第359話 近接戦闘(DAY9-10)

 坂田分隊の10名の猟兵たちは、冷たい雨の降る深夜の森に分散展開した。敵の小隊を追い込んでいくためだ。

 それはまさに「巻狩り」と呼ばれる伝統的な狩猟方法と同じやり方だった。

 「勢子せこ」と呼ばれる追い立て役が四方を囲み、意図的に音を立てたり圧迫したりしながら、獲物を徐々に特定エリアに追い詰める。

 さらに、追い詰めた先にはあらかじめとどめを刺す役割の者――猟ではこれを「射手」という――がいて、獲物はまんまと討ち取られるという寸法だ。


 いっぽう分隊に同行しているオメガの二人はというと――まずゆずりはは、この狩りの様子全体を一歩下がって俯瞰して見守っている。


 もともと「勢子」役というのは、猟であれ戦闘であれ、危険と隣り合わせなのだ。

 追い立てていく途中で獲物(敵兵)から決死の反撃を喰らうかもしれないし、足元不如意の道なき山中を移動する際に、脚を挫いたり斜面を滑落したりするかもしれない。

 それどころか、勢子自身が獲物に間違えられて射手に撃たれることだって、そう珍しいことではない。よく「熊と間違えて猟銃で撃たれた」というのはそうしたケースだ。

 今回のように、それが深夜の森林地帯――おまけに雨も降っている――ともなれば、なおさらリスクは増していく。


 彼女はそういった不測の事態に備えるとともに、万が一包囲が破られそうになったら、すぐさまそこに駆け付けて加勢する手筈だ。


 そしてかざり

 彼女の場合は、その圧倒的な運動能力を活かして敵重機関銃チームを襲撃し、無力化するのが役割だ。


 重機を運搬する敵兵は4人。もしかしたらその運搬役を警護する役割を兼ねて、さらに何人かがその周囲に寄り添っているかもしれない。

 いずれにせよ、この小集団がやがて本体から引き離されていくのは自明の理だった。何せ重機の総重量は50キロにもおよぶ。深い森の中、当然行き足はおぼつかなくなる。

 ましてや国防軍の猟兵たちに追い立てられているのだ。ボヤボヤしていると、いつなんどき自分が狩られるか分からないような状況で、それでも身を挺して重機の傍に留まり、これを守ろうとする奇特な兵士がそうそういるとは思えない。


 文はそうやって孤立した重機チームを狙い、襲撃する。


 あるいは、こちらの想定に反して敵が重機を据え付け始め、陣地を構築しようとする場合は、その時点でこれを強襲して粉砕する。そして――


 目下のところ最大の脅威であるこの重機関銃を、なるべく早く孤立させるため、分隊は敵兵力を少しずつ間引いていく作戦を開始していた。

 要するに、一人ひとり兵士を削って、敵兵の数を減らしていくのだ。


 先ほどの男が、中国軍小隊長の前に届けた兵士の死体も、そうやって日本軍がひっそり血祭りに上げたうちのひとりだ。狩りは始まったばかりだった――


  ***


 大内一曹は、先ほどと同様茂みの奥に潜んでいた。

 彼の役割は、逃げてくる敵兵に「正しい方向」を教えることだ。要するに、大内の方に来る敵兵を随時無力化することで、後続兵たちに「向こうに行っては危ない」と認識させ、別の方角に逃げるよう誘導するわけだ。

 またさらにその先でも大内のような兵士がいて敵兵を襲撃すれば、奴らはさらにもっと別の方角の、もっと安全なエリアを探してそちらに逃げ延びようとする。

 そうすることで、敵兵たちは知らないうちに特定のポイントに追い込まれていくという塩梅だ。


 また――敵兵の足音が聞こえてきた。

 雨垂れのせいで、森の中の音は掻き消されがちだ。だが、そんな条件の中でも大内は鋭敏に聞き分ける。ヒタッ……ヒタッ……、ヒタッ……ヒタッ……


 地面に堆積した分厚い落ち葉は、既に半分腐って堆肥化しつつあった。それらの地表面は、雨水を十分に吸い込んで今や泥濘に漬かった毛布のようだ。

 だが、そのぬかるんだ地面は、兵士たちが一歩踏み込むごとにその体重で数センチ沈み込む。山岳戦闘に不慣れな敵兵たちは、今度はその一歩を地面から抜くたびに、ジュクジュクと小さな音を立てるのだ。

 さらに、腰回りの装備品か何かがカチカチと小さく擦れ合う音。


 二人だな――


 大内は、僅かでも音を立てないよう細心の注意を払いながら、コンバットナイフを鞘から抜いた。あと2メートル――

 片膝を立てた状態で腰を下ろし、背中を丸めて茂みと一体化していた大内は、ナイフの柄を逆手にそっと持ち替えた。マットブラックにコーティングされた、昔ながらの高炭素鋼ハイカーボンスチール製。彼の愛用品は、今夜既に1人目の血を吸っている。


 ジュク――

 大内の鼻先に、ドロドロに濡れたブーツがニュッと現れた。次の瞬間――


 ダンッ――と勢いよく一歩前に踏み込んで、大内は茂みの外に躍り出た。

 刹那、低い姿勢のまま上方へナイフを振り抜く。逆手に構えていたそれは、敵兵の大腿部の内側――つまり大腿動脈を、大腿四頭筋と共に一瞬にして切り裂く。


 敵兵は、あまりの不意打ちに声を出すことすら忘れ、そのままドゥと倒れ込んだ。太腿を切り裂かれたせいで、自分の体重を支えきれなくなったのだ。

 地面に仰向けにひっくり返ったところで、彼はようやく悲鳴を上げることを思い出し、口を大きく開けようとした。その瞬間――

 大内はその口を、今度は防刃グローブを嵌めたままの左掌で力一杯抑えつけた。体重をかけ、渾身の力でその口を塞ぐ。そして――


 素早くナイフを順手に持ち変えると、今度は敵兵の顎下からザクリとその刃を突き立てた。その動きには、一瞬の躊躇もない。刹那、縦に切り裂かれた喉笛の裂け目から、ヒューと肺の空気が漏れ出した。次の瞬間、大量の鮮血が溢れ出す。頸動脈に達したか――

 ここまでせいぜい数秒。一人目を完全に無力化。


 後続の兵士は、完全に固まっていた。

 それは、石化の呪いでもかけられたかのような硬直ぶりだ。恐らく彼の頭の中では、目の前の急迫した危機を十分認識しているのだろう。だが、身体の反応が追いつかない。

 大内がギロリとそちらを見据えた瞬間、ようやく兵士は恐慌を起こす。


「――アァッ!? アァァァァァ――ッ!!!」


 兵士は、完全に戦意を喪失していた。仲間が瞬殺されたことで、心がポキリと折れたのだ。

 持っていたライフルを大内に向けて投げつけるようにかなぐり捨てると、慌てて二、三歩後ずさりする。そして――

 顔を引きつらせながら、ヨタヨタとその身を翻そうとした。完全にパニックを起こしている。


 大内は、そんな兵士を威嚇するように、ゆっくりとナイフを前に突き出し、格闘姿勢を取る。次はお前だ――と言わんばかりに。


「ヒィッ!! ヒィィいッ!!!」


 兵士は声を裏返らせながら、必死に大内の間合いから逃れようとした。ガクガク震える脚を何度かもつれさせながら、やっとのことで不格好に駆け出していく。

 もはや兵士はノイズを立てることを躊躇しなかった。茂みを揺らし、枝を踏み鳴らし、ガサガサと大きな音を立て、なりふり構わず森の中へ逃げ込もうと試みる。


 そして――大内はそれを敢えて追わなかった。

 彼が大騒ぎして逃げ出していくことで、「ここは危険地帯だ」と周囲の他の敵兵たちに知らせることができる。彼の役割はあくまで「交通整理」――森の誘導員だ。

 よし――あと1人か2人、ここで見せしめにしてやれば、二度とこちらには逃げてこないだろう。さぁ来い。3人目の獲物は、誰だ――!?


  ***


 いっぽうかざりは、先ほどからずっと集団の後を尾けていた。ターゲットはもちろん、重機関銃を必死で運ぶ4人組……そして、その周囲に付き従う3人ほどの兵士たちだ。


 坂田分隊長の見立て通り、重機チームは徐々に敵小隊の群れから遅れ始めていた。

 不思議だったのは、最初この人たちは、大事そうに抱えていたこの重機関銃を一旦地面に降ろし、組み立てるような素振りを見せていたことだ。

 だが、森のあちこちで兵士たちの悲鳴が聞こえてきたことで、再度これを持ち上げ、まるで山車を運ぶような感じで森の中を右へ左へと彷徨い始めたのだ。

 小隊の他の兵士たちが簡単に乗り越えられるような地面の隆起も、重機チームは荷物を担ぎ上げることができなくて迂回する。ポンと飛び越えられるような窪みでも、重機チームは渡り切れなくてさらに迂回する。

 そんなことを繰り返しているうちに、既に小隊主力から十数メートルは離れただろうか!?


 だが、文はもう少しだけ待つことにした。

 恐らく、森の中での「十数メートル」というのは、相当な距離だ。何かあったとしても、パッと駆け付けられないくらいにまで、その間隔は空いている。だが――まだだ。

 幸い、連中はこの重機をもはや使うつもりはないらしい。大荷物を担いで、ヘトヘトになりながら逃げ惑っているという状況。だったらもう少し――木々や茂みに遮られ、他の敵兵から見通せないくらいにまで距離が開いたところで、一気に襲撃しよう。護衛の3人も逃げてくれればなおありがたい。

 なんなら、私がひとりで削りに――!?


 そう思って、そっと一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった――


 シュン――!!


 突然、文の頭頂部目掛けて、何かが振り下ろされた。

 彼女は驚異的な反射神経でそれを躱す。だが、前髪が数本――持っていかれてヒラヒラと舞い落ちていった。


 なに――!!?


 今、何が起こった!? 襲われた――!?

 文は本能的にバッ――と後方に飛び撥ねた。その直後、彼女の視界の片隅に、小さな影がサッと動くのを認知する。誰かいる――!!


 それが友軍兵でないことだけは明らかだった。だが、中国兵というわけでもなさそうだ。その影は、どう見ても他の中国兵たちと動きが違う。しかも、ずいぶん小柄だった。女の子――?

 いや……あの筋肉質の体型はどう見ても男だ。


 バッ――!!!


 文はまたもや直感的にその場を飛び退く。と同時に、つい数瞬前までいたその場所に、黒い影が突進してきたかと思うと何かを振り抜いた。

 あれは――!!


 文は今度こそ間違いなく認識した。男――しかも、相当の手練れだ……!

 小柄で、浅黒い肌をした男が、何やら両手に大きなナタのようなものを持って斬撃を繰り出したのだ。それは、どうみても中国人ではない。


『至急至急――! 隊長さんッ!!』


 文は無線で呼びかける。こんな状態の時に無線を使うなんて、とも思ったが、今のはただごとじゃない。この私が、避けるのに精いっぱいだったのだ。というか、襲撃のその瞬間まで、気配を察することができなかった――!?


『――坂田だ。何があった?』

『現在敵兵と交戦中――といっても、中国兵じゃない。すばしこくて、小柄で、足音を立てないの』

『――数は?』

『今のところ1人。でもね、なんかナタみたいなナイフを両手に持ってるよ』


 一瞬の沈黙があった。


『――その敵兵は、「く」の字みたいなナイフを持ってるのか!?』

『そう、そうだよ! なんかめっちゃ素早いの……』

『……ソイツは……』


 坂田が少しだけ言い淀んだ。


『――ソイツは、グルカ兵かもしれん。十分気を付けてくれ!』


 それを聞いた無線の向こう、他の分隊員たちが一斉にザワッとするのが伝わってきた。

 え――!? 何それ?

 グルカ兵って――!?


 だが、考えている暇はなかった。殺気――!!

 またもや文は横っ飛びに身を躱す。今度は躊躇せず、数十メートルを一気に飛び退いて、大木の樹上――太い横枝にトンッと飛び乗った。地面を見る。

 いた――!!


 1秒前まで文がいたその場所に、その男は腰溜めの姿勢で飛び込んでいた。

 鍔広のブッシュハットを被り、他の中国兵たちとは異なる迷彩柄の戦闘服。小柄で……そう、身長は160センチもないくらいか。だがその体躯は鋼のように鍛えられているらしく、肉付きには一切の無駄がない。

 そしてその肌の色は――暗闇で正直よくわからなかったが――明らかに東アジア人のそれよりも、ひとまわり黒い。目鼻の彫りも深く……そう、東南アジアあたりの民族の顔つきだった。


 そんな男が、両手に「く」の字型をした独特の大ナタ――というよりあれはもはや剣だ――を二刀流で構えてギロリとこちらの方を見上げてくる。


 文は、負けじと彼を樹上から見下ろす。それは、先ほどすんでのところで命を奪われそうになったことによる敵意か――

 あるいは、本気で殺り合わなければいけない、ガチの相手と認めた覚悟か――


 文の瞳に、強烈な青白光が爛々と灯り始めた。

 彼女がオメガたることの証でもある――妖しくて……そして死を告げる灯火――


 翼を持つ者フリューゲルの異名を持つ文が、その渾身の運動能力を全開にして、男に突貫した。

 樹上から、まるで弾丸のように男の位置目掛けて飛び掛かる。


 ジャキィィィ――――ン!!!!


 二人が交錯した瞬間、目も眩むような火花が飛び散った。

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