第343話 デザイナーベビー(DAY8-7)
普通の人間の神経伝達速度のおよそ3倍――
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だが、無理なゲノム編集の結果、計画自体は頓挫する。自分の肉体のスペック以上のさまざまな能力を持つに至った多くの実験体が、
亜紀乃はその計画の、唯一の生き残り――
ではなぜ、彼女だけが生き残ったのか――という新たな疑問。
それは、彼女がオメガ化したせいだ――叶はそう言った。
確かに彼女のスペックは、通常の遺伝子編集技術では引き出すことができないものだ。
音速に近い速さの神経伝達速度を、通常の人間とさして変わらない神経線維の太さでどうやって実現しているのか!? また、そもそもそれだけの反応速度に、なぜ彼女の肉体そのもの――筋繊維や関節組織、骨格、そして呼吸器系や循環器系――がついていけているのか!?
通常なら、他の実験体と同様、元々の
例えば、私たちが高速道路を走る自動車と同じ速さで走るために四肢を動かしたとしたら、全身の骨が砕け、ありとあらゆる筋肉が断裂し、体中の血管が破裂するだろう。
だが、彼女は難なくその肉体の限界を乗り越えてしまう……その身体が、オメガ化しているからだ。
「――ちょっと待ってください……オメガって、放射能汚染の影響でDNAに突然変異が起こった存在なんじゃなかったでしたっけ!?」
「うむ、普通のオメガはそうだ……と考えられている。他に原因は見当たらないし、彼女たちのジャンクDNAの中に、放射能耐性を持つコーディング遺伝子が発見されたことも、その傍証となっている。通常は生きていられないほど高濃度に汚染された放射能地帯であっても、彼女たちがその生命維持に特段支障がないのは、そのせいだ」
「……でも、今までの話を聞いている限り、キノは違うんですよね!?」
「あぁ、彼女は別に
「じゃあなぜ? なぜ彼女はオメガ化したんです!?」
士郎は、なんとかして彼女の成り立ちの矛盾に答えを探そうとする。まるで久瀬亜紀乃という人間のことを、隅々まで理解したいと願うかのように――
「……今回中尉にキノちゃんの秘密を暴露したのは……まさにそこに関係すると思ったからだよ」
叶が、まっすぐ士郎を見据えた。
「――ど、どういうことです!?」
「先ほどキノちゃんは、デザイナーベビーだと言ったよね?」
「え……えぇ……」
「だが、ここでいうデザイナーベビーとは、一般的な意味でのそれとはかなり異なる……」
「……と、言うと……?」
「それはね……」
叶の話はこうだ。
通常『デザイナーベビー』というのは、受精卵の段階で遺伝子にあれこれ人為的な手を加えたもののことを言う。
男女の産み分けから始まって、瞳の色、髪の毛の色、身長など、主に外見に関わる部分の恣意的選択。ここまではまぁ分からなくもない。男の子が欲しい、女の子が欲しいなんていう話は、それこそ遥か昔から親になる者たちが抱いていた、他愛のない我が子への思いだからだ。
どっちみち10か月も経てば分かることだし、女の子が欲しいと思っていても男の子が産まれたら、それはそれで満足だったりする。
だが、デザイナーベビーという概念がより真剣に議論されるようになったのは、人類がゲノム編集を自在に扱えるようになってからの話だ。
それは初期の頃、主に疾病治療の観点から真剣に検討されるようになった。要するに、産まれる前に既に胎児の染色体異常などが分かるようになってしまったのだ。その場合、そうした疾患を持つ赤ちゃんを生むべきや否や、という議論に発展したというわけだ。
こうなると、人々は大いに悩まされることになった。
本来、先天性異常は生まれてみないと分からない、というのが自然の摂理だ。それに従うなら、たとえ疾患があらかじめ分かっていたとしても、産むのが当然、という考えこそが正しい。欧米など、キリスト教圏では特にこの考えが顕著だ。そこに介入するのは「神の意思に手を突っ込む」のと同じだと考えるからだ。
だがいっぽうで、最初からそういったハンデを負った赤ちゃんは、生まれてから辛い治療をしなければならないかもしれないし、そもそも普通の日常生活を送ることができないかもしれない。親だってそれなりに苦労するし、場合によっては成人を待たずに命が尽きてしまうかもしれない。
そんな目に遭わせるくらいなら、産まないのもまた、慈悲である――という考え方。これだって、当事者からしてみたら、十分真剣に議論するに値する話だ。
ここで問題になったのは、人間が「命の選択」をしていいのかどうか――という点だ。
どんなにハンデを負っていたとしても、生まれようとする命を、親たちの価値観で拒んでしまっていいのかどうか――
これはまさに、人類の科学・医学が進歩してしまったがためにもたらされた、現代的な問題だった。
一昔前なら、そもそも生まれた時点で産婆が〆る。
まだ社会保障制度や医学が発達しておらず、親の方も十分な財力がない時代においては、疾患を持った赤子を産んだところで、最期まで育てられるほど社会は優しくなかったのだ。
無理に育てようとすると、食うに困って一家全滅になりかねないから、産婆は何事もなかったふりをして「死産でした」と親に告げる。親の方も、産婆の素振りからなんとなくそれを察する。そんな時は、産婆への謝礼も弾むのが礼儀だった。
そういう意味では、この20世紀末期から21世紀前半にかけての一時期が、人間社会にとって一番曖昧で、一番偽善的で、一番個人に負担を強いた時代だったと言えるのかもしれない。
だが、米中戦争を経て社会が騒然とすると、こうした議論はあまり表だって行われなくなってきた。社会が、再び優しくなくなったのである。
というより――余裕がなくなった、と言った方が正確か。
男女の産み分けなどの他愛のない話はともかく、生まれたあと介護や介助の必要が生じると思われる受精卵は、積極的に遺伝子改変などを行って、可能な限り完璧な状態で産めるよう、社会全体が腹を据えて方針を定めたのである。
放射能汚染の影響で、次々に遺伝子疾患児が生まれていたこの時代、そうするより仕方なかったのだ。産婆の時代ではないが、限られた生存域の中で限られた資源を最大限有効に活用しなければ、社会全体が共倒れになってしまうのだ。綺麗事など言っていられない――ということだ。
その結果、疾病を持った状態で生まれるベビーは、21世紀半ばになって極端に減少した。遺伝子治療を行ってもよくなる見込みのない受精卵は、母親のお腹の中で人間の形になる前に抹消され、妊娠の事実そのものも書類上なかったことにされる。
そうやって、優秀な遺伝子だけが出産にまで辿り着くというルーティーンが、人為的に次々と繰り返されるようになった。そのおかげで、現在の日本は限られた都市域の中で、高い生産人口比率を維持することが出来ている。
敢えて言えばこれが――この時代における『デザイナーベビー』の定義だ。
そして、亜紀乃のそれは、そうした意味での『デザイナーベビー』とはまったく異なるのだという。
「――そもそもキノちゃんはクローンなんだ」
「……て、ことは……彼女のDNAには、もともとのオリジナルが存在する……ってことですよね!?」
「ま、そういうことだね。彼女は、某人のDNAをベースに培養された個体であり、もっと言えば、その製造過程においてさまざまな遺伝子の
「――その利用したDNAのうちのいずれかが、彼女のオメガ化を昂進した原因であると……!?」
「あぁ、察しがいいね……その通りだよ」
「……オメガの成り立ちには、放射能汚染と強い因果関係があります。ということは……」
「恐らくオリジナルのどれかが、極めて強い放射線を浴びていたのだろう。どれか――というより、それは彼女の肉体のベースとなったメインフレームDNAと考えるのが自然だ」
「……あ……そういうことか……!」
ようやく、士郎は理解する。
久瀬亜紀乃という個体のメインフレームとなったのは、どこかの誰かのDNAだ。そして、クローンである以上、その外見は恐らくオリジナルと寸分違わぬ姿形をしている。
(――妹と、そっくりなんだ……)
黒岩の言葉が頭の中で反響する。
「……キノのオリジナルは、黒岩兵長の妹、綾瀬さんなんですね――!?」
叶は、士郎をじっと見つめた。それは果たして偶然なのか!? それとも、神の手による必然の巡り合わせだったのか――
「……黒岩綾瀬さんは、
「でもそれじゃあ、時系列が合いません。だってキノは今確か14歳……ですよね。だとすると、綾瀬さんが亡くなって100年以上経っているじゃないですか!?」
「――ホムンクルス計画は、ありとあらゆるDNAを使って個体を生成している……超人的な能力を持つ最強の兵士を創り出すため、無数のトライアンドエラーを繰り返したんだ」
「……まさか……綾瀬さんのDNAがずっと保管されていたってことですか!?」
「そのまさかだよ。長崎で被爆した彼女は、最終的に重篤な原爆症で亡くなったんだが、彼女のDNAサンプルは当時の放医研が研究のために保管し、130年に亘って無傷で保管されていたのだ」
「……なんでわざわざそんなDNAを――」
「強い放射線を浴びたはずの彼女のDNAに、当時のホムンクルス研究員が興味を示したからだろうね」
そうだった――科学者とは、そういう人種だ。
研究のためなら、多少の倫理的な逸脱は許される……特に、社会全体がデザイナーベビーを容認した時代にあっては、そのハードルは21世紀前半当時よりも相当低くなっていたはずなのだ。
特に、黒岩家のように一家全滅した血統であれば、特に断りを入れる相手もいない。結果的に、ここ
「――事実、そのDNAは、放射能コーディング遺伝子を持っていた。放射能に耐性があったんだ。個体としての綾瀬さんは命を落としてしまったが、死後に残った彼女の身体の一部――DNAは、まさにオメガたちと同じ特徴を示していたんだよ」
「だから……そのDNAを使って創り出されたキノは、最終的にオメガ化した……」
士郎は呻くように言葉を絞り出した。
「――そう……つまり、キノちゃんが今ここに存在しているのは、100年以上昔に不幸にも原爆被害に遭った、黒岩綾瀬さんという少女がいたからなんだ。もしもキノちゃんが放射能コーディング遺伝子を持たない別の誰かのDNAをメインフレームとしていたクローン実験体だったとしたら、今頃はとっくにその命を散らしていただろう」
「……だからキノは……」
「あぁ、彼女はなぜ自分だけ生き永らえているのか、ホムンクルス計画の研究員に何度も強く訊ねていて――その辺りの経緯は、キチンと申し送り文書にも記載されているから確かだ――その結果として、彼女は自分の正体を知るに至った。もちろん、そのオリジナルDNAの具体的な個体名までは知らされていなかっただろうがね……」
「――遅かれ早かれ、黒岩兵長と一緒にいれば気付いてしまうだろう……ということですか……」
「まぁ、そういうことだ」
士郎は、ようやく彼女がなにげなく発した言葉の、本当の意味を理解する。
(――肌が……合うんです……)
それは、思春期少女特有の、火照った発言などではなかったのだ。
黒岩の実の妹と、まったく同じDNAで造り上げられた自分の身体感覚が、同じ兄妹で肌が合わないわけがない。亜紀乃はそれを無意識に感じ取り、あのような言葉を口走ったのだ――
「……本人も、薄々感づいているんじゃないでしょうか!?」
士郎は、話の途中から心の中に膨らみ始めていた、大きな懸念を口にする。
「うむ……それなんだよ……もしも彼女が、自分のオリジナル個体が兵長の妹さんだという結論に達したら、客観的な視点を持てなくなってしまうかもしれない」
「――兵長は、敵の工作員である可能性が高い……何かあった時、キノが引き金を引けない可能性が出てきました……」
士郎は、亜紀乃が想像以上の十字架を背負っていることを痛感する。
もともと、彼女の個人的な背景はずっと謎だった。それを詮索しないのが大人だと思っていたし、興味本位で聞いてはいけないことだとも思っていた。だが、まさかここまでとは――
クローン実験体である以上、亜紀乃には「親」も「きょうだい」も存在しない。家族や、肉親に相当する者がこの世には誰もいないのだ。そんな彼女に、俄かに現れた“肉親”かもしれない存在――
これは、思ったよりもやっかいだぞ――
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