第159話 ディーヴァ
その美しい女性は、部屋の中央に立ち尽くしていた。
腰まで届く長い艶やかな黒髪。顔は細面で、大きな瞳に長い睫毛が濡れたように光っている。鼻筋はほっそり高く、意志の強そうな眉毛とともに、彼女に高貴な印象を与えていた。さらにその両の頬は、まるでつい先ほど茹で上がった卵の白身のようにつるんとしていて、桜色の唇は潤みがちに僅かに開いていた。
だが、ミーシャの心をより強く捉えたのは、その一糸まとわぬ裸体だった。
頬と同じように珠のごとく白いその肌は傷一つなく、全体的に華奢な造りの肢体は、細い鎖骨から下ってなだらかに膨らむ双丘を乗り越え、再び腰のところで細く引き締まり、そこからさらに芸術的な曲線を描いて女性らしい丸みを帯びた臀部に至る。
手脚は細く長く、ただし太腿とふくらはぎは程よく柔らかな輪郭を描いていて、やはり彼女の女性らしさを際立たせていた。
ミーシャはそのあまりの美しさに、呼吸も忘れて彼女に見入ってしまった。それはまるで
「……あ…………」
普段寡黙なミーシャが、彼女の神々しさに思わず小さな呻き声を上げた瞬間だった。
それまで茫漠と虚空を見つめていた彼女が、ふと我に返ったかのようにミーシャの方を見やる。顔をこちらに向けた所為で、その長い黒髪がさらりと風になびいた。
「……ミ……シャ…………?」
思いがけず彼女が自分の名前を呼んだことで、ミーシャはますます困惑した。この美しい女性は、なぜ俺のことを知っている――!?
「……ミー……シャ!?」
彼女は再びミーシャの名前を呼ぶ。そして、ふと視線を足許に下ろしたかと思うと、一瞬電源が落ちたかのようにその動きを止め、そのまま自分の胸と腹あたりをじっと見つめた。そしておもむろに自分の両手を胸のあたりまで持ち上げると、その手の甲をまじまじと見た。途端――
今度はその掌を自分の顔の真ん前まで持ち上げたかと思うと、くるりくるりと手の平側と甲側を交互に裏返しては何度も見つめる。そして――
唐突に左右の腕全体を持ち上げ、くるくると肘から先を回転させては穴が開くほどそれを凝視した。それが終わると、次は自分の腰をひねってその長い脚を上から見下ろし、ついで自分の顔をひたひたと手で触り始めた。
その瞬間、彼女は驚いたように自分の身体中をさらに激しくその手でペタペタと触りだし、頭に手をやったり細くて長いその指を交差させてみたり、あげくに自分の身体を両腕で抱きかかえるようにしてみたりして、まるで自らの身体がそこにあることを確かめるかのようにあたふたと動いてみせた。
「わたし……戻った……の……?」
女性が、喘ぐように口を開いた。
「ねぇ……ミーシャ……? わたし……何に見える……?」
女性は、明らかにミーシャのことを知っているようだった。突然投げかけられた質問に、ミーシャは戸惑いながらもたどたどしく答える。
「あ……の……キレイ……な……方……です……」
すると女性のその大きな瞳に、突如として大粒の涙が溢れかえった。
「……わ、わたし……戻っ……たんだ……!? うそ……ホントに……!?」
「……あ、あの……誰……!?」
ミーシャがかろうじて女性に問いかけた。さっきからこの
「……ひぐ……そ……そっか……ミーシャは……私の元々の姿……知らないもんね……」
女性は、鼻声のまま、少し困惑したような表情をミーシャに向けた。
「わたし……
「な……! 詩……雨……さん……!?」
――そう……彼女の正体こそ、ミーシャの主人・
“あの瞬間”のことを、詩雨本人は知らない。
再生したてで、まだ意識も朦朧としたまま診療台の上に置かれていた詩雨は、身体に激痛が走った瞬間、ようやく自分が何者かに生きながら貪り喰われていることに気が付き、絶叫したのだ(実際に声が出せた訳ではないのだが)。
あの強烈な光に包まれたのはその時だ。
直後、どういうわけか、自分の身体がまるで無重力状態に陥ったかのように急にふわふわとした感覚に襲われた――
詩雨が覚えているのはそこまでだ。
気が付くと、自分は茫然と立ち尽くしていて……
そして――元の人間の姿に戻っていたのだ!
あぁ!!なんてことだ!!!
あれほど望み、求め、渇望した「元の姿」!
醜く変貌した我が身を嘆き、恨み、世の中すべてを呪った絶望の日々――
人間としての思考や感情はあるのに、その外見はまるで怪物で、周囲の人々はことごとく自分を
その地獄のような日々が、如何に辛く苦しいものであったか……
いつの間にか詩雨は、ただひたすら自分の「死」のみを願うようになっていた。だが、手脚をもがれ、まるで単なる肉塊のように成り果てた詩雨にとっては、自分で死ぬことすらままならなかったのだ。
おまけにあの
それは、いつ終わるとも知れない永遠の苦しみ――怒り……そして恐怖。これがまさに無間地獄というものなのか――精神はとっくに破壊され、生ける屍となってもなお、再生すれば必ず元通りに人間の感情を宿すのだ。
そんな自らの、永遠に繰り返される呪われた運命がたった今、唐突に終わりを迎えた――
詩雨は、そのあまりの出来事にただただ驚愕し、狼狽し、困惑し……そして驚喜した。
神さま――!!
いや、詩雨は別に何かの宗教を信仰していたわけではない。だが、もしもこの世に「神」という存在があったのだとしたら、私の命を懸けたその願いを聞き届けてくれたのは、きっと神さまに違いない。
いや、繰り返される絶望に心を砕かれていた私の近ごろの願いはたったひとつ――自らの「死」だった。だが、神は私のその願いの奥底にある、本当の願いを知っていて、そちらの方――真実の願いのほうを叶えてくださったのだ。
それは――「やり直し」。
もう一度だけでいい。もう一度だけ、元の姿――人間の姿に戻りたい――
それが私の本当の願い……その願いが、今まさに叶ったのだ――!
詩雨は歓喜に打ち震え……思わずその長い脚を一歩、前に踏み出そうとして――
そして何かにつまずきそうになって、思わず足許を見下ろした。そこにいたのは……
「……み、
その声に、今度はミーシャも思わず反応した。未来さん――!?
「――未来ッ!? あぁ――どうしよう!? 未来? ねぇ未来ッ!?」
詩雨はとっさにしゃがみこみ、足許の存在に抱きついた。
そこに横たわっていたのは、端麗な顔立ちに光沢を湛えた白金銀髪の少女。詩雨とはまた異なる方向の美形を誇る、よく見知った姿――まごうことなき、神代未来その人だった。
彼女を見た瞬間、詩雨は理解した。
この奇跡を起こしたのがほかでもない、彼女なのだということを――
その瞬間、ありとあらゆる感情が噴き上がる。そういえば先ほど気を失う直前、確かに未来の強い感情が自分に流れ込んでくるのを感じたような気がしたのだ。
この少女は、初めて逢ったその時から、異形の存在である私を何の抵抗もなく受け入れ、そしてただの友人として接してくれた。こんな人間は他にいなかった。誰もが自分の醜い姿を忌避し、蔑み、一方的に敵視していた中で、彼女はただの一度もそんな感情を自分に向けてこなかった。
それどころか、こうやって自分を探しに来てくれて、命を懸けて助けてくれようとしていたのだ。
兄・秀英以外に、唯一自分の存在を受け入れてくれた、大切な友人――
その未来が、今自分の目の前でピクリともせず横たわっているのだ。まさか――!?
「未来ッ! しっかりして!! 未来ッ!!?」
詩雨は、自分の身体が元通りになった喜びよりも、未来のことを案じた。彼女のか細い肩を抱き、前後に激しく揺する。その頭は詩雨が揺り動かすのに合わせてただガクガクと前後し……
「……う……うぅ……ん……」
「はッ!? 未来ッ!? ねぇっ!!」
ほんの少し、未来が苦しそうな声を上げた。まだ息はある――!
詩雨は必死で彼女に声を掛け続けた。死んでは駄目だ! 未来っ――!!
すると、彼女の閉じられた長い睫毛が僅かに動いて……きつく結ばれていたその唇から「はぁーっ……」と吐息が漏れた。
「未来ッ!!」
「未来さん!!」
いつの間にか、寡黙なミーシャも一緒になって跪き、未来の手を握り締めて声を掛けていた。すると――
「……え……わ……たし――」
未来がようやく小さな声を上げた。うっすらと目を開けると、自分を心配そうにのぞき込む二人の顔が目に入る。
「未来ッ!! よかった!!」
「未来さんっ!!」
二人が同時に声を上げ、重なり合った。
「はぁ――詩雨……ミーシャくんも……」
その瞬間、詩雨は思いっきり未来に抱きつき、声を上げて泣き始めた。
「うわぁーーーん!! 未来ッ! 未来ッ!!」
「……詩雨……元に戻ったんだね……うん……よかった……」
未来は、詩雨があの醜い肉塊から美しい女性の姿に変わっていたことにも、別段驚いた風もなく、さらりと言ってのけた。そのことに気付いたのはミーシャだけだったが、彼は彼で今のこの空気の中で、そのことを指摘するのはなんだか野暮な気がして、二人の美しい女性の抱擁をただじっと見つめることにしたのである。もちろん、ここ最近災難続きで負け続きだった彼にとっても、未来が無事だったというこの事実は、何だか一発逆転本塁打を放ったかのような爽快な気分だった。
「――詩雨……やっぱり、想像通りの美人さんだった……」
未来が穏やかに微笑みながら詩雨の頬にそっと手を添えた。詩雨はその手に自分の掌を重ね、少し小首を傾げながら未来を見つめ返す。
「……そ、そうかな……私は未来みたいな美人、見たことがないよ」
すると、少しだけ未来は困ったような顔をして……そっと目を逸らした。
「……ううん……私は……血にまみれているから……」
それがどうしたというのだ――
ミーシャは心の底からそう思った。彼女が今までどんな人生を送ってきたかは知らないが、少なくとも自分は、貴女のその自分の運命から逃げない生き方が好きだ――
案の定、詩雨も少しだけ困ったような顔つきになった。だが、すぐに話を切り替えて、今を生き抜くための相談を始める。さすがは主の実の妹さんだ――とても強い……強い
「ねぇ未来? 本当は聞きたいことが山ほどあるの……私にいったいどんな魔法を使ったのかとかね――でも今はまず、この窮地を切り抜けるほうが先決だわ! みんなで知っていることを共有して、情報を整理しましょう――ミーシャ?」
「は、はい――実は……お兄さまが逮捕されました」
「なんですって!?」
詩雨が驚きの声を上げる。未来が補足した。
「李軍の仕業よ――そして、大怪我を負っている」
「「え!?」」
未来の言葉に、詩雨とミーシャが同時に反応した。
「大怪我って――」
「たぶん、片目と耳、あと、どちらかの手の指に重傷を負っていると思う。李軍の支配下にあるクリーちゃん――彼女は
「――なんてことだ……」
ミーシャが悔しそうに唇を噛む。命に別条がなければいいが……
だが、詩雨は気丈だった。
「兄はそんなことでは屈服しないわ――それより、何でそんな事態になっているのかが知りたい」
「はい……元々将軍は黒河市郊外で開催予定の観閲パレートに向かう予定でした。ところが、主力部隊の進発を見送った直後にスナイパーによる暗殺未遂が起こったのです。その直後、執務室に難を逃れたところにボルジギンの公安がやってきて、一方的に逮捕連行されました」
「――その頃私は李軍に捕まっていて……未来は私を探しにここまでやってきたところを襲われた……」
「今までの将軍との確執から考えると、首謀者は李軍とみて間違いなさそうね……でも、このタイミングの良さは、彼一人の犯行とは思えない……」
「背後に誰か権力者がいるとみたほうが良さそうね――ミーシャ、李軍の足取りは?」
「建物の周囲――極めて限定的ですが――は大惨事です。あちこちに酷い死体が転がっています……でも、ひとしきり回ってみましたが李軍らしき死体は見ませんでした」
「では逃げ延びたか……」
「――おそらく、クリーちゃんを使って咄嗟に脱出したのでしょう。彼女は鳥類とのキメラ化が進んでいたから……」
「飛んで逃げたと!?」
「一番シンプルな方法が一番リアリティがあるものよ……ミーシャ、観閲部隊の指揮官は誰か分かる?」
「――おそらく
「……あのお爺ちゃんか……兄が最も信頼を寄せてる軍人だわ」
未来にはなんとなく詩雨が考えていることが分かった。
「その人に助けを求めるのね?」
「ええ――おそらく部隊はまだ今回のクーデターの事実を知らない……こちらの状況を楊将軍に知らせれば、必ず部隊を引き連れて救援に駆け戻ってきてくれるはずだわ」
「では、私はさっそく楊大校を追いかけます」
「そうしてくれる!? あとは李軍が私たちの生存に気付いていなければいいけど……」
当面それが一番の心配事だった。何せ李軍は未来と詩雨のDNA融合を企図して今回自分たちを捕まえたのだ。私たちのDNAがそれぞれ「不老不死」と「再生能力」であることは十分承知している。ここがどんなに破壊されていたとしても、二人の生存を確信してあらためて捜索にやってくるかもしれない。かといって、今さら詩雨のアパートには戻れない。あそこは完全に敵の手に落ちたとみるべきだろう。
「――李軍は諦めていないはずだわ……態勢を整えたら、必ずここに探しに来ると思う」
「……それについては私に少し考えが……」
「なぁにミーシャ!? 言ってみて?」
「――はい……本部拠点には、まだいくつか残留部隊がいます。その中には、未来さんに好印象を持っている兵士たちも多く――」
「なるほど! 灯台下暗しって奴ね!? 兵隊たちに匿ってもらう!」
「――そんなことが……!?」
「私の見たところ、未来さんは兵たちに相当好かれているようです……上手くやれば、不可能ではないかと……」
「ここで座して死を待つよりは百倍マシよ! 未来……やってみよ!?」
「う……うん……詩雨がそれでいいなら……」
未来は渋々承知するしかなかった。確かに詩雨の言う通り、あの純朴な兵士たちなら、困っていると言えば助けてくれるかもしれない。楊大校が助けに戻ってきてくれるまでの間だけだ。どのみち、どこかに身を隠さねばならないのだ。
「じゃあ決まりね! さっそく行動開始よ!?」
「その前に――」
未来が割って入った。とても深刻な顔だ。まだ何か、大きな懸念があるというのか――!?
「ミーシャくん、悪いんだけど、何か服を探して来てくれないかな……このままじゃちょっと」
「あッ――!!」
詩雨は途端に自分の胸と腰を両手で抱えてしゃがみこんだ。さすがにマッパでは、本部拠点に近付く前に厄介なことになりそうだった。
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