第282話 当たり前の生活(DAY4-6)
だって、生まれて初めての体験が次々に押し寄せてきたからである。
まず、生まれて初めて両手両足を思いっきり伸ばせる「温泉」なるものに入った。
国防軍と名乗った彼らに連れて来られたのは、街の中心地――今朝までは憎い中国軍の軍政処が置かれていた薄汚い3階建てのビルの前である。
その建物の前は、いつの間にかガラリと広くなっていた。いつもなら占領軍の警備車両やら何やらが所狭しと並んでいるのだが、今ではすっかりまっさらに片付けられている。見ると、敷地の端っこに滅茶苦茶に破壊された連中の車輛が、ブルドーザのようなもので掃き出されていた。
その代わりにそこには、濃い緑色の大きなテントがしつらえてあった。その横には、何やらごちゃごちゃした計器のようなものがついている箱のような装置。なぜか白い蒸気のようなものが煙突のようなところからふわりふわりと漂っている。
ここに来る前に、自宅はどこかと聞かれ、教えるとそのまま家に寄られて中から妹の真子と母親を連れ出してきてくれた。
真子はいきなりやってきた兵隊にすっかり怯え切っていたが、璃子が「この人たちは伝説の日本軍だ」と教えると、目を丸くして驚き、すぐに泣きじゃくって自分に縋りついてきた。
母親はというと、最初酷い二日酔いのような顔をして不機嫌そうだったが、次第に事情を飲み込み始めたらしく、やはり涙ぐんで立てなくなってしまった。
で、いったいここは何だろうと思っていたら「じゃあこれを使ってね」といきなり3人にそれぞれ渡されたのが、何やら見たこともない可愛らしい花柄の小袋だった。未来軍曹は「そのポーチあげるから」と言って片目をキュっと瞑ってみせた。
さっぱり訳が分からなくて、ファスナーになっているその小袋の口を開けてみたら、中にはいろいろなチューブの容器やらガラスの小瓶、そして綺麗な色の髪ゴムやクシ、その他何だかよく分からないものがぎっしり詰まっていた。でも、それがとっても素敵なモノだっていうことは、3人ともすぐに分かった。袋を開けた途端、花のような、甘酸っぱい果物のような、そんな素敵な匂いが漂ってきたからである。
そうこうしていると、未来軍曹が傍にいた別の女性兵士の人に「頼みますね」と声を掛けていた。その女性兵士はどうやらこの大きなテントの係らしく「ゆっくりしていってくださいね、皆さんが一番風呂ですよ」とにこやかに話しかけてきて「さ、どうぞ」と中に入るよう促す。
その時初めて入口に暖簾が掛かっていることに気が付いた。母親はびっくりしながらも、ここが何であるかを察したらしく「まぁ、“大和の湯”ですって!」と知らないうちに笑顔になっている。ママのこんな笑顔、何年ぶりだろう――姉妹はそれだけで何だか嬉しくなってしまった。
だが、驚いたのはその直後だ。暖簾をくぐるとそこは脱衣所になっていて、その奥にビニールの扉がある。その隙間から、ほこほこと白い蒸気が漂っていた。温かい空気が全身を包む。
「……ママ、これって――!?」
「えぇ、お風呂みたいよ!」
「――――!!」
こんなところにお風呂があるなんて――!
だってここは野外なのに……
でも、間違いなかった。璃子があたふたしていると、真子がいきなり素っ裸になって勢いよくビニール扉をくぐっていった。
ドボーン――!
「――はぁぁぁっ……!」
真子の大きな溜息が聞こえてくる。心底、気持ちよさそうな声だった。
それを聞いた璃子と母親も、急いで服を脱ぐと一目散に中に入る。目の前に、巨大な湯船が張ってあった。
璃子は、足許にあった黄色い湯桶でバシャバシャと身体を流すと、真子と同じようにドボーン!と勢いよく飛び込む。
じわぁぁぁ――と少し熱めのお湯が、先ほどまで雨に打たれて酷く冷え切っていた彼女の身体を、惜しげもなく包み込んでいく。
「――はぁぁぁっ……!!」
真子とまったく同じ声を出してしまった。と思ったら「はぁぁぁっ……!!!」――ママもおんなじ声を上げていた。
3人でけらけらと笑いながら、肩までゆったり浸かる。この大きな湯船は、どんなに手足を伸ばしても、まったくぶつからない。
璃子は、生まれて初めてこんな大きなお風呂に入ったし、こんなに温かいお湯も初めてだった。そもそもお風呂なんて、普段はほとんど入ったことがない。一週間に一度くらい、濡らした手ぬぐいで身体を拭く程度だ。最近は随分肌寒くなってきたから、それもだんだん辛くなってきたところだった。
でも今は、心も、身体も、すべての汚れが洗い流されるような、天にも昇る温かい気分だった。
その後、さっきの女性兵士が入ってきて「シャワーはこれを使ってね」「これがシャンプーでこれがコンディショナー」とか、何やら聞いたこともない単語が次々に出てきて、3人が困惑していると、ハッと気づいたような顔で、すべての使い方を丁寧に教えてくれた。
3人が「野外入浴セット3型」――通称“大和の湯”から出てきたのは、それから40分後のことだ。
脱衣所に戻ると、先ほどまで3人が着ていた服の代わりに、新品の綺麗な下着と靴下、それに暖かそうな長袖長ズボンの柔らかい服が置いてあった。「スウェット」というのだそうだ。
またもや女性兵士が現れて、「ドライヤー」なる温風を出す不思議な機械の操作方法と、顔や身体にぺちゃぺちゃと塗る何かの液体の使い方を教えてくれた。ママが「これは知ってる――化粧水っていうの」と補足してくれた。やっぱりママは大人だった。
そして極めつけはこれだ――
3人の目の前には今、見たこともない大迫力の食事がてんこ盛りになっていた。
ゴクリ――
正直、璃子は猛烈にお腹が空いていた。
「――さぁ、召し上がれ」
目の前で未来軍曹がニコニコしながら3人に食事を勧める。先ほどの「温泉」の隣に建てられた、大型テント。たくさんの長テーブルが置かれていて、きっとここには私たち以外にもいっぱい人が入ってくるんだろうなと思われた。
「……えと……でも……」
3人は顔を見合わせた。お腹は猛烈に空いていたが、あいにくお金を持っていない。だが、軍曹の言葉は3人を天国に導いてくれた。
「あの、もちろんお金なんていらないですよ、だから遠慮なく――」
「――――!!!」
この時の食事といったら――!!
白く輝くご飯。味噌汁の香ばしい香り。ほくほくの白身が丸々と詰まったサンマの塩焼き。キチンと大根おろしとかぼすが添えられていて、醤油をジュワッと垂らすと得も言われぬ匂いが立ち昇った。副菜にはレンコンとひじき、そしてカシワの煮っころがし。
3人がそれにむしゃぶりついていると、テーブルには今度は五目寿司が運ばれてきた。さらにカツとじ、茶わん蒸し、あんみつ……数えきれないほどの食事が、次から次に運ばれてきて、3人はそれを次々に平らげていった。
気が付くと、未来軍曹が相変わらずニコニコと自分たちを見つめている。この
「――お口に合いましたか?」
「あ……はい……!」
3人とも、なぜか涙ぐんでいた。幸せ過ぎて、このまま死んでしまうのではないかと思ったのだ。こんなにたらふくご飯を食べたのは、生まれて初めてだった。美味しくて、ほっぺたが落ちそうだった。この人たちは、軍隊なのではないか!? 異世界の日本軍は、これほどまでに豊かなのか――
「――きっと和食が馴染むだろうからって、司厨長が献立を考えてくださったのです」
未来軍曹が、優しく微笑みながら3人を見回した。
「――本当に……何とお礼を言っていいか……」
ママは、すっかり昔のママに戻っていた。
「いえ……正直、お辛かったことと思います。でももう安心です。士郎くん――じゃなくて、
それを聞いたママが、また目に涙を溢れさせていた。璃子が未来軍曹たちに出会ってから、まだ半日も経っていない。でも、この数時間のうちに、世界は一気に色を取り戻しかけていた。今朝目が覚めた時は、もう死にたいと思っていたのに――
その時だった
「璃子っ! 真子っ! ママッ!!」
突然大きな叫び声が聞こえた。びっくりして振り返ると、食堂テントの入口に男の人が立っていた。忘れようにも忘れられない――大切な人。
「「「パパっ!!!」」」
3人は、弾かれたように立ち上がり、駆け出していった。パパも涙でぐしゃぐしゃに顔を歪ませながら、小走りに駆け寄ってくる。
「あぁ! パパっ!! 無事だったのね!?」
「パパっ! パパぁぁぁ!!」
「うぇーーーん」
家族は、もう何が何だか分からないといった様子で、お互いを確かめ合い、何度も何度も抱き合った。
本当に、夢じゃないのか――!?
今日はいったい、なんていう日だ!!! 3年前、突然中国軍の兵士たちが家に押し入ってきて、ボコボコに殴られた挙句、理由も分からないままに連れ去られたパパ。その後の家族の転落は、まさに地獄に突き落とされたようなものだった。虐げられ、屈辱に打ち震え、明日をも知れぬ毎日を怯えて暮らした日々。死んでしまった方がマシだと毎日毎日死ぬことばかり考えていた3人。
だから今のこの状況は、逆に怖かった。夢じゃないのか、と思ったからだ。
「――安心してください。夢じゃありませんからね」
未来軍曹が、少しだけ涙ぐみながら横で微笑んでくれた。
「この街の郊外にある収容施設で、お父さまを保護したんです。衛生班がお父上のお名前や住所を伺っていたら、皆さんの情報と一致したんで、もしかしてと思ってお訊きしたら、やっぱりご家族だって分かって急遽こちらに来ていただいたんです」
その言葉に、璃子は流れる涙を止めることが出来なかった。
とっくに諦めていた。パパはきっと殺されたんだ――
でも、そのことを口にするのはあまりに恐ろしくて、家族の中ではあの日以来、パパの話題を出すのはタブーになっていた。もちろん、璃子は来る日も来る日も街を彷徨って、いろいろな人にパパの行方を尋ね歩いた。きっとママも同じことをしていたと思う。
でも、人々はみな、首を横に振るだけだった。パパのような仕打ちを受けた人は、他にも大勢いた。たまに公開処刑などが行われると聞くと、最初のうち璃子は勇気を振り絞ってそれを見に行った。
けれども、それはいつも違う人だった。パパじゃなくてよかった――
璃子はホッとしたが、そのうちその考えがとんでもなく恐ろしいことだと気が付いた。今回はパパじゃなかったけど、あの人は別の家族のパパだったのだ。きっとこの群衆の中に、あの人の家族もいたことだろう。どんな思いで、自分の肉親が銃殺刑にされるところを見ていたのだろうか……
それに気づいた瞬間、璃子は二度と公開処刑の場に足を向けることができなくなった。そして、すべてのことに背を向け、じっと頭を低くして、必死で目を瞑って何も見ないようにして暮らしていたのだ。
本当に、気が狂いそうだった。いつか、パパの死を知る時が来るかもしれない。毎日、心臓が止まりそうな恐怖と戦いながら、辛うじて生きていたのだ――
「璃子……大きくなったなぁ! 真子も!」
パパが、真っ赤に目をはらして、でも本当に嬉しそうに姉妹の頬をぷにゅぷにゅしてきた。
「やだ、パパ……くすぐったいよぅ」
璃子も真子も、3年前に戻ってすっかり子供みたいになった。そんな3人を見て、またママが泣き始めた。でも、この涙は幸せの涙だった。4人で――家族で、いっぱい流そ!!
「あのね、パパ……璃子、伝説の日本軍の兵隊さんたちに助けられたんだよ!」
璃子は我慢できなくて、自慢した。この幸せは、あの時助けてもらった時から始まったから――
すると、パパも大きな目をして教えてくれた。
「あぁ! パパもだよ! 実はパパ、今朝処刑される寸前だったんだ……でもその時に、日の丸をつけたおっきな飛行機が何十機も飛んできて、中国どもをあっという間にやっつけてくれたんだ!」
「えっ……!?」
家族は、いきなりハンマーで殴られたような衝撃を受けた。処刑されるところだった……!?
「あぁ――でももう安心だ! 今や街は日本軍で溢れてる! この街は、解放されたんだ!!」
「ホントに!?」
「本当だとも! みんなも見ただろ!? この人たちは、本当に強い。おそらく数日中に、日本全土は解放される!」
「占領軍を、追い出してくれるの!?」
真子が、目を丸くして訊く。
「追い出すどころか、ほとんどの占領軍はみんなやっつけられてるよ! 今、自由日本軍も全国で一斉に決起したそうだ」
そういって、パパはチラシを何枚も取り出した。そこには、どれも信じられないような見出しが躍っていた。
「さぁみなさん、積もる話はこのあと宿舎でどうぞ」
美人の未来軍曹が、相変わらず優しげな笑顔を浮かべて家族を促した。この人も、中国軍の兵隊を、顔色一つ変えずに殺してみせたのだ。私も、こんな人になりたい――璃子は心底そう思った。
その日の夜。
家族は川の字になって、久しぶりに全員揃って眠りについた。“当たり前の生活”が、何の予告もなく璃子の世界に戻ってきた。
唯一違ったのは、寝所の寝心地だった。宿舎に割り当てられたビルの一室は、いつの間にか徹底的に清掃されたらしく、中国軍が使っていた痕跡は一切見当たらなかった。その代わりそこには、大きなフカフカのマットレスが敷かれ、太陽の匂いのする清潔な布団が敷かれていた。
本当は、パパを含めた家族4人で、いつまでもおしゃべりしていたかったのだが、こんな寝心地のいい布団にゴロンと横になって、睡魔に打ち勝てる者は誰もいなかったのである。
いつの間にか、璃子の家族は全員、生まれて初めてと言っていいほどの心地よい眠りについていた――
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