第154話 人間狩り
朝鮮半島――特に旧北朝鮮地域の地図は、実はほとんど存在しない。もちろん、衛星からの画像で地形そのものは分かるし、道路や建物なども詳細に分かるのだが、たとえばその駅や集落は何という名前で、この道路は何号線なのか、といった付加情報はもちろん衛星画像だけでは分からない。
そこで活躍するのが、日本がかつて20世紀前半にこの地を支配した時に作成した地図だ。かれこれ百年以上前に作られたものなので、今では固有名詞自体大幅に変わっているのだが、それでもそこがどういう施設だったか、なんと呼ばれた地域だったかといった付加情報はそれなりに役に立つ。特にそこがかつて鉱山だったとか、発電所だったとか、そういった戦略的に重要な情報は今でも大半が生きた情報である。
なぜなら朝鮮半島のインフラ設備は、そのほとんどが日本の植民地時代に整備されたもので、太平洋戦争が終わってからもこの地の人々はそれをそのまま使っていたからである。反日政策の酷かった南地域――旧韓国のことだ――では、まるで敵討ちのようにこうした設備は破壊毀損されて徐々に地上から姿を消していったが、北地域――旧北朝鮮――ではむしろ大切に使い続けていて、特に朝鮮総督府関係の歴史的建造物はそのまま当時の北朝鮮軍がその本来の用途とそう違わない用途で使用していたりする。
だから
士郎は、自分の風防モニターにそうした旧植民地時代の地図を映し出しながら、衛星からのGPS信号をレイヤーして正確に自分のいる地点を把握しながら順調に行軍を続けていた。
「士郎きゅん――私、お腹すいちゃったよぅ」
オメガ少女、西野
「――あと二時間で夜明けだから、少なくともあと一時間はノンストップで歩くぞ? 明るくなる前に隠れる場所を見つけて、そしたら休憩だ」
「えぇー……」
とにかく今回の行軍では、移動できるのは夜の間だけだ。明るい昼間はひたすら隠れて人目を避ける。それに、今の半島は完全に無政府状態だ。警察などの治安機関が存在しない代わりに、各地で武装集団がまるで野盗のように跋扈していると聞く。当然ながらまともな市民生活は出来ない状態だし、経済活動も各地に点在する小さな露天マーケットがまるで闇市のように存在するだけだ。
とはいえ、旧北朝鮮地域は、もともと戦争前から統治が崩壊しているような状態だったから、今の状況も当時の苦難の生活の延長線上のようなものだ。人々はボロを纏い、食料不足でガリガリに痩せ細った者たちが、まるで亡霊のように暮らしている。落差という点では、旧韓国地域に住んでいる人々の方がショックが大きいだろう。少なくとも都市部では先進国に近い生活環境だったから、今の無秩序で力だけが支配する世界は、まるで地獄のような光景に違いない。
さらに警戒を要するのは、この地域ではたびたび「人間狩り」が行われているという未確認情報だった。いったい誰が、何の目的でそんなことをしているのか。もちろんこの地では、人殺しをしようが強姦しようが、一切逮捕拘束される恐れはない。治安機関が存在しないからだ。だから、どこかの先進国からただ「殺人」を楽しむために密かに入国している輩がいるのかもしれない。あるいは卑劣な欲望を満たすために無差別に女性を襲う連中がいるのかもしれない。
いずれにしても、現在の朝鮮半島は暗黒の中世よりもまだ酷い、地上の地獄なのだ。
そんなことを考えながら、士郎はふと足許を見やる。すると、小さな白い布切れが泥だらけで打ち捨てられているのが視界に入った。おやと思ってそれを拾い上げ、手で広げてみると、案の定女性ものの粗末な下着だった。悪い予感がして周囲を見回すと、数十メートル先に半分朽ち果てた小屋が建っている。
センサーには周囲3キロ以内に上陸部隊以外の生体反応は存在しない。
「分隊はその場で待機」
インカムで全員に命じると、士郎はひとりその小屋へ向かう。
「士郎?」
「いや――
慌てて追随しようとする副官の久遠を制し、そのまま小屋を目指す。嫌なものを見せたくなかったからだ。
ほどなく小屋に到達する。それはまさに掘っ立て小屋という感じで、何枚もの板が打ち付けられた壁は隙間だらけだった。中を覗こうと思えば簡単に覗けるような、ぞんざいな造り。
粗末な木製の扉をキィと開けると――
予想通り、小屋の中央で若い全裸の女性が、両脚を大きく広げたまま仰向けで絶命していた。
士郎は遺体の傍まで近づく。その表情は恐怖に怯えたまま凍り付いており、目はカッと見開かれたままだった。顔といい身体といい煤や泥にまみれ、あちこちに擦り傷の出血痕や紫色の打撲痕があった。
士郎が目を覆いたくなったのは、彼女の陰部に折れた
士郎は彼女の陰部の異物を慎重に引き抜いたうえで両脚を動かして真っ直ぐにしてやり、バンザイをするように広げていた両手を胸の前で組ませた。そして大きく見開かれた瞳をそっと閉じてやる。部屋の中を見回すと、彼女が着ていたと思しき泥だらけの衣服が少し残っていて、それをそっと遺体の上にかけてやった。
腹の底から、怒りの炎がふつふつと燃え上がってくるのを感じる。まだ若いこの女性は、誰かの大切な娘だったか、あるいは妻、母親だったか……
ここは本当に地獄だ。恐らくここではこれが日常なのだろう。半島を横断するなかで、似たような光景を現認したら、そのまま見てみぬふりをできるだろうか。士郎には自信がなかった――
「大丈夫か士郎?」
小屋から戻ってきた士郎に、久遠が声を掛ける。他のオメガたちも、士郎から発せられる空気を敏感に察知して、心配の様子を見せていた。
「あ……あぁ……先を急ごう」
そう言うと士郎は、また先頭を切って先ほどよりも早足で歩き始めた。森崎が小走りに近寄ってくる。
「
士郎は真っ直ぐ前方を見つめたまま返事をする。
「わ……分かりますか?」
「はい。恐らく虐殺死体か何かでしょう? 私たちドロイドは精神的なダメージを受けませんので、次からは遠慮せずに使ってください」
「そ……そうですか……では……次はお言葉に甘えさせていただきます……」
森崎には分かっていた。恐らく石動中尉は先ほど、オメガ少女たちに見せたくない酷い遺体を発見してしまったのだ。人の死に敏感なのは良い指揮官の条件だ。この男は、信頼に値する――
***
夜が明ける前、士郎たちの分隊10名は、集落を見下ろす小高い丘の灌木が広がるあたりに偽装網を張ってその中に隠れることにした。上陸地点からはまだ15キロくらいしか進んでいない。
昨日の昼過ぎに「出陣準備」が掛かって最後の休息を取ってから、かれこれ12時間近くが経過していた。ほとんど徹宵で準備から出撃、上陸までをこなして現在に至るから、さすがに腹が減っている。補給と休息を一切必要としないドロイドたちと違って、生身の人間は効率が悪いのだ。
「森崎大尉、しばらく見張りをお任せしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです――ゆっくりと休息をお取りください」
森崎たちドロイド兵5ユニットは、そのまま偽装網の縁に全周展開して僅かな隙間から周囲を窺う態勢に入る。それを見届けると、士郎とオメガたち4名は、天幕の中心付近に集まって車座になった。
「ゆず、ご飯食べていいぞ?」
「やった」
楪は待ってましたとばかりに自分の
「あ! こら――何やってるの亜紀乃ちゃん?」
「はは……いいよいいよ」
久遠が咎めるのを制して、士郎は穏やかに亜紀乃の後頭部を見下ろした。先ほど見た若い女性の無残な遺体を思い出し、思わず彼女の頭を撫でる。「ふにゃぁ」と変な声を出して、亜紀乃が猫のような表情を作った。
くるみがそれを見て少し羨ましそうな表情を作るが、すぐに我に返って士郎に話しかけた。
「あの……士郎さん……先ほどは私たちに気を遣ってくださって、ありがとうございます」
士郎は、真面目な表情のくるみをじっと見つめ返す。
「……くるみ……」
「……私、分かりました――士郎さんが私たちに何かを見せないようにしたこと……」
「……うむ」
「私も分かっていたぞ? 士郎……さっき怒っていただろ?」
久遠も言葉を継ぐ。ゆずも、キノも、皆が士郎を見て頷いていた。
「……朝鮮半島が無法地帯であることは、私たちも知っています。だから、きっと酷いモノがあったのでしょう? でも、どうか自分だけで抱えないでください……」
「そうだよ士郎きゅん? 私とか、時々士郎きゅんの気持ちが自分に流れ込んでくるんだ……さっきはとっても悲しくて、辛い気持ちだって分かっちゃった」
この子たちは――!?
いつの間にこんなに
ん? ということはもしかして……
「あ、あぁ……そうだな……悪かった。これからは、もっと兵士として君たちを扱おう。それより……」
「どうしたのです?」
士郎の膝に座っている亜紀乃が首を巡らせて士郎を仰ぎ見た。
「ど……どこまで、その……俺の気持ちが分かるんだ?」
すると、久遠とくるみと楪の三人がお互いを見合わせ、それから悪戯っぽい笑顔を一斉に士郎に向けた。楪が口火を切る。
「三人とも、自分に対する気持ちはひしひしと感じてるよ♡」
「だから、久遠ちゃんがいつも士郎さんにベッタリでも大丈夫です――あれは副官という役回りを演じているに過ぎませんから」
くるみが自信満々に言い放つ。
「わ、私は副官だろうがなかろうが、士郎のことは命に代えてでも守るぞ……あ、あんなに愛情を感じてしまってはな……」
それを聞いた士郎は、顔を真っ赤に紅潮させた。なんてことだ――! 彼女たちを女性として見てしまう……ということは、すなわちこういうことなのだ。亜紀乃のことももちろん大切に思っているが、彼女とはまだ体液交換などやったことがないから、もしかしたら感情の同期は発生していないのかもしれない。実際、亜紀乃は相変わらずきょとんとしたままだ。
その時だった。
外周を警戒していたドロイドの川嶋
「集落より人が……女の子がこちらに近づいてきます」
その瞬間、天幕の中の5人は動きを止め、沈黙する。偽装網の隙間から外を窺うと、辺りはうっすらと明るくなってきていた。夜明けだった。
「中尉――射殺しますか?」
澪が外側を向いたまま、小声で訊ねてくる。彼女が構えるライフルの銃口には、既に
「――待て」
士郎は慌てて腹ばいになり、澪の隣に横たわって隙間から外を注意深く窺った。確かに集落方向から小さな女の子がこちらに向かってくる。その歩みは、てくてくと規則的で、何のためらいもなく――こちらを見ることすらしないで――真っ直ぐに近づいてくる。まるで、毎日のルーティーンのような態度だ。
もしかして……用を足しに来たのか!?
確かにこの辺りは集落を見下ろす位置で、ということは向こうからはこちらが見えない。しかも灌木が群生しているということは、茂みをトイレ代わりに使っているという可能性も……士郎たちが陣取る場所ではないかもしれないが、この近くが彼女のお気に入りのトイレ場所かもしれなかった。もともとこの地域の下水道なんて完全に破壊されているだろうし、そもそも水道なんて通っていない可能性の方が高い。先に気付くべきだった。各家庭にトイレ設備がないということは、こうした隠れやすい場所が集落のトイレ代わりになっている可能性があったのだ。
クソッ……こっちに来るな……
だが、女の子は士郎の願いに反して、ほぼ真っ直ぐこちらにぐんぐん近づいてくる。
「中尉――!?」
澪が再び判断を求めてきた。女の子を殺さなければ、こちらの存在を知られてしまう。
どうする……!?
先ほどの小屋で見かけた女性の死体と、目の前の女の子が重なって見える。クソッ! クソッ――! この子を殺したら、結果的にあの女性を殺した連中と我々は、大して変わらないことをしているということじゃないか!?
全員が、士郎を見つめていた。その決断を、待っているのだ――
「……こ……ころ――」
刹那――
集落の方向から、大きなざわめきが突如として聞こえてきた。
女の子はびっくりして立ち止まり、元来た方向を振り返る。士郎たちも思わず集落の方向を見ると、いつの間にか軍用トラックが一台、集落の入り口付近に横付けになっていた。
女の子はその様子を訝しむと、慌てて集落の方へ駆け戻っていく。
ハァァァ…………
士郎は大きな溜息を思わず吐いた。もう少しで「殺せ」と命令するところだった。
いっぽう集落では、騒ぎがますます大きくなっていた。
士郎たちは双眼鏡を覗き込んで、何が起きているのか確かめようとする。森崎が報告する。
「中尉、トラックから降りた男たちが……子供たちを集めているようです」
「なんだと!?」
確かに森崎の言う通りだった。服装から察するに、男たちは軍人ではなさそうだったが、手に手に自動小銃を抱えて集落の家々に押し入っては、中から子供たちを引っ立てて出てくる。そのたびにそれに追い縋るように親たちが出てきては、ひざまずいたり両手を合わせて祈ったりするようなジェスチャーをしながら男たちに何かを懇願している。その声が、風に乗ってこちらにもざわめきとなって伝わってきているのだ。
どう見ても子供を攫いに来た人買い業者だった。
すると男が一人、自分の脚に抱きつくようにして追い縋っていた母親らしき女性に、何かの塊を放り投げた。すると女性は弾かれたようにその塊に飛びついて男から離れた。女性はそれを拾い上げると、中を覗き込み、それから大人しくなった。それを見た男は、プイっと踵を返して傍にいた子供の襟首を掴み、トラックに追い立てる。
子供を引き取る代わりに、何か報酬を与えたのか!? だとしても、あんな小さな塊――袋――の中に入っているのは、何であれ大したものでもなければ量でもないだろう。米か、肉か……そんなものと我が子を引き換えにして納得するなど、士郎にはまったく理解できない。あるいは、それほどまでにこの地域の住民は生活に困窮しているのか――!?
すると、先ほどの女の子が集落の端に辿り着いてしまっていた。少しだけ立ち尽くすと、騒ぎを迂回するように集落の中に入っていこうとする。何で今近づくんだ!? 士郎たち全員がそう思っただろう。当然、人買いの男たちは女の子を見逃さなかった。大きな声で指さしながら仲間に女の子の存在を告げると、別の男があろうことかトラックの荷台からロープのようなものを取り出して、頭の上でブンブン振り回し始めた。
まさか!? すると男は、そのロープをまるで投げ縄のように女の子の方へ投げつけた。女の子は小走りで逃げようとするが、あっという間にロープに絡めとられてしまった。そのまま引きずり倒され、地面に転がる。それはまるで、牧場で豚か牛を捕まえるような光景だった。
人間狩り――
いや、正確に言うと「子供狩り」か――
この男たちは一体何者だ? 子供たちを捕まえて、いったいどこに連れて行こうとしているのか?
そして、集落の大人たちの大半は、自分の子供が連れ去られようとしていても、僅かばかりの何かを貰うと大半が納得して大人しくなってしまったようだ。
いったいここは、どこまで修羅の国なのだ――!?
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