第450話 人の価値

 誰もが、こうありたいと願っている。

 そう――こうあるべしと自ら認識して、自らがいるべき場所に戻ってきた神代未来みくと、そして石動いするぎ士郎のように――


 今、どのように生きているか――それは人それぞれだ。

 小さい頃からの夢を実現して、充実した日々を送っている人もいるだろう。願い叶わず、失意の中で不本意な人生を送っている人もいるはずだ。

 それどころか、自分が何を願い、どう生きたいのかすら考えたこともなく、惰性で生きている人だって、結構な割合でいるに違いない。


 あるいはこういう尺度もある。裕福な家に生まれ、特別な努力をしなくても親の資産かなんかがあって、何不自由ない暮らしを楽しんでいる人。

 逆に、いわゆる“底辺”に生まれ、親のモラルも破綻していて、なんだか小さい頃から心身ともにガサツな環境で生きてきた人。


 世の中は不公平だ。同じ人間として生まれたのに、一方は生まれた時からチート全開。もう一方は、人生最初からハードモード。

 でも、人生なんて所詮そんなものだ。子供は親を選べない。生まれた時の条件が悪い人は、自分の努力でそのハンデを乗り越えるしかない。


 資本主義社会は残酷だ。世界の富の大半は、ごく限られた富裕層が独占し、大多数の庶民は思ったような人生を送れない。

 だから、相対的に見てより下層に暮らす人々の不平不満が、そうでない人々より大きいのは当然だ。なんで自分はアイツのように恵まれていないんだ!? 理不尽じゃないか――


 じゃあ、何不自由ない暮らしをしている人や、人生の成功者は、みな自分のことを幸せ者だと思っているのだろうか――!?

 たぶん違う。


 一流の会社に入ってそれなりの年収を得ている人だって、その中で出世競争にあくせくしているかもしれないし、嫌な上司の元で鬱屈した日々を送っているかもしれない。

 たとえば女優になる夢を叶えた人だって、もっと人気のあるライバルに嫉妬したり、自分の容姿に満足できなくなったりしてしまうかもしれない。

 つまり、一見恵まれていると思われている人たちも、やっぱり何らかの不平不満は持っているものなのだ。

 両者の違いは、それが生きることに直結した切実な問題か、そうでないかというだけのことだ。


 ではなぜそんな感情が芽生えてしまうのかといえば、それは人間が他者と自分とを比較してしまう生き物だからだ。

 

 自分は他人より裕福か貧乏か。自分はモテるのかモテないのか。自分は他人より優れているのか、そうでないのか――


 人間は普通、自分を自分だけで定義できない。他者と比較することで、ようやく自分を位置づけ、定義づけることができる。


 なぜ人は、こんなめんどくさい生き物なのだろうか。

 答えは簡単だ。


 人間とは、群れて生活する動物だからだ。


 群れの動物は、そのコミュニティの中で生存競争を繰り広げる。最も根源的な競争は、子孫を残せるかどうかの戦いだ。

 その判断基準は、オスメスともに、生物学的に優秀な遺伝子を残せる個体であるかどうかだ。


 だから「身体的な優秀さ」は生物にとって最も重要な要素であり、その存在の価値を決める根本的な基準だ。

 オスには肉体的な強さが求められる。生存競争を生き抜くための、クレバーさも必要だ。だから「群れ」の中では、常にメスを巡るオス同士の争いが発生する。それを勝ち抜いた、生物学的に強いオスだけが、メスに求愛する権利を獲得するのだ。


 いっぽうメスには魅力が必要だ。オスを惹き付ける、圧倒的な魅力。女性が昔から着飾ってきたのは、「群れ」の中で、他より秀でるための本能的行為なのだ。


 本能と言えば、男は往々にして若い女が好きだ。若い個体の方が、生殖に伴うリスクが圧倒的に低いことを、男は本能的に知っているからだ。

 実際、胎児の先天性異常は、25歳だと476人に1人いるかどうかの確率なのに対し、35歳だとそれが192人に1人、40歳になると66人に1人と、加速度的に上昇していく。

 流産の危険だって、20代は10パーセントだが、40代になると約40パーセントにまで跳ね上がる。フェミニストが何と言おうが、それが生物学的現実なのだ。


 他の個体との「比較」あるいは「相対評価」というのは、すべからくここから生まれる。


 人は社会――つまり「群れ」の中で、自分のDNAを確実に次の世代に伝えていくために、少しでも条件の良い個体を探して歩く。

 これが生物としての基本的な営み――種を存続させるための、動物的本能なのだ。それが数千年、数万年――いや、数十万年と続いてきた、人間という生物の行動原理だ。


 年代別未婚率という統計がある。年代ごとに、既婚/未婚割合をまとめたものだ。もちろんこの統計は、年とともに変化していくからあくまで参考程度なのだが。

 まずは男性。20代後半で未婚率は約7割だ。これが30代後半になると3割強にまで激減する。ところがこれが40代前半になっても、ほとんど変わらないのだ。相変わらず未婚率は3割だ。

 続いて女性。想像通り、男性よりは少しだけ結婚する年齢が早い。20代後半の未婚率は約6割。ところが30代前半になると一気に3割強にまで激減する。ところがこのあとは男性と同じで、30代後半になっても未婚率はそれほど落ちない。


 ここから読み取れることは簡単だ。男性の場合は40歳になるまでに、女性の場合は30代前半のうちに、大抵の人が伴侶を決めて結婚してしまうということだ。つまり「群れ」の中での個体の選別が終了する。

 それ以降の年代の未婚率がほとんど変わらないということは、男女ともこの年齢を過ぎると、殆ど結婚しない(できない)ということだ。パートナー選びはもう終わったのだ。


 もちろんこの統計は単なる「傾向」に過ぎないから、実生活における例外はいくらでもあるだろう。ただ、言いたいことは分かるはずだ。


 人は「群れ」で生活している限り、オスもメスも、常に他者と競争して闘争に打ち克たねばならないということだ。


 無事伴侶を得た男女は、だから少なくともパートナーからは選ばれたのである。果てのない相対評価の中で、少なくとも自分は他者との競争に打ち勝って、その存在を認められたのだ。星の数ほどいる人類の中で、あなたは、あなたのパートナーに選ばれた。あなたには「存在価値」があったのだ――


 もちろん今の時代、自由意志で結婚しない人も一定割合いることは承知している。ここでは個人の価値観をどうこう言うつもりはないから、結婚そのものの是非は論じないし、結婚している方が偉いとかなんとか、そんな無粋なことを言うつもりもないので悪しからず。ともあれ――


 話を元に戻そう。

 どんなに抗おうと、人はこの「群れの本能」「行動原理」からは逃れられない。


 最終的に子孫を残そうが残すまいが、人間とは「群れコミュニティ」における自らの相対的立ち位置が、自分の価値を決めてしまうという実にめんどくさい動物なのだ。


 それは別の言い方をすれば「人は誰もが他者との関係性の中で自我を保っている」――ということでもある。他者が認めることで、ようやく自己の存在を肯定できるのだ。


 『承認欲求』というのが最たる例だ。

 SNSが発達して比較的簡単に個人が情報発信できる時代になると、多くの人が自分という存在を「群れ」の中でせっせとアピールするようになった。

 しかも、大抵は自分をより大きく見せようとしたり、より魅力的に見せようとしたりする。そこで高い評価を得たり、多くの人から賛同を得たりすることで、人は社会の中での自分の立ち位置とそれに伴う存在価値を再確認し、安心するのだ。


 ところでこれらの行為と、「群れ」の中でオスメスが性的アピールをして子孫を残すパートナーを探す行為の、どこが違うのだろう。

 人より目立とうとする行為や、他者から評価されたいと願う気持ちは、すべからく「群れ」の中で自分のDNAの優秀さをアピールする行為に他ならないではないか。

 いわゆる「マウンティング」行為はオス同士の争いに似ているし、サル山の順位ランキングを決める行為そのものである。

 「炎上」現象は、まさに妬ましい相手を蹴落とすための、涙ぐましい足の引っ張り合いだ。


 数百万年後の人類は、きっと数十万年前の原始時代から21世紀頃の人類までを同じ時代区分とし、これら「群れ」の中でのアピール行為を「自らのDNAを子孫に残すための習性」と一括りに解説することだろう。


 いずれにせよ、人が他者を評価する時には、なんらかの尺度で個体に順位付けをする。自分の中で順位の高い個体に、人は好意を抱き、その存在を肯定するのだ。そして出来ればその個体にも、自分を選んでほしいと願う。

 ただ、相手のどこに価値を見出すか、あるいは見出せないかは、まさに人それぞれだ。それこそ価値観が多様化する中で、メスがオスに求める要素も大きく変わってきた。


 原始時代はとにかく「強い」オスがすべて。

 けれども、現代では「優しさ」だったり「包容力」「誠実さ」「純粋さ」など――およそ物理的に目に見えないものにも価値を見出すことが多くなった。

 そしてその結果として、他者との比較のモノサシは多様化し、多くのオスがそれによって救済されることになった。


 もちろん今でも「強さ」や「知力」はオスの価値を測る重要な尺度だ。近代に入ると、その「強さ」の中には「経済力」も含まれるようになった。

 だが、価値観の多様化は、「体力」や「知力」に劣るオスでも、別の尺度で子孫を残すことを許される時代を作った。


 ちなみにオスがメスに求めるものは、相変わらず「健康」や「美しさ」だ。「性格の悪い美人」と「性格の良い不美人」の、どちらを選ぶかと訊かれたら、大半の男は前者を選んでしまう。「美人は三日で飽きる」という名言は、「ブスは一日も耐えられない」という反証によって見事に覆されてしまう。

 そういう意味では、オスという生き物は、数万年前から何も進歩していないのかもしれない。


 だがこれらのことから分かるのは、やっぱり人間というものは、他者の評価で自分の価値を決められてしまう、他者依存の生き物なのだということだ。


 だからやっぱり、士郎たちのように自分のありようを自己決定し、どうあるべきかを自分で決断するのは、とてつもなく難しいことなのだ。


 さておき。

 興味深い統計がある。日本の自殺率推移だ。

 これは、人口10万人あたりの自殺率を、1899年から毎年集計したものだ。ちなみにとりまとめは警察庁。これをざっくり見ると、戦争中――特に太平洋戦争頃――の自殺率が極端に低くなっているのが分かる。

 戦争が激しくなった1944年から終戦翌年の1946年までの3年間は、残念ながら統計数字が残っていないが、その前後のたとえば1943年は自殺率が12.1人。1947年が少し上がって15.7人だ。

 これに対し、近年で一番高いのは2003年の40.0人。2005年の37.8人など。要は3倍くらい違う。


 もちろん、自殺の原因はさまざまだろうし、いろいろな複合要因があるだろうから一概には言えないが、誤解を恐れずに言えば、自殺と世相には明らかに相関関係がある。


 結論から言うと、戦時下など社会が流動的な時代は全般的に自殺者が少なく、経済が成熟して社会が固定化した時代には逆に自殺者が多くなるのだ。


 これは、さきに触れた「人間の相対評価」と大いに関わりがあると見ていい。

 社会が流動化している時代は、既成の階層構造が大きく変化する。要するに、金持ちが没落し、貧乏人がのし上がれる時代だ。偉い人がボコボコ死んで、あらゆる人々に次のチャンスが巡ってくる、下剋上の時代。

 逆に、社会構造が固定化し、世の中に閉塞感が高まってくると、個人の努力や偶然では道が開けなくなる。そんな時に自殺率が高まるのだ。いわゆる「世を儚んで」という奴。


 だから、ある意味『戦争』というのは、社会階層が大きく流動するまたとないチャンスだ。天下を獲ろうと武将たちが群雄割拠した、戦国時代と同じなのだ。

 他者との相対評価に敗れ、今の時代に希望を持てなくなった多くの人が、漠然と戦争や大災害などの「動乱」を求めるのも同じ文脈だ。彼らは一発逆転を狙っているのだ。サル山の順位が大きく変動する、千載一遇のチャンス。


 だがそんな他人任せの人間はたいてい、社会が激しく流動してもその荒波を渡り切れず、途中で溺れるのが関の山だ。

 所詮、自分で“こうありたい”と強く願っている人には、やっぱりここでも打ち克てないのだ。


 だからこそ、今回士郎と未来みくが、自らのありようを自ら定義し、自らの意思で自らがいるべき世界はここだと定め、戻ってきたという事実は、とても――とても重たいのである。


 三種の神器のひとつである八咫鏡やたのかがみは、そんな二人の意思の力を受け取り、本来持つその神威を発動した。この強い意思こそが、この後起きるであろう最終決戦に不可欠なのだということを、オメガたちは本能的に理解する。

 くるみが、思い詰めたような顔で士郎に訊ねた。


「――あのっ……士郎さん! ひとつだけ教えてくれませんか……?」

「ん……?」

「娘……私たちの娘の名前を……士郎さんは覚えていますかっ!?」


 その言葉に、他のオメガたちが困惑の色を浮かべる。


「そんな……何言ってるのくるみちゃん!? 私たちの見ていたのは――」

「あぁ、和音かずねだろ!?」


 士郎が遮るように答える。その途端、くるみの大きな瞳に、大粒の涙が溢れ出した。


「……良かった……あれもまたどこかの世界の……現実なんですね――」


 こうありたいと強く願ったくるみの世界は、実在していたのだ――

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