第206話 ドロパ族

 その男は、額と眉間に深い皺を幾重にも刻んでいた。頬も雪焼けのように浅黒くガサガサと荒れていて、まるで長年の苦労をそこに焼きつけているかのようであった。また、口の周りには豊かな髭を蓄えていて、それらすべてが醸し出す全体の雰囲気は、彼が既に立派な大人であることを示していた。


 だが、何より目を引いたのはその瞳である。

 それは、アジア人の顔貌にはどう考えても不釣り合いなコバルトブルーに近い明るい青色で、ツッコミどころ満載のこの男の外見の中でも、さらにひときわ異彩を放っていた。


「……大人……だよな……」


 隊員の一人が呟いた。

 今の今まで――彼が振り向くまで――隊員たちは彼が子供だと思って、荒天の中必死にここまで駆けつけてきたのだ。対人センサーが計測した対象物の大きさは「およそ120センチ」だったし、現に彼の後ろ姿は、センサーの数字が正しいことを示していた。

 おまけにその体型である。

 男の着用していた服は、もちろん隊員たちが着ているような最新式の防寒コートではなく、いわゆる民族衣装的なものだ。それは中央アジアの遊牧民が普段よく着ているようなものに近い。

 頭部は何かの動物の毛皮を使っていると思しきふさふさの毛足が付いた大きめの帽子を目深に被っており、こちらはコーカサス地方の人々が被っているような、いわゆるロシア風――に近いもの――「テルペック」……とか言ったか。ああいう感じのものを身に付けていた。


 だが何より、この男は


 身体全体のバランスでいうと、せいぜい六頭身――下手したら五頭身に近いかもしれない。

 それはまさしく子供の体型だ。

 その身長と体型であれば、普通に考えたら子供としか思えないその男は、しかしその顔つきだけは立派な大人――しかも結構年齢を重ねたような――なのであった。


 隊員たちの驚いた表情を察したのか、カーディル伍長が慌てて男に訊ねる。


[あなたの歳はいくつですか?]


 男が驚いたような、そして少し怒ったような顔でカーディルに何やら告げていた。


「ヒグチさん、彼は自分の年齢は知らないそうですが、だいたい30回か40回は冬を越しているそうです」


 それを聞いた樋口曹長と隊員たちは、顔を見合わせる。


「……じゃ、じゃあ……小さい頃の記憶は曖昧だとしても……彼は30代後半から40代前半、といったところか……」


 もちろん、普通の日本人と同じ感覚で彼の外見を捉えてはいけない。このような厳しい気候の中で暮らしている人々は、実年齢より相当老けて見えるのが普通である。樋口の推測は、近からず遠からず、といったところだろう。


 吹雪は相変わらず吹き荒んでいた。先ほど全力疾走した直後には気付かなかったが、急降下した気温が隊員たちの体温を急激に奪おうとしていた。

 樋口はぶるるっ――と身体を震わす。


「――いずれにしても、こんなところにいては遭難してしまう。彼に、我々と一緒にいるよう伝えてくれ」


 カーディルがまた何やら男に話しかけるが、何度か遣り取りをしているようだった。やがてカーディルが向き直る。


「ヒグチさん、この近くに避難できる場所があるそうです。ついてくるか、と聞かれています」


 なんと――?

 男は、やはり地元の住民らしくこの気候には慣れていたということか。天候が悪化してもキチンと避難すべき場所があって、そこに逃げ込もうと移動していたのだ。

 だが、それならそれでこちらとしてはありがたい。正直退避できるようなところなど知らないから、分隊はこのまま天候が回復するまで野ざらしで耐えるしかなかったのだ。


「それは大変ありがたい、ぜひお供させてくれ、と伝えてくれ」


 カーディルが男に向き直った。


 やがて一行は、この小さな男の先導で、既にうっすらと雪化粧した険しい山肌を「地獄に仏」とばかりについて行ったのである。救助しようとしたら、逆に助けられた感じだ。


  ***


 それから、どれくらい歩いただろうか――

 一行は、とある場所に辿り着いていた。それは、ゴロゴロと岩塊が広がる険しい山肌を苦労しながら数十分歩いた先にあった。

 相変わらず吹雪は吹き荒んでいて、辺りはすっかり白くなっていた。空は恐ろしいほど暗く、吹き付ける強風が岩肌に降り積もった粉雪をさらに吹き飛ばす。一行が頭に付けているヘッドランプの明かりが、吹き付ける吹雪と白い山肌をボウっと照らし出していた。

 その先にあって、男が「ここだ」と一行に告げたのは、奥が真っ暗闇で何も見えない、深い洞窟の入口であった。

 切り立った岩がちょうど裂け目を覆うようにせり出していたので、パッと見にはそこにこんなものがあることなど到底分からない。だが、ここなら確かに激しい猛吹雪も十分やり過ごせそうだった。


「――こんなところに洞窟があったとはな……」


 樋口が、洞窟の大きな入口を仰ぎ見ながら思わず呟いた。

 男は、一行が無事にここまで辿り着いたことを確認するように後ろを一瞥すると、躊躇うことなくそのぱっくりと開いた裂け目に入って行った。隊員たちも、慌ててついていく。


 中に入った途端、あれほど耳元で荒れ狂っていた暴風と吹雪の音が、まるで嘘のようにぴたっと収まった。


「ふわぁー、助かった!」

「もうどこをどう歩いたのかさっぱり分かりませんよ」


 無事避難した安堵感からか、隊員たちが口々に軽口をたたきながら思わず酸素マスクを外す。まぁ、少しくらいならいいだろう……樋口も数時間ぶりにマスクを外して、思いっきり深呼吸した。その空気はひんやりとしているが少し湿り気もあって、外の地獄のような冷気に比べると、まるで天国のように心地よい。


「全員いるか? 体調不良の者は申し出ろ」


 そう言いながら、樋口は頭や肩に降り積もった雪をパンパンと払い、ずっしりと肩に食い込んでいた背嚢を下ろした。


 男は奥の方でカチンカチンと何かをいじっていた。すると、ボウっと柔らかな明かりが灯り、洞窟の中がオレンジ色に照らし出される。灯油ランプか何かだろう。あらためて中の様子を仰ぎ見ると、そこは案外広いことに気付く。


「カーディル伍長、彼にお礼を言ってくれないか? 今から温かい飲み物を出すから、一緒にどうかと伝えてくれ」

「わかりました――」


 カーディルが要件を伝えると、男はようやくニヤリと笑って樋口たちの方を見た。


  ***


 パチン――と焚火が爆ぜて、火種の太い薪がガサリと落ちる。

 洞窟の外は相変わらず吹雪が舞っているようだったが、中はすっかり温かくて、隊員たちは思い思いに横になっていた。


 樋口と水橋、そしてカーディルは、この不思議な小男と一緒に焚火を囲んで座っている。

 水橋を同席させているのは、彼が曲がりなりにも医師免許を持っていて、人間の身体のことについて何か樋口の知らない知見を持っているのではないかと思ったからだ。


「――すると、この男のような民族は確かに存在する、ということなんだな?」

「はい、聞いたことがあります。背が低くて、子供のような体型で、顔つきは完全にアジア人なんだけど、その瞳だけは青いという……」


 樋口は、もしかしてこの小男が、何かの突然変異でこんなことになっているのではないかと疑ったのだ。彼の立場でいえば、偵察任務の途中に出会ったこの現地住民がどういう素性の人物なのか、分隊長として正確に把握しておく必要があったのだ。だが、正直何処から突っ込んでいいのか分からない。

 確かに、アジア人でも碧い瞳を持っている人種は存在する。ウイグル人がまさにそうだ。水橋のお気に入り、ラビヤちゃんだってその瞳はブルーで、エキゾチックなその顔立ちはとても美しい。だが、この男とウイグル人たちが決定的に違うのは、その顔つきだ。


 カーディルやラビヤちゃんなどウイグル人は、アジア人とは言っても、その風貌には西洋人の面影が色濃く残っている。

 そのハッキリした目鼻立ちはまさしく中東系と言うか、トルコやイランなどの雰囲気を湛えているのだ。まぁ、ウイグル人自体、出自はトルコ方面と聞いたことがあるから、当たり前と言えば当たり前だ。そして、こういう地域の人たちは、人類史の中で地中海系の人たちと無数に混じり合っているから、言ってみればアジア人と欧州人の混血――ちょうど中間くらいの顔貌をしているのが普通なのだ。


 ところがこの男の場合、その顔は完全に東アジア人のそれなのだ。顔はのっぺりしていて頬骨が張り、瞼も一重で唇も薄い――典型的な北方系大陸人。その顔に明るいブルーの瞳というのは、どう考えても違和感しかない。

 最初アルビノなどの色素異常かとも思ったが、洞窟に入って毛皮の帽子を取った男の髪は、過酷な生活を彷彿とさせる白髪こそ多かったが、元は黒々としていたであろうことは一目で判る。


 だが、水橋に言わせれば、確かにそういう人種がいるらしい、ということなのだ。


「カーディル、彼は何人なにじんなのか、訊ねてもいいのだろうか?」


 樋口は遠慮がちに問う。こういった場合、あまり外見についてしつこく聞くのは失礼だと思ったからだ。下手に怒らせたら、洞窟から追い出されかねないし……

 だが、樋口が聞きたいのはまさにそこ――彼の素性なのだ。


「――たぶん、大丈夫だと思います。慎重に聞いてみます」


 カーディルが、隣の小男に何やら話しかける。身振り手振りを交え、時折樋口や水橋の方を見ながら、自分の瞳を指差したかと思うと、男の瞳も指差したりしてまくしたてている。どこが「慎重に聞いてみる」なのか、樋口にはさっぱり分からない。


 すると、意外なことに小男が白い歯を見せて笑った。樋口たちの方を時折見つめては、カーディルに何やら伝えているようだった。どうやら機嫌を損ねることはなかったようだ。


「ヒグチさん、分かりましたよ。この人は自分のことを『ドロパ族』だと言っています――」

「そうだ、ドロパ族だ!」


 カーディルの言葉に、水橋が食い気味に叫ぶ。


「ドロパ族――?」


 樋口には聞き覚えがまったくない。そんな人種、いたっけか――?

 カーディルが続ける。


「ドロパ族は、このバヤンカラ山脈に古くから棲みついている民族なのだそうです。男はみんな彼と同じくらいの身長で、女はもっと小さいそうです。外国人はなぜみんな同じことを訊くんだ、と言っています」

「――と、いうことは、彼は別に病気とかじゃなくて……」

「みんな目が青いそうです。暗い青より明るい青のほうが偉いのだそうです。自分は明るい青だから、部族の中でも偉いのだそうです」


 樋口は、好奇心を抑えられなくなる。


「――もしかして……伝説の小人族ホビット? とか!?」


 カーディルが、よせばいいのに忠実に通訳する。


「――そんな種族は知らないそうです。ドロパはドロパだ、と」

「あぅ……すすすスマン。これはちょっとした冗談だ」


 樋口が申し訳なさそうに男に頭を下げた。すると、彼はそれを不思議そうに眺め、それからカーディルになにやら話しかけた。

 水橋が興奮気味に語り出す。


「分隊長、我々は結構レアな遭遇をしているかもしれませんよ? ドロパ族――というのは、確かに中国の山岳地帯に住む少数民族だったと記憶しています。医学的には極めて珍しい人種で……まぁこれは見ての通りですが……確か1万年以上前からこの地域に住んでいるらしく、つまり中国人――というか漢族とは完全に別人種、ということになります」

「確かに――中国は少数民族と外国人との接触を嫌がるからな……日本人で彼らに遭遇した者は皆無かもしれん」


 すると、カーディルが割って入った。


「ヒグチさん、ミズハシさん、この人ちょっと気になること言ってる」

「どうした?」

「つい最近、我々とよく似た連中ここに来た、そいつらは無礼だったから嫌いだが、お前たちは好きだ、と言っています」

「え? どういうことだ!?」


 樋口は、何か嫌な予感を覚える。


「同じように鉄砲持った奴らがいっぱい来て、悪いことして行った――らしいです」

「鉄砲持った奴ら!? まさか――」


 カーディルが男に話しかけると、二人でまた何やらあれこれ話している。


「そいつらは、緑の服着ていたそうです」

「緑の軍服……中国兵か!?」

「女もいた、と言っています」

「女……? ところで、そいつらは俺たちみたいな顔つきだったか!?」

「似ているけど、ちょっと違う……言葉も違った、と」


 間違いない――中国兵だ。まさか、例の熱核反応に関係しているんじゃないだろうな……!?


「――そいつらは……悪いこと……いったい何をやったんだ!?」


 カーディルが訊ねると、男はついてこい、と言うように顎をしゃくった。

 樋口は、慌てて全員を起こす。30秒で隊員の身支度が整うと、男が頷いて洞窟の奥の方へ一行を促した。


 相変わらず男は軽やかな身のこなしで、暗い足許をものともせずズンズン進んでいく。樋口たちは、ヘッドランプを付けて男の後ろ姿を必死に追いかける。

 10分ほど歩くと、ようやく洞窟の中にも慣れてきた。というか、10分歩いてもまだまだ奥に続いているとは、相当深い洞窟ということだ。最初にいた入口付近は天井も相当高く、見当けんとうでも十数メートルの高さがあったが、奥に進むにしたがって時折腰をかがめて通らなければならないところもあって、なかなか複雑な形状をしていると思われた。


「ここから降りるそうです」


 男が突然立ち止まる。洞窟自体はその奥にもっと続いているようだったが、男が示したのは、そこから分岐するように足許にぽっかり開いた穴だった。ここを降りていくのか――!?


 それは、もはやケービングと言ってもいいレベルの難易度だった。ほとんど垂直に人一人通れるくらいの縦穴があって、ところどころにゴツゴツと飛び出た岩塊に足を掛けながらゆっくりと下っていく。一行は、滑り落ちないように必死で壁面に手脚を突っ張りながら、数珠つなぎになって慎重に降りていった。


 やがて縦穴はゆるやかに水平に近づき、気が付くと目の前に丸い出口のようなものがあった。そこに脚を踏み出した途端、一行は突然大きな空間に転がり出る。


「――こ、これは……」


 その地下大空間を仰ぎ見た樋口は、思わず声を漏らした。他の隊員たちも、あまりのことに息を飲む。


 そこには、形容しがたい異様な空間が、どこまでも――どこまでも広がっていた。

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