第208話 次元回廊

 そこは、地下空間であるにも関わらず、上を仰ぎ見ると満天の星空のような大空間が広がっていた。


 しかしよく見るとそれは「空」ではない。まるでシャボン玉のように、ところどころゆらゆらと光が屈折し、虹色に揺らめいていた。そうかと思うとさらにその奥の方では、木星の縞模様のような色彩の気体のようなものがゆったりと流れている。だがその距離は相当離れているようで、実際はジェットストリームのようにそのガス状の大気が吹き荒れているだろうことが推察できた。


「――これは……確かに尋常じゃあありませんね……」


 叶は思わず息を呑む。隣の樋口曹長が、恐る恐る訊ねてきた。


「しょ、少佐……これは……いったい何なのでしょうか……?」

「……分からんね……もうちょっと詳しく調べてみないと……」


 ゴクリ、と誰かが喉を鳴らす音が地下大空間に微かに響いた。


  ***


 バヤンカラ山脈に秘密裡に偵察に出ていたオメガ特殊作戦群第二戦闘団所属、第605偵察分隊から横須賀司令部に至急報が入ったのは、5日前のことであった。

 「理解不能の巨大空間が地下に拡がっている」というその報せを聞いて、叶が何よりも危惧したのはそのである。


 報告によると、それはまるで宇宙空間のように果てがなく、地下洞窟を進んでいたはずなのに、そこに「空」があるという。分隊長の樋口曹長は、その不確かな報告をしきりに謝罪してきたが、叶にはピンとくるものがあった。

 何より最初に連想したのは、ハルビンでの戦闘終盤、敵オメガ――いや、ビーシェと言ったか――のクリーが引き起こしたあの異様な現象である。

 あの時も、最初核爆発のように大量のガンマ線や中性子線が放出され、一瞬だけ超高温の大火球が観測された直後、まるで超新星爆発スーパーノヴァのように重力が一気に収縮して物質の幾何級数的集束が始まったのだ――まるでブラックホールのように。


 その後ほどなくして観測されたバヤンカラ山脈での熱核反応――

 これは、クリーの現象に当て嵌めると、最初の段階――すなわち核爆発の時のような放射線の大量放出および超高温大火球の観測――にピッタリと符合する。


 樋口が合わせて報告してきた「周辺には残留放射能の痕跡がない」という状況も、叶の不安を増幅させる要因となった。これはまさしくハルビンの時の状況に酷似している。

 あの時も、もちろんその後神代未来みくが引き起こしたあの謎の対抗現象――クリーの能力発動を打ち消すような――による影響かもしれないが、残留放射能は一切認められなかったのである。


 ここまで状況が酷似しているとなると、もはや叶に逡巡する理由はなかった。自分が現地に入ってこの目で確かめる――これ以外に、日本がこの謎現象を理解する手立てはなかったのである。


  ***


「でも、これは確かに一見の価値ある現象のようです。弾丸ツアーでここまで駆け付けた甲斐がありました」


 樋口の報告から僅か1時間後、横須賀から連絡機に乗ってその日のうちに楼蘭の駐屯地まで飛び、そこから別の偵察分隊の護衛と共に36時間の間ひと時も休むことなくバヤンカラの麓まで機動戦闘車をかっ飛ばし、そこからさらに丸々8時間かけて現場まで徒歩で駆け付けてきた叶元尚は、それでもなお、この不可解かつ希少な現象を前にして疲れを見せることなく欣喜雀躍きんきじゃくやくしている。

 科学者というものはやはり興味深い現象を目の当たりにすると、他のことは途端にどうでもよくなるのだろうか、とぼんやり考えつつ、樋口が質問する。


「――そんなに珍しいものなんですか?」

「珍しいも何も、君はこんな光景を今まで見たことがあるかね?」

「あ……いえ、ただ、確かに地下にいるにも関わらず空が見える、というのは不可解なのですが――」

「君、これが『空』だと思うかい?」


 そう言うと叶は、そのへ電子双眼鏡をかざした。


 「え――? 違うのですか!?」


 樋口の言葉には反応せず、しばらくそのまま虚空をじっと見つめていた叶は、急に何かを発見したかのように双眼鏡のダイヤルをグリグリ弄りだした。


「曹長、あの方向に向かって、何か攻撃できるかい? 何でもいい」

「あ、はい! RPGでよろしいでしょうか」


 叶が頷くのを確認し、樋口が隊員たちに目配せする。

 一人の隊員がきびきびと準備すると、対戦車擲弾筒RPGを肩に担いで膝撃ちの姿勢を取った。


「――よろしいですか?」

「うむ」

「よーい、ッ!」


 樋口の号令とともに、バシュゥゥゥゥゥン――と擲弾が空に向けて飛んでいく。

 それは、派手な白煙を曳きながら目標へ真っ直ぐ飛んでいき、一秒も経たないうちにその謎の空間に到達したかと思うと、まるで水面に小石を落としたように大きな――


 そのまま虚空に消滅した。


「え――!? あれ?」


 樋口をはじめとしてその攻撃を固唾をのんで見守っていた隊員たちは、みな一様に驚きの声を上げる。普通なら当然、目標に当たれば大爆発を起こすし、仮に外れてもその白煙の軌跡はかなり遠くに飛んでいくまで視認できる。

 今のように瞬時に目標に到達する距離――発射から到達まで一秒もかからなかった――であれば、せいぜい飛距離は数十メートルに満たないはずだ。


 それに、空間に波紋――!?


 ということは、そこには何らかの「膜」のようなものか、水に匹敵する物質密度の何かが充満しているはずだ。先ほど「波紋」が起きた辺りよりも向こう側の空間がゆらゆら見えているから、それは透明な物質のはずなのだが、擲弾自体は一切爆発することもなく、そのまま消えた――


「――やっぱりね」


 叶がしたり顔で呟く。


「しょ、少佐! あれはいったい……」

「ふむ……どうやって説明すればいいんだろうねぇ……できればもう少し実験を重ねたいところだが――」

「あと何発か撃ち込みますか?」

「そうだね、では――」

「RPGぃーーーッ!!」


 叶が言いかけたところで、別の隊員が一人、絶叫した。


「へ――!?」


 ズガァァァァァァン――――!!!


 突如として大爆発音が辺り一帯に響き渡り、一行の頭上にバラバラと大量の石礫が降り注いだ。時ならぬ硝煙と炸薬の臭いが充満し、濛々と土埃が舞う。


「――ゲホッ、ゲホォッ!」


 叶が白目になって地面にひっくり返っていた。


「少佐ッ! 大丈夫ですかッ!?」


 隊員が肩を激しく揺すると、ようやく我に返った叶が頭を振りながら上体を起こす。他の隊員たちも、すんでのところで身を屈め、事なきを得たようだった。


「全周を警戒! 第二撃に備えよッ!」


 樋口の号令で、すかさず分隊員たちが車陣になり、全周に向けてライフルや擲弾筒を構える。いつの間にか敵に肉薄を許していたのか――!? 周囲の警戒は怠っていなかったはずだが、見落としがあったか――

 だが、叶の言葉は意外なものだった。


「曹長、警戒を解いて構わないよ……敵は存在しない」

「えッ!? しかし――」

「今のは、さっき自分たちが撃ったRPGだ」

「何ですって――!?」


 確かに直上に撃ち込めば、擲弾はそのうち推進力を失って地上に落下してくる。ただし、直上に撃ち込めば……である。だが、先ほどの射撃は仰角60度くらいだったし、それは仮に有効射程距離を超えたなら、そのまま放物線を描いて向こう側に着弾するはずだ。決してこちら側に戻ってきたりはしない。壁打ちテニスとはわけが違うのだ。


「そんな馬鹿な――」

「いやー、続けて実験しなくて良かったねぇ。まさかあんな時間差でに戻ってくるとは、私も予想外だったよ……」


 叶の顔は煤だらけであったが、何やら嬉しそうだ。


「ちょっとお待ちください! ということは、先ほどのあのRPGは、自分たちが撃ったあとどこかに消えて――それがさっき突如としてまた現れて爆発した、ということですか!?」

「――まぁ……そういうことだね」


 その時、爆発痕を見ていた水橋が振り返る。


「曹長、この痕跡を見るに、RPGはあちらの方角から飛び込んできたものと思われます」


 そう言って彼が指差したのは、一行の後ろの方向、仰角60度あたりの何もない空間だった。


「――てことは、撃ったものがそのまま真っ直ぐ戻ってきたわけじゃないのか!?」


 前方仰角60度方向に撃ち込んで消滅したRPGが、数十秒後、今度は仰角60度方向から突然現れて着弾した――


 空間が、繋がっていないじゃないか――!?


「曹長、君は撃ったものが跳ね返って元に戻ってきた、と思っているだろ?」

「そ、そりゃそうです。ですが――」

「実際には、前に撃ったものが、後ろから出てきた――」


 叶は、確信を込めたように一行を見回した。


「この空間は、次元回廊だ――」


 樋口は、この天才科学者として軍の中でもその名の轟く技術将校が言っている意味がさっぱり分からず、水橋たちと顔を見合わせる。


「――すみません……仰っている意味がよく分かりません」


 申し訳なさそうに自分を見つめる曹長の顔を、叶は何故かドヤ顔で見つめ返す。


「曹長、あちらの方角を見てみたまえ」


 そう言って叶は、首にぶら下げていた電子双眼鏡をおもむろに外すと、樋口に手渡した。


「あっちだ――」


 その方角は、先ほど叶がぐりぐりダイヤルを弄りながら熱心に見つめていたところだ。

 樋口は、言われるがままに双眼鏡を受け取り、眼窩に当てる。

 最初なんとなくその方向を見ていただけのようだった樋口は、やがてハッとしたように一旦それを目から外し、慌てたようにもう一度眼窩にあてがった。


「どうだね……何が見える?」


 叶が樋口の耳元で囁くと、樋口はビクッとしたようにその肩を震わせ、そしてゴクリと唾を呑み込んだ。双眼鏡を目に当てたまま、その口は何か言いたそうに僅かに動く。


「……まさか……」


 彼の頬に、一筋の汗が滴った。決して汗をかくような気温ではないのだが……


 すると、ようやく樋口は震える声で言葉を絞り出す。


「あ、あそこに見えるのは……きゅ、九七式……中戦車……」

「は――!?」


 樋口の言葉に、他の隊員たちがビックリしたように目を丸くする。そんな馬鹿な、といった雰囲気で、眉を顰める者までいる。


「君にはあれがどのように見える?」


 叶が追い打ちをかけると、樋口は堪えきれずに双眼鏡から目を外し、叶の方を振り返った。その顔は青ざめ、幽霊でも見たような表情だ。おどけたような顔で叶がそれに応えると、樋口は再度双眼鏡を覗き込み、改めて報告を始める。


「み、見たままを報告します――九七式中戦車、通称チハが5、いや6輌、どこかの戦場で砲撃戦を展開しています。ほ、砲塔部分に『士魂』の文字が見えます……ので、あれは恐らく、て、帝国陸軍第11戦車連隊……占守しゅむしゅ島守備隊かと……」


 そこまで報告すると、樋口はまるで100メートルを全力疾走した直後のように肩で息をしながら、叶の方へ振り向いた。汗をびっしょりとかき、息も絶え絶えといった有様だ。


「――正解。さすが偵察隊員だ、実に正確な描写だね……」


 叶が平然と答える。だが、納得しがたいのは他の隊員だ。特殊部隊員として厳しい軍務をこなし、どのような厳しい状況下でも決してその鋼のような精神が病むことなどあり得ない精鋭中の精鋭である彼ら。自らの隊長に対し、決して蔑んだり疑問を抱いたりすることなどないはずの彼らが「そんな馬鹿な」「あり得ない」と口々に騒ぎ始めたのである。


 それはそうだ。九七式中戦車というのは、先ほど樋口が報告した通り、今から百数十年前、太平洋戦争中の帝国陸軍の兵装だ。ましてや、千島列島最東端の守備に就いていた占守島守備隊が、こんなところにいるはずがない。ここは中国で、あの時から144年も経っている未来なのだ。時間も、場所も、辻褄が合わないではないか。


「――う、嘘じゃないぞ!? 信じられないんなら自分の目で見てみろ!」


 樋口が、隊員たちに電子双眼鏡を無理やり押し付ける。すると、先ほどから誰よりも強硬に樋口の発言を否定していた隊員が、それをひったくるように受け取って自分の眼窩に押し当てた。

 ほどなく――彼もまた、その様子が急変する。ずっと立ち尽くしたまま虚空を必死で覗き込んでは、何度か双眼鏡を目から離し、そしてまたかぶりつくように覗き込む。

 何度かそれを繰り返した後、やがて彼も力なく振り向いて、隊員たちを見回した。その顔は青白く、先ほどの樋口よりもむしろ落ち着きをなくしているようであった。


 そのただならぬ様子に、隊員たちは我先に双眼鏡にかぶりついた。ちなみに電子双眼鏡は非常に高価で精密な機械なので、分隊には通常2台しか配備されていない。叶を護衛してきた分隊のと合わせて計4台の電子双眼鏡を、隊員たちが代わる代わる、先を争って覗き込む。


「どうだいみんな――何が見えた?」


 ようやくその騒ぎがひと山越えたあたりで、叶が隊員たちに声を掛けた。その言葉がきっかけになったように、それまでバツの悪そうな顔をしていた隊員たちが、まるで堰を切ったように喋り始めた。


「自分は――三笠を見ました。日本海海戦の、あの戦艦三笠です。バルチック艦隊を砲撃しているところです」

「自分は、それがどこでいつの時代なのかまったく分かりませんが……どこかの山城で戦国時代みたいに合戦している光景を見つけました」

「自分は――」

「小官は――」


 隊員たちが、口々に自分が見たものを報告する。どれも、このバヤンカラ山脈には関係ない場所で起きた出来事で、なおかつ時代もバラバラのようであった。

 唯一共通していたのは、それが「戦闘場面」ということだ。そして、それはおそらく極めて重要なのだが、すべて日本や日本人が関係していた歴史的事象のワンシーンであった。

 一通り隊員たちの目撃した光景が出揃ったところで、あらためて叶が全員を見回す。


「――この現象こそが、まさしく次元回廊とでも呼べるものなんだよ。この空間は、

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