかの改変を施した後、再びAの身体にそれを戻し、ゆっくりとその改変気質の発現を待つというやり方だ。


 ここでいう「オリジナル遺伝子」というのは『幹細胞』のことだ。

 『幹細胞』とは、自分と同じ細胞を複製する能力と、別の種類の細胞に分化する能力――すなわち、どんな臓器や器官にも成長し得る能力――を持つ細胞のことだ。ちなみにそうした能力を持たない普通の細胞のことは、ただ単に『体細胞』と呼ぶ。


 で、この『幹細胞』にはそれぞれ、人体のというコマンドがあらかじめそのDNAに組み込まれている。遺伝子操作はその“目的のパーツ”をピンポイントで狙うわけだ。

 例の、狙ったところのDNAを自由自在に切り貼りできるという『CRSPRクリスパーCas9キャスナイン』という遺伝子操作技術が大活躍するのはこの部分だ。


 ただ、『幹細胞』の優れているのは、一応はこうやって“どのパーツに成長するか”が決められていても、ある程度は恣意的にそれを変更できるところだ。

 たとえば、肝臓になる予定の幹細胞を使って、心臓を作り出すことだってできる。

 この時代の傷痍軍人が、損傷した手脚や臓器を比較的容易に再生できるのは、この幹細胞技術が確立されているからだ。


 話を元に戻そう。こうやって改変を加えた遺伝子を含む『幹細胞』は、当然ながら人体の新陳代謝の中で成長し、その機能を発現し、定着していく。

 先ほども少し触れたが、人体の細胞が新陳代謝でひととおり入れ替わるのは、平均して約3週間だ。


 ということはつまり――遺伝子改変を施された人間がその新しい機能を発現させるには、通常だと3ということだ。


 これでも、一昔前に比べたら相当早くなったのだ。初期の遺伝子改変は、同一個体に発現させることすらできなかった。幹細胞技術が確立されていなかったため、その気質が発現するには、次の世代を待つしかなかったのだ。『デザイナーベビー』と呼ばれる遺伝子改変体もこれの一種だ。


 ともあれ、現時点での最新遺伝子医療によっても、遺伝子改変に即効性がないのは常識だ。


 仮に即効性があるとしたら、それは唯一、急性放射線障害によって遺伝子が瞬間的に破壊された時だけだ。先ほど超高濃度放射線を浴びて、生きたまま形象崩壊を起こし絶命した特戦群兵士、負傷中国兵たちのように――


 それ以外に、ポジティブな意味で“遺伝子の即効改変”が行われるなど、医学的に絶対あり得ないのだ。

 なのに――


「……じゃあ……あの二人に、いったい何が起こったんですか!?」


 士郎は食い下がる。だって、二人の異変の責任が士郎にあるのは明白だったからだ。

 二人を斥候として先行させ、さらに敵兵と交戦するよう命じたのは、間違いなく士郎なのだ。


「……中尉も薄々感づいているだろう? さっきの戦闘だよ。もしかして李軍リージュンは、待ち伏せさせていた兵士の中に、何らかのウイルス的なものを仕込んでいたのかもしれない……」


 ――――!?


「……ま……まさか――それって、伝染病保菌者キャリアをわざと戦場に残していったという……あの……」

「あぁ、それは中国軍のまさに十八番おはこだ」


 かつて中国戦線で、追い詰められた人民解放軍はわざとチフス等の伝染病キャリアを戦場に残し、侵攻してきた国連軍兵士数万人を意図的に感染させたという悪名高い前科がある。

 しかもそれが極めて悪質だったのは、自軍の兵士にわざとその致死性病原菌を注入したことだ。まさに人命無視、人権無視の悪魔の所業だった。


 それと同じように、何らかの遺伝子即効性のある有機物を、あの待ち伏せ兵たちに仕込んでいたのだろうか……


「――で、でも、そんな簡単に伝染うつるものなんですか? 接触時間はたかだか数分でしょう!?」

「もし血液感染だったら?」

「……」

「彼女たちのことだ。恐らく敵兵を完膚なきまでに殲滅したことだろう。要するに、相当返り血を浴びているはず、ということだ。その血液飛沫が、目や鼻、口などから体内に侵入しない保障はない。場合によってはエアロゾル感染という可能性だってある」


 その瞬間、士郎はある重大なことに気付く。まさか――


「……も、もしかして……直前の放射性物質撒布は、オメガこれに感染させるための……」


 叶は、相変わらず眉間にしわを寄せ、疲れたような顔で士郎に同意した。


「――あぁ……オメガは放射能耐性を持つ。そのことは当然李軍も知っていたはずだ。そのうえで放射線を検知したら、我々普通の人間は当然のこととして対放射線防護措置を講じるだろ?」

「――でもオメガは……」

「そう。彼女たちは特に放射能による悪影響を受けないから、戦闘時に視界が狭まる被覆鉄帽フルフェイス装着は敬遠するはずだ。現に、久遠ちゃんもゆずちゃんも装着していなかった」

「……その状態で敵兵との戦闘に入れば……」

「あぁ、感染の危険性は、防護措置を講じていないオメガだけに生じる。そこに何らかの深い意図があった可能性は否めないよ……たとえば、オメガにそれを感染させることで効果を発揮する、何らかの『ノックイン遺伝子』とか……」


 なんという狡猾――


 もちろん、即効性の改変遺伝子が実在するかは別として、李軍のことだ。どんな奥の手を使ってくるか、分かったものじゃない。


 だが、そうしたからくりもさることながら、差し当たって今一番深刻なのは、目の前の問題だった。


「――二人とも、やめてッ! かざりちゃんも!!」


 未来みくが悲痛な声を上げ、双方の真ん中に立ち尽くしていた。

 気が付くと、くるみも士郎を庇うように立ち塞がっている。もちろん、殺意を剥き出しにした久遠とゆずりはの攻撃から、士郎を守るためだ。

 亜紀乃は、いつでも割って入れるよう、息を凝らして全員の動きを見守っている。


 そして、容赦なく最初の一撃を喰らわせたかざりは、未来の制止にも耳を貸さず、凄まじい気迫で相変わらず二人を睨みつけていた。


「――かざり……一旦落ち着け……久遠もゆずも、好きでああなってるわけじゃないと思う!」

「どうであれ――」


 文は一切動じない。士郎には一瞥もくれず、言い放った。。


「――どうであれ、あの二人が危険な存在であることに変わりはないよ。殺すしかない」


 その時、文の右眼がギラリと光を放ち始めた。そう――オオクニヌシの依り代から解放されて以降、なぜだか銀色に光る彼女の右眼。左眼は今まで通り碧いから、今や彼女の見た目はパンキッシュなオッドアイだ。

 

 士郎は、その時ゾクッと背筋に恐怖を感じる。…………?


 既にそれは、士郎のよく知る月見里やまなしかざりではなかった。

 同じオメガという存在であり、同じ釜の飯を食った戦友であり、そしてこれまで何年間も同じ時を過ごしてきた親しい友人であるはずの久遠と楪を、「殺す」と平然と言い放つこの子はいったい――


「かざりちゃん――」


 未来が何かを言いかけた、その瞬間だった。


 文がフッと掻き消えた。いや――途轍もない速度で、二人に向けて突っ込んでいったのだ。刹那、今度は久遠がフッと掻き消える。不可視化か――!?

 その代わり、楪が突貫してきた文を力いっぱい受け止めた。


 ダァァ――ン!!

 バンッ――!!!


 火花が迸り、一瞬鼓膜が詰まるほどの衝撃波が周囲を襲う。直後、今度は文の背中がボコボコと異様に沸騰し始めた。まさか――!?


「――ゆずッ! 止めろッ!!」


 士郎が叫ぶ。だが、彼女の背中は見る間に膨張し……なかった。

 ギィン――!!


 凄まじい気迫が文を中心に放たれると、背中の膨張は一瞬にして消滅する。その銀色の右眼が、眩しいくらいに閃光を放つ。

 すぐさま文は反撃に転じた。ダイヤモンドの十数倍、130モース硬度を超えるその凄まじい硬さの拳を、楪に向けて打突する。それはおそらくどんな弾丸や砲弾よりも、対象を粉々に粉砕する恐るべき凶器だ。

 だが、すんでのところで文の姿勢がグラリと傾ぎ、その必殺の正拳突きは楪の頬を紙一重で掠める。風圧で、楪の頬がパカンと割れ、鮮血が迸った。


 文を見ると、ブロックノイズのような微かな残像が彼女の下腹にめり込んでいた。透明化した久遠が忍び寄り、文の腹を蹴り上げていたのだ。


「がはッ――」


 文が激しく嘔吐する。


 士郎は、その様子をただ呆然と見つめるしかない。これはいったい何だ――!?

 ――!!


「……士郎……きゅん……」


 はッ――

 突然、泣きそうな声が聞こえたような気がした。楪か!?


 慌てて彼女を見つめた士郎は、その表情がまるで猫のようにクルクル変化していることに気が付く。ギラギラとした殺意にまみれた顔をしたかと思うと、何かを哀願するような辛そうな顔になったり……

 それはつまり――彼女自身、自分で自分がどうしていいか、分かっていないのだ。


「――し……士郎……」


 今度は久遠だった。彼女は、涙にくれながら突如として士郎に切りかかる。


「――やめてッ!!」


 ガキィィィン――!!!


 咄嗟にくるみが長刀で士郎を庇う。だが、これでハッキリした。二人とも、湧き上がる殺戮衝動に必死で抗いながら、それでも堪えきれず、こちらに襲い掛かっているのだ。これって――!


「な、なぁ! ――もしかして二人とも、俺たちに殺戮衝動を抱いてるのか!?」


 士郎が二人に問いかける。すると、文が呆れたように口を挟んだ。


「――当然だよッ! 二人の目を見たら分かるじゃん!!」


 次の瞬間、叶が悲鳴のような声を上げた。


「クソッ! それって、最初オメガちゃんたちが無差別に殺戮衝動持ってたのと同じってことだよね! じゃあ二人は、今度『幽世かくりよ』世界の血を引く人間に対して、殺戮衝動を持ったってことかい!?」


 ――!!

 だから文は、見た瞬間から二人に途轍もない警戒心を抱いたのか――!!

 だって文は、何度も二つの世界を行き来していて……そしてここにいる文の三代前の女性も同じ「文」という女性で、しかも彼女は『幽世』の血を引いていたのだ。

 そして士郎も――

 彼の祖父、清麻呂は『幽世』日本で報道班員を務めていて……そう、つまり士郎には『幽世』の血が混じっていて、少なくともクォーターなのだ。


 だから二人は、士郎にも殺意を向けてきたのか――!?

 それは、オメガが唯一殺戮衝動を抱かなかった士郎に対して、初めて抱いた恐るべき感情――


 その時、なぜ二人の瞳が赤く光っているのか分かったような気がした。青い瞳のオメガは『現世うつしよ』世界の住人への殺戮衝動を持っていた。だが『幽世』の血が入った者に対してはその殺意を決して向けなかった。

 ということは、赤い瞳になったオメガは。『幽世』の血が流れる者に殺意を抱くのだ。ということは、士郎や文だけでなく『イスルギワクチン』を接種している国防軍兵士たちは、全員アウトじゃないか――!


 そして士郎は、ようやく李軍の悪魔のような真意を理解する。あの男がオメガだけに感染させようとしたのは、彼女たち手ずから、味方である国防軍兵士を殺戮させようとするためだ――

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