第210話 聖刻文字

 トンドゥ・ニマと名乗ったそのドロパ族の男は、叶たち偵察分隊の隊員たちを縦穴から呼び戻したかと思うと、洞窟をさらに奥の方へと進んでいった。


 中国中西部――青海省。

 南側は西蔵チベット自治区、西側は旧新疆ウイグル自治区――現在は東トルキスタン――に接し、古くから「西域」と呼ばれた地域である。住人の9割はチベット族で、上海派の統治もほとんど及ばず、中国にあって中国でない――そんな不思議な場所である。

 省の東南エリアには「バヤンカラ山脈」という5千メートル級の大山脈を抱え、人々の生活は基本的に牧畜など山岳民族のそれである。


 このたび日本が東トルキスタンに進駐したのは、実はこのバヤンカラ山脈で数か月前に観測された「熱核反応」の真実を突き止めるためであった。多国籍軍の縄張りで言うと、この地域はインド軍のシマであったから、余計な軋轢を避けて隣接する東トルキスタンに進駐したというわけだ。


 なぜここまで素早く軍を展開したかと言えばそれは、ハルビンで敵ビーシェが引き起こした大破局の最初期段階に観測された現象と、ここバヤンカラの熱核反応が極めて酷似していたからだ。

 ハルビンでの大破局は運よく事なきを得たが、これはたまたま自軍に「オメガ」という特異な存在がいて、その現象を人知の及ばない能力で打ち消したからに他ならない。仮に同様の事態が今後も発生した場合、常にそこにオメガがいるとは限らないし、そもそもその特異能力は軍事力として恣意的に運用できる類のものでもない。オメガはオメガでも、神代未来みくは発動できるが他のオメガは取り扱えない能力である、という可能性も極めて高いのだ。

 であればこそ、今回類似の現象を引き起こしたここバヤンカラで徹底的に現地調査を行い、そこでいったい何が起こり、その対処法はあるのか否か、そもそも一般の軍事力で封じ込める類のものなのか、といった点を明確にしておかなければならないのだ。もしこれが対抗不可能な大量破壊兵器なのであれば、国防上のリスクは一気に跳ね上がり、今後は常にそれに怯えながら戦略を立てていかねばならない。

 まさに国家存亡の危機というわけだ。


 だからこそ日本軍は、最精鋭の偵察部隊を現地に密かに送り込んだわけだが、その彼らをして「理解しがたい」と形容するほどの異様な光景がそこには広がっていた。

 そして、おそらくは日本国内で右に出る者は存在しないだろうというほどの天才科学者、叶元尚を急遽現地調査に向かわせたのである。


「――曹長、あの彼はいったいどういう人なんだい?」


 叶が、興味津々といった趣で隣の樋口に話しかける。

 一行は、洞窟の中をただひたすらに男について歩いているところだった。


「はぁ、どうやら『ドロパ族』という種族のようで、彼らはアレが普通なのだそうです」


 樋口はもちろん、叶の興味の発端となったであろう男の小さな体格、大きな頭、完全に東アジア人の顔つきなのに目の覚めるような明るい青色の瞳について答える。


 先ほど地下大空間で隊員たちが目撃した内容があまりにも衝撃的だったので、しばらく皆が呆然としていたところ、スルスルスルっとこともなげに縦穴を降りてきて、もっと見せたいところがあるからついて来いといったのがこの身長120センチほどのドロパ族の男だ。

 その時ようやく彼の名前が判明した。

 意味は分からないが、その名前を聞く限り、一般的なチベット族の庶民の名前のようであった。


 日本人にはあまり知られていないが「チベット人」というのは極めて封建的な社会を形成している。近代的な意味での「国家」ということで言えば、現在地球上には「チベット国」という国家は存在していない。だが、彼らは確かに7世紀から9世紀ころにかけてこの地に統一王国を建国し、隆盛を極めていたのだ。

 そしてその頃から王族、貴族階級、富裕層、そして農奴など明確な階級差が存在し、それらは世襲制で人々を縛り付けてきた。もちろん、ダライ・ラマに象徴される転生活仏制度というのが15世紀に成立して以来、彼の国はチベット仏教を主体とするいわば宗教集団として――「国家」というものが存在しないのでこのような表現になってしまうが――この地に存在している。

 そうした高位の宗教指導者や貴族階級に関して言うと、その名は他に例のないほど長いもので、例えばダライ・ラマ14世の正式な名前はジェツン・ジャムペー・ガワン・ロザン・イシ・テンツィン・ギャツォ・シースム・ワンキュー・ヅンバ・メーペー・デチェンボである。

 だからこの男――トンドゥ・ニマという二音節しか名前のない小男は、普通の庶民だろう、という推察だけはつくのだ。


「ふぅーん」


 叶は、何やら意味ありげな表情で先を歩くトンドゥの後ろ姿を見つめる。

 すると、やにわに彼が立ち止まった。


「――おっと」


 通訳のウイグル人、カーディル伍長がすかさずトンドゥに話しかける。


「ここから先に、秘密の部屋があるそうです。お前たちは気に入ったから見せてやると言っています」

「ほぅ! それは興味深い」


 叶がいつもの好奇心を発揮して、ずいっとトンドゥの横にしゃしゃり出てきた。


「少佐? 先ほどのこともあります。お気を付けください」

「分かってる分かってる」


 つい先ほど「次元回廊」を目撃したばかりである。同じ洞窟の「秘密の部屋」と聞いて、この好奇心の塊である科学者が自制できるとは、樋口には到底思えなかった。


 一行の目の前には、腰の高さほどの小さな穴が穿たれていた。トンドゥは「ここだ」と言わんばかりに叶を一瞥すると、何のためらいもなくするっとその中に入っていく。案の定、叶は一切逡巡することなく彼についてそそくさと穴に入って行ってしまった。

 ほどなく――


「おぉーっ!」


 奥から叶の叫び声が聞こえる。


「少佐ッ――!」


 樋口たちは、慌てて穴をくぐる。

 トンドゥと違い、隊員たちはみな身長180前後と威丈夫揃いだ。背嚢やら鉄帽やらライフルやら、あれこれゴタゴタと身に付けている彼らは、小さな穴を苦心惨憺して四つん這いになりながら必死で先を急ぐ。国家の至宝とも言うべきこの技術少佐の身に何かあったら、樋口たち偵察隊員は切腹モノだ。

 だが、数メートルも進むと、すぐに隊員たちは広いところに出る。


 四つん這いの状態でふと前を向くと、目の前に叶が背中を向けて仁王立ちになっていた。そのすぐ横にはトンドゥが立っている。

 何か危険な目に遭っていたわけじゃないのか――

 ホッとして樋口が立ち上がると、視界の片隅に何か青っぽい模様のようなものが飛び込んできた。

 何だ――?

 と思ってあらためて周囲を見回した途端、樋口はそのあまりの光景に言葉を失う。


 そこは、極めて精緻な立方体の空間――広さ20畳ほどの石室であった。


 確かに先ほどトンドゥは「秘密のがある」と言っていたが、その空間はまごうことなき「部屋」だった。

 てっきり洞窟の中だから、彼の表現は単なる比喩だと思っていたのだが、目の前に広がるこの空間は、天井の高さもビルの2階建て――つまり目測5、6メートル――くらいはあって、その壁は見事にフラットであり、岩盤を削って四角い部屋のようにくり抜いたわけでもなさそうだった。

 自然が作り出した鍾乳洞の中にある、あまりにも異質な人工構造物――


「――な、なんだこれは……」


 ようやく声を絞り出すと、樋口はあらためてその石室の中を注意深く見回した。

 何より目を引いたのは、その壁と言わず天井と言わず、床も含めて、びっしりと何かの文字が刻まれていることであった。

 しかもその文字はみな、内側から青白い光がボウッと刺していて、まるで電光表示のように部屋全体を青白く照らしていたのである。


「曹長――これが何か分かるかい?」


 叶が得意そうに問いかけてくる。だが、その視線はこの青白く浮かび上がった無数の文字から片時も離そうとしない。


「……よく……分かりませんが、し、象形文字でしょうか?」

「お? 良く知ってるじゃないか。その通り――これはヒエログリフだ」


 ヒエログリフ――

 狭義には、紀元前3千年頃から紀元400年頃までの古代エジプトで用いられていた象形文字――人や動物、自然の事象などを模式化した一種の絵文字――のことを指す。

 4世紀ごろまでは普通に読み手がいたようだが、その後文明の興亡の中で忘れ去られ、ようやく19世紀になって「ロゼッタ・ストーン」という古い石版に彫られた文字をフランス人のジャン=フランソワ・シャンポリオンが解読したことによって再びその意味が分かるようになったという代物だ。

 だが、こうした象形文字はエジプトに限らず、他の地域でもいくつか確認されていて、例えば中東シリア周辺で使用されていたアナトリア象形文字ヒエログリフ、青銅器時代の地中海クレタ島近辺で使用されていたクレタ象形文字ヒエログリフ、南米マヤで使用されたマヤ象形文字ヒエログリフ、そして北米(現カナダ)東海岸の先住民族ミクマク族が使用していたミクマク象形文字ヒエログリフなども、広義には「ヒエログリフ」と呼称される。


 エジプトでは他にもヒエラティックとデモティックという2種類の文字が用いられていたことが知られているが、前者はまたの名を神官文字、後者は民衆文字と呼ばれ、その名の通りそうした社会階級の者たちが用いたとされている。

 ではヒエログリフはというと、これは極めて神聖なものとされ、神や、それと同等とされるファラオに関わる神殿や石碑、墓のみに用いられ、別名を神聖文字、または聖刻文字と称したのである。


 その原則プロトコルに照らし合わせると、今まさに目の前に広がる無数のこの象形文字は、おそらく極めて神聖な、そして何らかの意図を持って詳細に「聖なるものについて」書き記された情報――と思われた。


 もはや叶は、おもちゃ箱を見つけた小さな子供のように、目を丸く見開いて歓喜の表情を湛えている。


「――いったいここは何なのです!? そして、ここには何と書かれているのですかっ!?」


 ようやく石室の中に辿り着いたカーディル伍長が、この場の光景に驚愕しつつ、慌ててトンドゥに問いかける。

 すると、彼らは大きな身振り手振りを交えながら、何やら激しく遣り取りをしているようであった。だが、途中でカーディルは首を振り、「そんな馬鹿な」と顔に書いてあるくらいの勢いでトンドゥを見つめ、そしてかぶりを振った。


「伍長、彼はいったい何を話しているんだ!?」


 樋口がたまりかねてカーディルを問い質す。

 すると彼は、こちらをチラリと見てなおトンドゥと何度か遣り取りをし、ようやく隊員たちの方を振り返った。


「――それが……この男が先ほどから荒唐無稽なことを言っておりまして、デタラメを言うなと注意したら、逆に真実しか喋っていないと猛反論を受けまして……」

「なんだ、嘘かどうかはこちらで判断するから、貴様は彼が言っていることを正確に通訳しろ」


 樋口の指摘に、カーディルもようやく観念する。


「――実はこの男、ここは『賢者の部屋』だと言っています」

「ほぅ――」

「先ほどの縦穴で大きな火の玉が生まれて以来、文字がずっと燃えている、と言っています」


 先ほどから部屋全体をボウッと照らし出している、この電光表示みたいな青色の文字のことか?


「何だって!? ということは、やはりさっきのあの無間空間のあった地下大空間こそが、バヤンカラの爆心地だったということなのか!?」


 カーディルが通訳すると、トンドゥが激しく頷いた。

 ボディランゲージなら、叶や樋口にもそのリアクションの意味は分かる。


「――それ以来、文字が青く燃えているのだそうです」


 だとすると、先ほどの「次元回廊」とこの部屋は連動しているのか――!?


 叶には、既に確信めいたものがあった。先ほどのあの地下大空間は――あの現象は、間違いなくこの世界と他次元を結ぶいわばハブステーションだ。それを、相対性理論においては「事象の地平面イベント・ホライゾン」と呼ぶ。別名「シュバルツシルト面」だ。

 ただ、その現象が起きるのはブラックホールのような超巨大質量のエネルギーが供給されることが前提であるし、ましてやあのように安定的に現象が固定化されることなど理論上はあり得ない。計算上は、別次元への扉とも称されるが、実際は巨大な潮汐力によってあらゆる物質が無限大に引き延ばされ、観測者が生命体である限り、その恐るべき力によって例外なく果てて消えてしまうのだ。

 だからこそ、先ほどの空間で実際に自分たちが経験したことを理屈では分かっていても、その原理はまったくもって不明だったのだ。なぜこんな現象を観察できるのだ――!?


 だが、それがもしこの部屋の何らかの作用で実現していたのだとしたら……


 それはまさしくオーバーテクノロジー――


 人類がその原理を理解することも、ましてや作り出すこともできない、超科学そのものなのだ。

 この石室に描かれたヒエログリフは、まさかそれを現実化する、いわばコンピューターのプログラム言語のようなものだというのか――


 だとすれば、最初の地下大空間でのあの現象勃発に伴い、この部屋の何らかのシステムが起動して……以来ずっと稼働状態になっているとは考えられないだろうか――


「――で、なんでカーディルは彼がデタラメを言っていると思ったんだ!?」


 樋口が訊ねる。

 彼の言っていることは、まさにここで起きた出来事を正確に描写しているだけのことであり、「荒唐無稽」と笑い飛ばすような変なことを言っているようには聞こえない。まぁ確かに、ここと同じ洞窟の中のすぐ近くで、あのような信じがたい現象が生起した、ということ自体、荒唐無稽の話のようであることには間違いないが……


「……はぁ……何せこの男はその後こう言ったのです。


 自分たちの先祖が宇宙から持ち込んだ力が動き出したんだ――と」

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