第10章 覚醒

第129話 兄妹

詩雨シーユーー! ねぇ詩雨ぅ!? いるー!? 入るわよー」


 古びた鉄筋コンクリートの粗末なアパート。昼間でも薄暗い共用通路の一番奥にある鉄製の扉をドンドン叩いているのは神代未来みくだった。相手の返事も聞かずにガチャリと扉を開ける。

 中に入ると、貧相な外観と違って品の良い小綺麗な部屋――ダイニング兼リビング――が相変わらず落ち着いた雰囲気を醸し出していた。この部屋に来ると、本当に心が落ち着く。こんな日はやっぱりここで自分を取り戻さなきゃダメだ。


「どうしたの未来? そんなに血相変えて!?」


 奥から女の声が聞こえた。未来は勝手知ったる様子でダイニングを真っ直ぐ通り抜け、奥の寝室の扉を開ける。女性らしい部屋の片隅に置かれたベッドの上には、薄ピンク色をしたが蠢いていた。


「――あー、いたいた! ねぇ詩雨シーユー、ちょっと聞いてよ」

「分かった分かった! 分かったから、ちょっとあっちの部屋に連れてって?」

「うん」


 未来は肉塊を躊躇うことなく抱え上げ、ダイニングに連れていく。木製の茶色いダイニングテーブルにはあらかじめクッションが置いてあって、その上にそっと肉塊を置いた。


「今日はいつにも増してご機嫌斜めね? いったい何があったの?」


 肉塊が楽しそうに未来に話しかける。いや――正確に言うとその肉塊には「口」がない。それらしきものがさっきから唐突に薄ピンク色の表面に現れそうになるのだが、その裂け目はすぐに閉じ、また別の位置に不意に現れそうになっては急速に消えていく。

 だからこの声は、「声」というより未来の頭の中に直接響いてくる「思念」のような感じだ。


 何日か前、未来は偶然この部屋に辿り着いて、そこの住人と出会った。「住人」といってもは人間のかたちを成しておらず、分かりやすく言えば「人ならざるもの」「人外」、もっとSF的に言えば何らかの「生命体クリーチャー」とでも表現するしかなさそうな、そんな存在であった。

 だが、は何らかの精神感応によって未来と会話を交わすことができ、そのこともあってこの両者は気持ちを通じ合わせることができたのだ。とりわけソレの喜びようは凄まじく、数年ぶりに自分以外の誰かとコミュニケーションが取れたことにいたく感動して、未来がまた会いに来てくれることを願った。いっぽう未来は未来で、行動の自由は確保しているものの単身敵地に囚われ、明日をも知れぬ運命の中で「初めて出来た地元住民の知り合い」しかも「性別は女性」という点に心惹かれ、以来こうやって足繁く通うようになっていたのである。


 当然その中で二人は自己紹介をし合い、お互いの名前も知る仲となった。

 肉塊は自分のことを「詩雨シーユー」と名乗った。未来も「自分が日本兵であること」「華龍ファロンに拉致連行されてきた身であること」「今は客人ゲスト扱いで比較的自由に行動できていること」など、ざっくりとしたことは伝えたが、どちらかというと会話の中心はとりとめもない、いわゆる女子トークに比重が高まっていったのは、お互い久しぶりにできた「女友達」という気安さだったのだろうか。

 そんな中で、未来はいわゆる「愚痴」をこぼすようになっていた。なぜだか未来には詩雨が自分より年上の女性であるような気がして、ついつい甘えてしまったのである。不老不死のDNA変異特性を持つ未来にとって、その実年齢を考えれば、今生きている人間の中に自分より年上の者はほとんど存在しない。だから、普段なら口にしないような、どうにもならない話だって、詩雨には安心してこぼすことができる。詩雨もまた、そんな未来の態度を嬉しそうに受け容れ、いつだって親身に相談に乗ってくれるようになっていた。

 二人は既にお互い、気の置けない仲になっていたと言えるだろう。


「どうもこうも……なんで男の人ってあんなに頑固なのかしら? もう一方的に自分の言いたいこと言って、自分は完璧に正しいーって思い込んでるんだから! バカみたい!」

「そんな頑固ジジイが華龍にいるの? どんな人?」

「え? 知りたい? 言っても分からないかもだけど」

「知りたい知りたい! だって華龍はこの街を支配しているのよ!? どんな傲慢な男がいるのか、市民として私にも知る権利はあるはずだわ」


 詩雨は相変わらず嬉しそうだ。


「じゃあ教えてあげる! 名前はヂャン秀英シゥイン――一応この街の華龍の中では、一番偉い人のようだわ」


 一瞬だけ間があって、それから詩雨は先を促した。


「へ、へぇー……それで、その張さんは今日未来みくになんて言ってきたの?」

「それ! まったくお話にならないのよ……」


 未来の回想が始まる――


  ***


 この日。未来は朝からヂャン秀英シゥインに呼び出されていた。

 相変わらず辛気臭いこの男は、鋭い眼光を未来に遠慮なく浴びせながら、それでも言葉遣いは異様なほど丁寧だった。いわゆる慇懃無礼という奴だ。

 部屋の中央にある年季の入った黒いソファーに向かい合った二人の間には、相変わらず見えない壁が立ち塞がっている。


「この街には慣れたかね」


 張は世間話から入るつもりだ。


「おかげさまで――。それなりにやっています」


 張お手製のお茶を一口啜りながら、未来は大して楽しくもなさそうな態度を取ってみせる。


「どうだい? ハルビンは良い街だろう。異国情緒に溢れ、人々も活気に満ちている。とても戦時下にあるとは思えないだろう」

「……そうですね……それは認めます。私が出歩いていても、特に因縁をつけてくるような人もいないですし」

「それは良かった――」


 この男は、街の繁栄は華龍ファロンのお陰、とでも言いたいのだろうか。自分たちが統治者として優れていると……!? だが、それは一日の半分だけだ。夜になると、この街はまるで戒厳令が敷かれているかのようだ。

 未来の方からは決して話は振らない。黙り込む彼女を見て、張は少しだけ話題を変える。というか、今日はそれが本題なのだろう?


「ふむ……ところで未来、君は我が華龍について、どういう印象を持っているかね」

「……どうって……世界中で引き起こされるチャイナテロの黒幕――。中国内戦を長引かせる最大の要因――。そして、意味もなく敵兵を拉致して何かの取引材料にでも使うつもりの戦時国際法違反の無法者集団――といったところでしょうか」

「はは――相変わらず手厳しいね」

「私、どこか間違ったことを言っているでしょうか。これらはすべて事実です」

「なるほど、君の目からみるとそう映っているのだろう。だが、街の住人の様子はどうだ? 我々はそんなに悪の集団に見えるかね」

「――確かに街の人たちは今の生活に特に不満を抱いているようには見えません。ですが、いつの時代も庶民は為政者の強権を恐れるものです。華龍が公平な選挙によって選ばれた民主的な政権でない以上、彼らが不満を口にしないのは、あなた方の強権発動を恐れているからでは?」


 未来は、PAZに追いやられた日本人たちのことを思い出す。彼らだって、不満は山のようにあった。ただ、それを口に出すことも、実際に抗議行動を起こすこともできなかった。日本政府の強大な警察権力、軍事力が無言の圧力となっていたからだ。


「――いかにも自由主義陣営の人間が言いそうな話だな。いつだって民主主義者は選挙で選ばれたことを自らの正統性の拠り所にする」

「それの何が間違っているんです? あなた方華龍は、誰の信任があってこの街を支配しているのですか?」

「……信任か……中国共産党は人民の信任によって選ばれた正統な政府だった。我々はその共産党の正統な後継者だ」

「公安の監視のもと、投票率99.9パーセントで行われる選挙など、自由選挙とは言いません。現に共産党以外の政党は非合法化されて存在しなかったではありませんか? あれは単なる選挙ごっこです」


 未来は政策論争を仕掛けられてもいくらでも言い返せる。PAZで暮らした有り余る時間の中で、その手の書物は読み尽くしたのだ。

 張は、意外にこの娘が論理的なことに内心驚き、話題をずらすことにした。やはり民主主義国家の国民に選挙論で論戦を挑むのは少々骨が折れる。


「では、君が言うところの民主的な選挙で信任された政府が統治する国家は、外国に出かけて行って何をしてもいいと?」

「――あなたが何をおっしゃりたいのかよく分かりませんが……少なくとも我々日本軍は、自衛のための戦争を大陸で行っています」

「そうだろうか!?」

「そうです――無差別に繰り返されるチャイナテロのせいで、私たちは疲弊しています。国民の生命財産を守るため、その不法行為を行う黒幕を叩こうとするのは、国家の正統な権利です」

「それが罪もない一般市民を巻き込むものであっても!?」

「それは……あなた方が一般市民を盾にしているからではありませんか」

「ではなぜ日本軍は華龍とは無関係の地にある人民の耕作地や家々を爆撃したり、勝手に集落に進駐したりして彼らの生活を滅茶苦茶にするのだ」

「それは……そこまでひとつひとつ検証できないからです。どこの村が華龍の影響下にあり、どこの街が華龍とは無関係なのか、調べる暇はない――」

「そうだろうか? 自らの生存を賭けて戦うことに正義があるのなら、無辜の中国人の生存は最低限保障しなければ、その正義自体が単なる口実にならないだろうか」

「ぐっ……」


 それは……この男は、一見正しいことを言っているように聞こえる。だが――それは詭弁だ。でも未来にはその詭弁を覆すだけの論理的説明がすぐには構築できない。えっと……えっと――。

 張はその隙をついてさらに未来に畳みかける。


「未来――戦争とは、それぞれの側にもっともらしい正義があるものなのだよ……私はそれを否定はしない。人間は、自分が正しいことをしていると思い込まなきゃ、とてもじゃないが相手の幸せを奪うなんて酷いことできないからね」

「…………」

「私が心から求めているのは平和だ。誰もが明日の命の心配をせず、幸せに暮らせる世の中を実現することだ――」

「だったら――」

「だが、我々の方だけが一方的に白旗を上げるわけにはいかないんだよ……分かるだろう?」

「何故です? 戦闘を止めれば、今すぐにでも救える命はたくさんある――」

「華龍は別に日本軍に対し劣勢にあるとは思っていない――むしろ拮抗しているんだ。現に君たちはこの20年間、我々を制圧しきれていない」

「――それは……私たちが人道主義に基づいて、あなたたちを追い詰め過ぎないようにしているからです」

「本気になれば、朝鮮のように滅亡すらさせられると?」

「そう……かもしれません」

「ふむ……ではやはり我々は屈するわけにはいかないな……国が消滅した民が、どれだけ悲惨な境遇に陥るか、我々は隣国の惨状を目の当たりにしているのだ」

「では……私たちはこれ以上話し合う必要がないのでは!? お互い好きなだけ戦って、好きなだけ殺し合って……あと百年くらい戦っていれば、そのうち決着するのではありませんか?」


 未来は半ば投げやりに答えた。そもそも私のような一介の兵士に、この男は何を求めているのだ。こんな話は外交官同士でやってくれ。私の出る幕じゃない。


「――ところが、だ。この絶望的な戦争を……未来みく、君の力で終わらせることが出来ると言ったら?」

「……は? どういうことです?」


 この男は、唐突にいったい何を言い出しているのだ?


「君の能力の秘密を教えてほしいんだ……もちろん無理にとは言わない――約束だからね。だが、その力が解明されれば、我々は戦争終結に向けてさまざまなオプションを選べるようになる」

「……言っていることの意味が分かりません……なぜ私の能力が戦争終結に繋がるのです?」

「それは……いろいろだよ……」

「はぁー……私の能力とは、主に戦闘に関わるものです。それを獲得して戦争を優位に導き、戦いに勝利したいだけしょう。――お断りします」


  ***


「――なるほどねー。その張って人、なかなか理屈っぽい人みたいね」


 詩雨シーユーは未来の話を面白そうにじっと聞いていたが、なぜかいつものように同調して一緒にこき下ろしたりはしなかった。


「もう! 理屈っぽいっていうか……一方的なのよ。私の能力が戦争終結には必要だーとか言ってるわりに、なにがどう平和に結びつくのかさっぱり分からないのよ――横暴だわ」


 未来は相変わらず憤懣やるかたないといった様子だ。それはそうだ。この展開だと、戦争終結に協力しない未来が悪いみたいではないか。


「――だいたい、戦争を終わらせたいのなら停戦すればいいのよ! 世界中でやっているテロを止めればいいのよ! あの人たちは自分こそ正義、みたいなことばっかり振りかざしてるから世界の共感を得られないんだわ」

「……でも、未来には優しい態度で接しているようで安心したわ! なんてったって未来は私のお友達だもの。あなたが酷い目に遭っているんなら、私も黙ってはいられないところだったわ」

「うー……それは認めるけど……だったらとっとと解放しなさいってことよね」

「まぁまぁ、甘いものでも食べて、心を落ち着かせなさい?」


 そういうと、詩雨は「キッチンの食器棚に確かクッキーが置いてあったはず」とそちらの方を探してみるよう未来を促す。「そんなものあったんだ?」と言いながら、未来も甘いものにつられていそいそとキッチンに向かった。

 その時――


 コンコンコン


 突然、玄関の扉をノックする音が聞こえた。


「えっ――!?」


 未来は驚愕して足を止めた。詩雨の家に来客など、想像もしていなかったからだ。彼女はまるで隠れ住むようにここで生活している。

 食事だって、ジャガイモとか果物とか肉とか、食材そのものをテーブルに置いておくと、それに覆いかぶさるようにして丸ごと摂取するという独特の方法で食べていることを未来も最近ようやく知ったくらいだ。普通の人間はそういう相手と食事はしないだろうし、そもそもこの見た目だ。未来以外とは意思の疎通もままならないわけで、家を訪ねてくる友人がいるなどとは到底思えなかったのだ。


 ノックは、再度聞こえてきた。

 そして「おーい、勝手に入るぞ」という男の声が扉の向こうから聞こえてくるではないか。


「ま、まずくない?」


 未来が詩雨の方を見る。もし日本兵が家に上がり込んでいる姿を他人に見られたら? そして、詩雨のこの人外の姿を見られたら? 大騒ぎになるのは間違いない。

 しかし、詩雨はなぜか落ち着いたものだった。すると――


 ガチャ――


 未来が慌てふためいていると、扉は容赦なく開けられてしまった。

 ドアノブに手を添え、何のためらいもなく男が部屋に踏み入ってくる。「いやー最近忙しくてな」などと言いながら顔を上げたその男を見た瞬間――

 未来は凍り付いてしまった。そんな未来を見た男もまた……驚いて固まってしまう。


 そこに居たのは――ヂャン秀英シゥインその人だった。


「「え――!?」」


 張の顔も、驚きのあまり間抜け面だ。二人で声を揃えて驚愕の対面を果たす。


「――未来……なんで……!?」

「――あ、あなたこそ……!?」


 すると未来の頭に、いつもの詩雨の思念が入ってきた。


「――おかえり、


 ――え!!? ええぇぇぇぇっっっ!!!?

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