第427話 選択
確率論的宇宙――
それが『量子』の世界だ。この世界は、常に確率が支配していて、ネコは死んでいるかもしれないし、生きているかもしれない。いや――もっと厳密に表現すると「シュレーディンガーの猫は生きてもいないし、死んでもいない」という言い方が一番正しいのだそうだ。
それはつまり「曖昧な状態でいること」が、この宇宙における本来の正しい在り方であるということ――
この曖昧さは、現象が観測されて初めてそこに存在することで、ようやく実体化する。
これは、概念的な解釈でも、観念的な議論でもない。
たとえば『量子飛躍』という現象を知っているだろうか。これは、原子核の周囲をグルグルと円を描くように周回する電子が、その周回軌道の位置を瞬時に移動させる現象のことだ。
普通物質は、瞬間移動しない。そう――たとえば人工衛星の周回軌道を想像してほしい。
地球の上空を周回する人工衛星は、その高度を上げようとした場合、仮に最初の高度が1,000メートルだとすると、次に1,001メートル、1,002メートル……と少しずつ軌道を変えていく。
大きさは違えど、原子核の周りを周回する電子だって、この人工衛星と似たようなもののはずだ。この場合、周回する電子がまさに人工衛星というわけだ。
だが、不思議なことに電子は、その軌道を変える時不連続でジャンプする。
大きさの単位がミクロすぎるので単純な数字に敢えて置き換えると、例えば最初原子核からの距離「1」で周回していた電子は、次の瞬間突如として「2」の位置にワープするのだ。
この場合、「1」から「2」の間に横たわる空間には、この電子は一瞬たりとも現れない。
これは要するに、電子はこの原子核の周囲に確率波として雲のように無限に存在していて、それがある瞬間――具体的には誰かに観測された瞬間――どこかに偶然現れるということなのだ。
そして、それが実際のところ「どの座標」に現れるのかは『シュレーディンガーの波動方程式』で求められるわけだが、これだってあくまで“確率論”でしかない。
結局どこに現れるかは、まさに「神のみぞ知る」なのだ。
もちろん、その確率が極めて分かりやすいモノも存在する。
たとえば「縦方向スピン」と「横方向スピン」が重ね合わされた素粒子の話だ。もしこの素粒子を真っ二つに分けて別々の箱に入れた場合、片方の箱を開けた瞬間それが「縦方向スピン」の素粒子だったならば、もう片方の箱の中の素粒子は必ずその逆――「横方向スピン」に収束するはずだ。
『量子
曰く「ペアの片方を観測することによって、もう一方の重ね合わせ状態は観測された側と異なる向きに収束する」という原理だ。
そして、何より恐るべきは「そのペアの量子は、どんなに物理的距離が開いていても瞬時に反応する」――という法則だ。
これに異を唱えたのが他でもないアインシュタインだ。
だって、ペアの量子の一方が何らかの反応を示した時、もう片方が逆の反応を示すということは、この両者はその瞬間「何らかの情報伝達手段」を用いたはずだからだ。
仮にその両者の距離が常識的なものであれば、アインシュタインもまだ納得する余地はあっただろう。何らかの物質が、この両者を繋いだのだ。だが、量子学者は大胆にも、その距離はたとえ数万光年、数百万光年離れていても、瞬時に伝わる――とぶち上げた。
アインシュタインは“光速より早く移動できるものはこの宇宙に存在しない”と主張した張本人だ。
「数百万光年」というのは、光の速さで飛んで行っても数百万年かかる距離、という意味だ。それが「瞬時に伝わる」など、彼の立場ではどう考えても受け入れられるはずがない。
したがって『量子エンタングルメント』なる概念は本当のところ実在せず、したがって量子力学というのはデタラメだ――というわけだ。
まぁ、本当に「デタラメだ」と言い放ったかどうかは知らないが、要はそういうニュアンスで量子学者たちに挑戦状を叩きつけたのである。
これを称して『EPRパラドックス』と言う。アインシュタインに同調したポドルスキ―とローゼンという二人の学者を合わせ、3人の頭文字「E」「P」「R」を冠した『量子論に対する指摘』という反論文を上梓したのだ。
彼ら3人は、光速を超える速さの物質はこの宇宙に存在しないという前提からスタートし「したがって量子のスピン運動は一方が観測されて初めて相手方の挙動が決まるのではなく、最初から両者の挙動の方向は決まっている」と主張したのだ。
『量子エンタングルメント』現象の完全否定である。だが――
結論から言うとこの『EPRパラドックス』は、20世紀の終わりに見事論破されてしまった。
たぶんそれをすべて解説していると、それだけで本が一冊以上書けてしまうので、ここでは触れない。だが、論破の根拠となったのはこういうことだ。
この『量子エンタングルメント』現象における“二つの粒子の関係性”を解き明かした『ベルの不等式』というのがある。この数式が間違っていることを実験で確かめようとした某科学者が、結果的にはそれが「正しかった」ことを逆説的に証明してしまった――という話だ。
その結果、この宇宙には“何らかの意思伝達による遠隔作用が確かに存在”し、それは“光よりも速い”すなわち『超光速現象』なのである、ということを図らずも証明してしまったのだ。
このことは、別の言い方もできることをまた証明してしまった。すなわち――
“量子には時間も空間も関係ない”ということだ。
そう――1万年の時間も、そして空間的な距離も……それがたとえ「異なる宇宙間」であったとしても、量子にとってはさしたる問題ではないのだ。
彼らは時空を超越している――
ちなみにこの原理によって、現在『量子テレポーテーション』の実験が盛んにおこなわれている。確か叶少佐も、この実験に積極的だったはずだ
ちなみにテレポーテーションと言っても、それはSFやアニメの世界にたびたび登場する、時空を瞬時に飛び越える「瞬間移動」のことではない。
ここでいう『量子テレポーテーション』とは、あくまで先ほどの“ペア粒子は瞬時に相手方に情報を伝達できる”という概念を利用したものだ。つまり、最初からA地点とB地点に分けておいた何らかのオブジェクトを、距離に関わらず任意に同期させる、という実験だ。
確か叶少佐は、双子の姉妹、クリーとアイにもこの実験への協力を依頼していたはずだ。彼女たちが遠く離れた場所同士で、まるでテレパシーのようにお互いの意思を疎通させていた事実を、彼は忘れていない。そこに何らかの量子系原理が働いていると推測するのは、至極当然のことだ。
ともあれ、今のところまだその伝達距離は数百キロに留まっている。だが恐らく近い将来、地球と月の間くらいの距離であれば、まさしく瞬時にテレポーテーションできるようになるはずだ。
さておき――
極小ミクロの世界を定義づける概念であったはずの『量子力学』は、さまざまな可能性を秘める中でついに巨視的な世界にまでその姿を現すようになってきた。
いっぽうで我々人類が困惑するのは、既にこの「10の0乗」世界では「ニュートン力学」や「相対性理論」などのいわゆる古典物理学系で世界が基本的に成立してしまっていることだ。
観測されない限り、その存在はあくまで確率論的なものに過ぎず、したがって“月は本当にそこにあるのか――”と問いかけた量子力学であるが、巨視的世界では確かにそこに月は存在するのだ。遥か昔から――
だって、自分が見上げなくとも、たとえ夜空が雲に覆われていようとも、月の潮汐力のお陰で海はいつでも潮の満ち引きを繰り返しているし、別の国の雲の切れ目では、白い月が輝いているからだ。
多くの古典文学でも「月」が語られている。それは現代に生きる我々に、その当時も月がキチンと存在していたことを教えてくれる。
だが、量子系の世界はそれでも、古典物理学系が支配するこの巨視的世界に遠慮なく入り込んできた。
この世界の存在は『物質』ではなく、あくまでも量子エネルギーが作用して作り出している『現象』に過ぎないのだと――
でも、そのお陰で我々は、この世界のさまざまな不可思議現象をようやく理解できるようになってきた。古典物理学系では到底説明できなかった現象――それは今まで“幻”だとか“見間違い”だとか“思い込み”だと科学的に無視されてきた――を、すべて量子力学が引き起こす曖昧さで説明できるようになってきたのだ。
確率論的宇宙は、あらゆる現象を容認する。それがたとえ、別の時間軸への移動だとしてもだ。現に士郎たちはそれを経験したではないか――
すべては曖昧で、この世界はさまざまな揺らぎの中にそれぞれの存在を受け止めようとしている。それは時に確定的で、時に非実在的だ。
だから「そこに月がある」というのは、月という物質が存在することを必ずしも意味しない。
何らかのエネルギーが収束してそこに存在しているという現象を見せている――というわけだ。つまり、それはすなわち、すべての巨視的物質は、エネルギー現象に過ぎないのだという仮説を否定できない――
***
士郎は今、目の前の
確かに彼女は目の前に存在するし、実際に手で触れることもできる。そういう意味では、キチンとした『実在』であることは間違いない。
だが同時に、彼女は元々士郎が知っていた「オリジナル
それはあくまで同時に存在し、曖昧なまま両方とも士郎に観測されている。もしそれが『量子もつれ』によるものならば、巨視的存在である神代未来の存在は、何らかのエネルギー現象そのものなのだ。
そして一番大切なこと――
この認識が正解なのだとしたら、1万年を生きた「
すなわち、永遠の命を持たない
さらに言えば、彼女は必ずや、再びどこかの世界の、どこかの座標に現れるはずなのだ。
それがダイスを振るように、どこに現れるか分からない――神の気まぐれだ――というのなら、それを確定的に強制する方法はたったひとつしかない。
すなわち、ヒヒイロカネという次元転移の触媒を使うことだ。
きっとウズメさまは、この確率論的宇宙を可能な限り恣意的に歩き回れる能力を持っているのだろう。それを持つからこそ「神」と呼ばれているのであり、神は任意に、人知の及ばない「神の奇蹟」を起こしてみせるのだ。
そう考えると、ウズメさまの神威の理屈もスッと腹に落ちる。
重傷を負ったくるみの肉体を、何事もなかったかのように復活させたのは、量子論的に彼女をあるべき姿に観測した結果であり、そしてその現象は、かつて
だとすれば、やはり未来本人にも、ウズメさまの神威に近いいわば“量子知覚能力”が備わっていると見るべきだ。
量子を自由自在に扱える以上、彼女自身はやはり古典物理学系世界ではなく、量子系世界に住んでいる。
ということは――
「……
士郎は確かめるように未来に訊ねた。
それに対する未来の反応は至極当然なものだ。こくりと頷いた彼女は、不安そうに士郎を見つめ返す。
誰だって自分の世界が不安定なもので、自分の未来が曖昧なものだとを認めるのは恐ろしいことだ。不安で胸が張り裂ける思いに駆られるに違いない。
だから未来の気持ちが、士郎にはよく分かるのだ。士郎だって不安なのだ。だが――
自分の運命は、自分で切り拓いていくより他はない――
「――未来、自分がこうありたいという姿を、強く思い浮かべるんだ! 今の
「……どの自分を選択するか……」
「そうだ。俺たちは今、想いが実体化できる可能性のある世界に、曖昧にふわふわ浮かんでいる状態なんだ。普通の人間はそれに気づかず、無意識に選択した何かによって、自分の針路を無意識に決定している……だが俺たちは違う! 俺たちは、キチンと考えるんだ! 自分がどうなりたいのかを――」
「どう……なりたいか……?」
「そうだ! どうなりたいかだ!! どの宇宙の、どの世界の、どの時代の、誰と一緒の、どんな自分の――世界かだ! 選択するのは……未来、お前自身なんだ――!」
士郎の言葉に、未来はハッとした様子で頷く。そしてもう一度、ヒヒイロカネの長刀を両手に二本、握り締めた。その瞬間――
目の前の情景が歪む。世界が、収束を始めた。
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