第361話 メメント・モリ(DAY9-12)

 その小柄なグルカ兵は、かざりの突進を止めきれずに後方へ吹き飛んだ。


 だが、ただ吹き飛ばされたのではない。その瞬間身体をひねり、空中で半回転してダンッ――と背後に立つ巨木の幹に両脚を踏ん張った。さすがグルカ兵と言うべきか――驚異的な身体能力だ。

 男はそのまま反動をつけ、再度彼女に飛び掛かる。


「マチュ・タライッ(ぶっ殺してやるッ)――!!」


 2本のククリナイフが、袈裟懸けに左右から振り抜かれた。その斬撃は夜の空気を切り裂き、激しい雨の軌道すら断ち切る。


 シュンシュンッ――!!


 文はそれを二挙動で見事に躱してみせた。アスリートのように引き締まった細身の身体を一挙動目で斜めに逸らし、二挙動目でさらに体幹を回転させてナイフの剣筋を紙一枚でける。

 それは実際、目にも止まらぬ速さで、当事者同士にしか見えない神速の動きだ。


 だが、ククリナイフが宙を切り、何の手応えも感じなかった瞬間、兵士はこの渾身の斬撃が失敗に終わったことを悟る。


 刹那、今度は文が両腕を「コ」の字のように上下から前方に突き出した。グルカ兵の頸部と脚部を同時に狙った、上段じょうだん下段げだんの両拳突きだ。その突速は目にも止まらぬ速さで、拳が届く前に裂帛の気迫が衝撃波となって兵士を襲う。

 その瞬間、グルカ兵は自分が相手をしている存在に初めて恐怖した。この女戦士は、間違いなく格闘戦のプロだ――

 頭ではなくわざわざ頸部を狙ったのは、こちらがけきれないからだ。それが顔面――あるいは頭部――なら、首を左右どちらかに傾ければ避けられる。だが、首そのものは体幹に繋がっているため、避けようと思ったら上半身ごと傾けなければならない。

 しかも、そうするためには一旦両脚を踏ん張らなければならないのだ。だが、その脚を意図的に狙った下段突きも同時に繰り出されている――!


 グルカ兵はこの打突を躱すため、咄嗟に身体を鞠のように丸めるしかなかった。結果、文の両拳は躱せたが、着地姿勢を取れず、そのまま地面に転がってしたたかに肩口を叩きつける。

 ズザァァァァッ――!!


 だが、ノビている暇はない。反射的に起き上がると、兵士は本能的に地面スレスレをククリナイフで横薙ぎに振り払った。転がったところに飛びこまれたが最後、マウントを取られて上から正拳突きを打ち込まれてしまう――

 見たところ、少女の戦闘力は半端ない。あの拳を喰らったら、骨は間違いなく砕け散るだろう。


 だが、かざりかざりで敵の動きを完全に予測していた。グルカ兵の足許には飛び込まず、空中に飛び上がったのだ。

 ククリナイフが地面スレスレを空振りし、濡れて重たいはずの落ち葉がその風圧でバサァッと舞い散った。

 ――――!!!


 兵士は驚愕の表情で天を仰ぐ。見切られた――!?


 いっぽう文は飛び上がった瞬間、頭部を軸にして身体を逆立ちに引き起こした。そのまま、上部を覆う巨木の枝に、まるで競泳のターンのように両脚をダンッ――と突き立てる。直後、今度はそれを足場にして枝を踏み板替わりにし、そのまま逆落としで真下のグルカ兵目掛け弾丸のように飛び込んでいく。


 バァァァンッ――!!!!


 濡れ落ち葉が堆積した地面が同心円状に波打った。文の拳が地面を穿つ。

 ビュビュビュビュビュッ!!!! と葉っぱが周囲に飛び散って、地面の水気がパァンと周囲に霧を作った。だが――


 グルカ兵は、すんでのところで再度この打突を躱してみせる。身体を捻り、間一髪その砲弾のような拳を避けたのだ。まさに、ギリギリの攻防――兵士は恐怖する。

 こんな全力の格闘戦、今まで経験したことがない。そもそも、こんなに何度も応酬を繰り返すなんて、あり得ないのだ――

 相手が普通の兵士なら、一撃で終わりだ。だがコイツは――!?

 グルカ兵の操るククリナイフの斬撃を避けられる奴が、この世に存在するなんて――!?


 ハァッ――ハァッ――


 男は、自分が肩で息をしていることに気が付いた。

 一体何なんだ!?

 この俺が、格闘戦で押されている――!? しかも、素手の相手に――


 グルカ兵――正確に言うと「元」グルカ兵のこの傭兵は、初めて自分の父親の言葉を噛み締めていた。

 彼の父もまた、グルカ兵だったのだ。父は第二次大戦中、ビルマ戦線で日本兵と戦った経験を持つ。彼はその父から、日本軍の強さを何度となく聞かされていたのだ。


(――奴らもまた、死を恐れない……我々と同じだ……)


 そんな父の話を、男は作り話だと言って笑ったものだ。

 俺たちは最強だ。そんな俺たちと互角に戦える兵士など、この地球上に存在するものか――


 だが、今目の前にいるこの日本軍の女戦士はどうだ!? 見たところ、それほど歳がいっているとも思えない。むしろ子供!? と勘違いするほど幼い顔立ちをしているというのに……


 だが、そんな幼い女戦士に、自分は先ほどからまったく有効な打撃を与えられていない。それどころかむしろ、追い詰められ、翻弄されているのは自分の方だ。

 このままだと、ククリナイフに血を吸わせられない……

 鞘に、収められない――!?


 男は、内心焦りながら、ふらふらとその場に立ち上がった。幸い、敵は自分が体勢を整えるのを待ってくれているようだった。彼女は凄惨な笑みを浮かべながら、先ほどからジッ――とこちらを見つめている。

 そしてその少女の瞳は、なぜだか青白く光っていた。コイツは……いったい何者だ――!?


 だが、彼はその疑問をこれ以上膨らませることができなかった。


 ドスッ――!!!!


 気が付くと、つい先ほどまで少なくとも数メートルは間合いのあったはずの少女が、目の前に飛び込んできたかと思うと、その正拳突きが見事に自分の腹に突き刺さっていた。「しまっ――」


 ガハァッ――!!!!


 後の祭りだった。

 その瞬間、肺の中の空気がすべて押し出された。酸欠で、あっという間に全身が硬直する。脳が激しく揺れ、刹那――視界の中のすべてが二重に映った。親父の話は、本当だった……


 ブビュッ――


 腹から、嫌な感触が伝わってきた。

 突き刺さった拳が、腹から引き抜かれたのだ。引き抜かれた――!?

 男は慌てて視線を下に落とす。あ――


 彼女の拳は、間違いなく自分の腹を貫通していた。その打突があまりにも鋭くて、鋼のように鍛え上げていた男の胴体を貫いたのだ。


 内臓が、ドチャッと噴き零れていた。

 というより、腹から拳が引き抜かれた勢いで、臓物が逆流して腹の外に零れ出てきたのだ。まるでバケツをひっくり返したかのように、ボッカリ空いた腹の穴から赤黒いものがずるりずるりと落ちてくる。その瞬間、急速に視界が黒くなる。身体中から血の気が抜けていくのが分かった。

 

 呼吸が――

 呼吸ができない……息って、どうやって吸うんだっけか……


 胸が焼け付くように熱くなった。口をパクパクさせるが、それ以上何もできなかった。右拳に、ククリナイフの柄の感触を感じた。男はそれをなんとか握り締め、まるで幽鬼のようにヨロヨロとそれを持ち上げた。

 俺は……グルカ兵だ……敵を……殺せ……さもなくば……自らに……死を……


 結局、自分がなぜ今こんなことになっているのか、兵士は今ひとつ理解できないままだった。

 たぶん何度か組み合って、俺の斬撃はことごとく躱され、彼女の何度目かの拳突きが自分に突き刺さって……それから……


 俺は、十分この空間の特性を生かして戦ったはずだ。山岳特有の、起伏の激しい斜面。繁茂する樹木のせいで、見通しの殆ど利かない空間。それから……それから……


 男は、自分でも気づかないうちに両膝を折り、その場に跪いていた。

 ククリナイフが、弱々しく宙を切り、そのまま切先が地面に突き刺さった。それは、神に赦しを請う罪びとのようでもあった。


 だから、少女が自分を見下ろしているのが薄ぼんやりと視界に入った時、男は満足したのだ。ここまでやっておいて、下手に情けをかけられても……困る……

 俺は、負けたのだ――


 こんな山岳戦闘で、グルカ以外の兵士に後れを取るとは……だが、これもまた、全力を尽くした結果だった。


 ゴホッ――


 グルカ兵は、血反吐を吐いた。最後の瞬間、その視界に僅かに映ったのは、青白い光だ。あぁ……あの青い瞳……


 美しい…………死ぬのも……悪くない――


  ***


 かざりは、男の顔面に最期の一撃を喰らわした。直後、彼の頭がスイカのように破裂する。


 はぁッ……はぁッ……

 ふぅ――


 敵との白兵戦で、こんなに苦戦したのは初めてだった。結局彼女は、この兵士が何者なのか――坂田分隊長は「グルカ兵」とか何とか言っていたような気がするが――よく理解できないままだった。

 ただ、オメガでもないのにここまで自分と渡り合うなんて……文にとっては、そのことの方が衝撃だった。


『――二曹! 月見里やまなし二曹ッ!?』


 インカムが、耳許でがなり立てていた。いつから呼んでいたのだろう。


「……あ、はい……」

『良かった! 無事だったか!? グルカ兵はどうした!?』

「さっきの敵兵なら……うん、大丈夫……斃したよ」

『なにッ――本当か!?』

「うん……ちょっと手こずったけどね」


 その瞬間、またもや無線機の向こうから、分隊全体がざわつく気配が伝わってきた。


『――そうか……ご苦労さん! だが、ちょっと……問題発生だ』

「なに?」

『敵の重機関銃が――』


 坂田が全部言い終わる前に、猛烈な射撃音が森中にこだました。


 ガガガガガガガッ――!!

 ガガガガガガガがガガガッ!!!


 割とすぐ近くで、立木が二、三本、メリメリと音を立てて倒壊する。もしかして――グルカ兵との戦闘で時間を取られ、敵重機関銃の設置を許してしまったのか!?

 慌てて周囲を見回すと、暗闇の一角で猛然と発砲炎が明滅していた。時折派手な曳光弾のような弾道もほとばしっている。あそこか――


『現在数名が重機の前で立ち往生だ! どうやら敵は森の中に砦を構築中らしい』

「――すっ……スミマセンッ! わたし――」

『いいんだ。グルカ兵をやっつけてくれただけで大戦果だよ。だが、どうやらこっちは釘付けだ。敵兵もだいぶ間引いたが、まだ半分くらいはこの辺りに潜んでいるはずだ』

「ゆずちゃんは――」

『彼女ももちろん健在だが、重機はちょっと難しいそうだ。オメガの異能を使うには、敵の目の前で手をかざさなきゃいけないらしくて――』

「あー……そうかも」

『――てことで、今度こそ『……ガガガガガガガッ――』』


 話している途中で、無線機を通じて重機の射撃音が轟く。もちろん、無線機をつけていない耳の方には、森全体をつんざく射撃音が時間差サラウンドで響き渡る。


『――隊長さんッ! 隊長さんッ!?』


 返事はない。そんなッ――!?


 文はクイッと顔を上げて周囲を見回した。

 ガガガガガガガッ――


 居た!! あそこだッ――


 重機関銃は、先ほどと同じ位置で派手に炎を噴き出していた。なんとかあそこに肉薄し、敵兵を無力化しなければ――


  ***


 ゆずりはは、分隊長の言う通り一歩下がって全体を見守っていた。

 時たま、このエリアから脱出を図る敵兵が転げるように飛び出してくるが、そのたびに強烈なお見舞いを喰らわしている。既に2人ほど、その先のところで無残に爆散していた。

 そう――コードネーム<起爆装置デトネーター>、西野楪の異能は、対象のアクセル遺伝子を瞬時に異常増殖させ、その肉体を極限まで膨張させてそのまま破裂させる、いわゆる人体破壊なのだ。


 だが、目下の問題は、敵が例の重機関銃を据え付け、やたらめったらぶっ放しているという状況だった。さしもの猟兵たちも、大火力の攻勢に身動きが取れなくなってきている。

 かといって、自分が出ていっても重機を制圧できるかどうか――

 その時だった。文から無線が入る。


『ゆずちゃんゆずちゃんっ!』

「――あ! かざりちゃん! 無事!?」

『うんっ! あのね……ちょっと協力してほしいの――』


  ***


 中国軍小隊の重機関銃班は、先ほどからありったけの銃弾を周囲にぶちまけていた。さすがの火力に、ようやく日本兵たちの動きも鈍ってきたようだ。周囲には、徐々に小隊の仲間も集まりつつある。

 このままここで腰を据えて戦えば、そのうち日本兵たちは諦めて撤退するだろう。それまでの辛抱だった。その時――


 目の前をシュンッ――と何かが飛び抜ける。


 ガガガガガガガガガガガッ――!!!!!


「おいッ! 無駄撃ちするなッ!! 銃身が焼けつくだろうがッ!?」


 先任の機関銃手が隣の兵士を怒鳴り上げる。


「だ、だって――やられたら元も子もねぇだろがッ!!」

「今のはホントに日本兵なのかッ!? イタチじゃねぇのかよッ!?」

「知るかッ!!」


 シュシュンッ――


 再び影が、今度は右から左、そしてまた左から右へ飛び抜ける。


「うガァァァァッ!!!」


 ガガガガガガガガガガガッ――!!!!!


「バッカ野郎ッ! だから止めろって!!」

「は!? 何だよッ!!」

「何だよじゃねぇ! 見ろッ!!」


 先任が隣の兵士の鉄帽をドツいた。極限まで苛ついた顔で、兵士は機関銃の先を見る。だが、その銃身は今や真っ赤に焼け付き、そして――


「分かったかッ!! こうなっちまうんだよッ!!」


 焼け爛れたその銃身は、全体的になんだか下向きにぐにゃりと曲がっているようだった。あれだけ連射すれば、そうなるに決まっている。戦争映画みたいに、機関銃は延々と連射できないのだ。本物はすぐに焼け付いて、使い物にならなくなる。


「――クソッ! オマエ、銃身替えろッ!!」

「チッ――」


 兵士は舌打ちして機関部のロックを外しにかかる。だが、次の瞬間――


 兵士は不格好にボコボコボコッと膨れ上がったかと思うと、パンッ――!!! とそのまま破裂した。

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