第126話 為すべきこと

「君が頭の黒いネズミですか」


 両手首と両足首をガムテープで縛りつけられ、椅子に無理やり座らされた浩宇ハオユーの前に、禿頭の小男が立っていた。その傍らには、紺のスラックスに黒いブルゾンを着た屈強そうな男が二人。

 そこは大人四人が座ればもう満杯になる程度の小部屋で、四方を灰色の壁に囲まれ、浩宇が座る椅子の前に無機質なテーブルがひとつ置いてあるきりだ。窓ひとつなく、薄暗い部屋の中で強烈なライトだけが浩宇の顔面を煌々と照らしている。それはまるで、尋問室のような息苦しさだった。


「――な……なんのことだ……」


 浩宇ハオユーはやっとの思いで呻くように声を上げる。両目を射抜くライトの眩しさに普通に目を開けていられず、彼の頭は先ほどから伏せ気味だ。


「おや、ネズミなのに人間の言葉を喋るんですねぇ」


 その途端、強烈な痛みが浩宇の顎に炸裂し、ゴッという鈍い音が小さな部屋の壁に消えていった。


「がはっ――」


 口の中に、鉄の味が広がった。鼻腔を通してきな臭い匂いが伝わってくる。殴りつけたのはブルゾン男1号だった。


「いったい研究施設に何の用だったんですかねぇ」


 小男が下卑た声を投げかける。二、三歩移動したことで、浩宇を照らす照明の光線が、小男の顔を半分だけ照らし出した。リー先生――!

 同じ基地にいながら、浩宇は李軍リージュンを間近に見るのは初めてだった。もちろん、部隊の観閲や何かの集会の時に、檀上に立つ李軍を遠目で見かけることはあったが、こうやって近距離で正対したことはない。 

 李の風貌はまるで大昔の大魔法使いのようで、大きく尖った鷲鼻に落ちくぼんだ眼窩、その奥から見開かれた小さな瞳は黄色くくすんでいる。いかにも不健康そうな茶肌色の皮膚は、ところどころ大きなシミが広がっていて、まるで腐りかけの黄林檎のようであった。

 李軍は機嫌よさそうに話を続ける。


「驚きましたよ――だって、いちゃいけない人がいちゃいけない場所にいたんですから」

「李先生……これは……違うんです――」

「ほう……では何を?」

「……ちょっと……中の方で物音がしまして……それで立哨の義務として……様子を見にアグッ!」


 ゴッという鈍い音がして、再びブルゾン男1号の鉄拳制裁が飛んだ。


「おやおや……嘘が下手ですねぇ……あなたたちの持ち場は廊下までですよ? 中で何が起きていようが、中に入って確かめる責任はあなた方にはありません」


 完全に失態だった。

 研究施設の内部を探ろうと、密かに忍び込んだところまでは計画通りだった。だが、数歩もいかないうちにあえなく捕まってしまうとは――

 いったいなぜ潜入がバレたのだろう。あの近辺には監視カメラはなかったはずだし、周囲に人の気配も一切なかった。どうして……


「おや? 何でバレたんだろう……みたいな顔をしていますね。そんなに私のことを間抜けだと思っていたのですか?」


 ――ゴッ!! 再び殴打される。もう顔面が痛みで麻痺して自分の顔が自分のものじゃないみたいだ。次第に呼吸も荒くなり、唇が腫れ上がったせいで口角から涎と血がダラダラと垂れ始める。

 ブルゾン男2号がいきなり迫ってきて浩宇の胸倉を乱暴に掴み、そのまま軍服を左右に引き裂いた。首から胸板にかけて肌が露わになる。既に汗が噴き出していて、それが強いライトのせいでテラテラと光っていた。


「――話を元に戻しましょう。なぜ研究所に侵入した!?」


 その瞬間、胸元に激痛が走り、全身が引き攣る。


「ぐあぁぁぁぁッッッ!!!」


 ブルゾン男2号が、長さ30センチくらいの電極棒を浩宇の裸の胸に押し付けていた。要するにスタンガンだ。皮膚の焦げる嫌な臭いが僅かに漂う。


「……だから……見回り……ですよ……中で……物音が……した……んでギャアァァッッッ!」


 また電極棒を押し当てられた。男たちからは「同情」や「憐憫」の気持ちは一切感じられない。部屋の中は、浩宇の汗と皮膚が焼ける臭いで異様な臭気が充満し始めていた。


「――ふむ……では質問を変えましょう。誰に指示された!?」

「……誰って……誰でもない……ですよ……私は……立哨の義務を……果たした……だけ――」


 またブルゾン男2号が電極棒を押し当てようとした寸前、李軍がすかさず腕を上げて制止した。


「――なるほど。君は少しだけ骨があるようです……では、別のことで兵士の義務を果たしていただきましょう」


 李軍の顔が悪魔のように歪んだ笑みに変わった。


  ***


 その頃――

 未来みくは今日一日外に出ているよう浩宇に言われ、仕方なくハルビンの街中を散策していた。一日歩き回ったせいで、さすがに少々疲れ気味だ。

 既に日は大きく傾き、空はオレンジ色から紫色に美しいグラデーションを描いている。そのグラデーションも、見る間にその比率を変え、急速に漆黒の度を増していく。

 そろそろ日が暮れる――街は徐々に昼間の喧噪を削ぎ落とし、華やかな看板も、店先の賑やかなワゴンも、いつの間にかその姿を覆い隠そうとしていた。家路を急ぐ人々も心なしか早足だ。その代わりに通りのあちこちで、オレンジ色の街灯が今夜の仕事を始めようとしている。


 浩宇ハオユーによるとキメラたちは夜行性とのことだったので、ここから先は彼らが活動を始める時間だった。とはいっても、未来はまだ華龍基地に戻るわけにはいかない。

 今日はとにかく可能な限り遅く帰ってきてくれ、できれば自分の当番が終わって2時間後――つまり21時頃がベストだ、という彼の意見に従うとすると、最低でもあと3時間くらいは外にいなければならない。

 今までのキメラ事件――キメラが人間を襲う事件――は大抵真夜中に起きていたらしいので、まぁそれくらいまでの時間なら大丈夫だろう。未来自身には帰営の門限が決められていないという特権も幸いした。


 さてと……どうしようかな――

 日が暮れたハルビンの街は、本当に時間を潰す場所がない。基本的に商店は閉まるし、もちろん食堂もやってない。これもすべて「夜行性」で「派手なものや明るいものに集まる」という習性を持つキメラから身を守る手段なのだが、これだけの大都市が日暮れとともにゴーストタウンのように静寂に沈んでしまうというのは、やはりいつまで経っても慣れなかった。

 PAZですら、夜はもっと賑やかだったのに――

 未来は、ふと昔の暮らしを思い出す。あの頃は、夜になるとみんなで焚火をして、ささやかな食事を楽しんだものだ。独特のクセがあって苦くて固い獣の肉でも、みんなでワイワイしながら食べたら不思議と美味しかった。あの人たちは今、どうしているのかな……元気で過ごしているといいけど……未来はとりとめのないことを思い浮かべる。

 夜になると、じっと息を潜めていなければならないこの街の人たちは、PAZとは違った意味で不幸だな……そう思いながら、未来はその暗闇のとばりが下りた街並みをぼうっと眺めた。


 おや……?


 視界の片隅に、何かがチラリと映った気がした。

 キメラが現れたのかと少しだけ不安になって、今度はしっかりと意識しながら、先ほど眺めた方向をもう一度凝視する。街並みは当然真っ暗で、人々の夜への備えは万全の様子だった。暗闇に目が慣れてくると、うっすらと家々の輪郭ぐらいは見えたりするのだが、そのほかに特段変わった様子は見られない。


 ……ん?


 やはり何かがそこにある気がする。

 未来はもう一度、気配の出どころを必死に目を凝らして探す。すると――


 見つけた! 光――!?


 深海に沈んだような街並みの一角に、ほんの僅かだか白く瞬いている光があった。あれは……部屋の明かり!?

 日没後のハルビンで、部屋の明かりを外に漏らしてしまうのは生死に関わる危険な行為だ。他の家々がしっかり灯火管制をしている分余計に目立つから、光に吸い寄せられる習性を持つキメラたちが続々と集まってきてしまう。

 家人がうっかり忘れているのか? それとも、何らかの事情があって明かりを隠せない事態なのか!?

 いずれにせよ、このまま放っておくと、あそこに住んでいる住人は今夜一晩を無事に過ごせる保障がない。

 気が付くと、未来はその小さな明かりに向けて猛然と走り出していた。


  ***


 ようやく辿り着いたその場所は、猥雑とした裏通りにある粗末な集合住宅だった。国際都市ハルビンの表玄関が聖ソフィア大聖堂周辺だとすると、この辺りはまさに勝手口――というか裏庭――と言ってもいいのだろうか。一般的な住宅街とは少し毛色が違う、いわゆる貧困層が暮らす一帯のようだった。

 先ほど未来が目撃した明かりは、目の前の集合住宅の三階にある部屋の窓から漏れていた。やはり隣近所の家々はぴっちりとカーテンを閉め、厳重な灯火管制をしている。あの部屋だけが、まるで灯台のように煌々と外に光を放っていた。

 なんで部屋の明かりを隠さないのだろう!? 電気を点けたまま、寝ちゃってる? それとも、小さな子供しかいなくてよく分かってない? もしくは、部屋の中で何らかの事情で動けなくなり、今の危険な状態を知りながら困っている?

 近所の住人がこのことに気付いていないのは当然であった。この街の人々は、夜になると外を覗かない。すぐ隣の家がこんなことになっていても、気付く機会がそもそもないのだ。ということは、今のこの状態を注意できるのは、やっぱり私しかいないじゃないか――


 元々人見知り気味の未来は、少しだけ逡巡する。突然私みたいなのが部屋を訪ねたら、住人は吃驚するんじゃないだろうか。しかも日本人だし……。

 でも、もし子供しかいないとか、事情を知らないで明かりを点けているのだとすれば、ちゃんと訪ねて行って注意喚起しなければ……! 明日になってこの部屋の住人が惨殺されていました、なんてことになったら、後悔してもしきれない。

 未来は意を決して、集合住宅の共用玄関扉を開けた。


 扉から中へ入ると、すぐ目の前に階段があった。古い鉄筋コンクリート製の建物は全体的に薄汚れていて、相当昔に建てられた様子であった。未来は、ゆっくりと階段を昇っていく。目的地は三階。階段を踏み締めるたびに、コツンコツンと自分の足音が響く。くすんだ濃い灰色の壁にはところどころ亀裂が走り、雨垂れの跡のように黒いカビがシミになって天井部分から筋を曳いていた。

 ようやく三階まで登りきると、今度は薄暗い廊下が奥まで続いている。点々とつく天井灯は街灯と同じくぼんやりとしたオレンジ色だったが、古ぼけたこの建物には妙に似合っていて、却って落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 未来はふぅーっと深呼吸をして、廊下に足を踏み出す。目的の部屋はおそらくこの廊下の一番奥、左側の部屋だ。いくつかの扉の前をゆっくりと通り過ぎる。その都度、そこに暮らす住人の息遣いが聞こえてきた。テレビの音、誰かの低い話し声、掃除でもしているのか何やらガチャガチャとした物音……人々の、小さな暮らしがそこにはあった。

 ほどなく未来は目的地の部屋前に辿り着く。一瞬立ち止まって、中の様子が聞こえないかと耳を澄ましたが、この部屋からは何一つ――物音ひとつしなかった。

 無人……!?

 もしかして、出かけているのか。でもこの街で夜出歩く人などいないだろう。では、誰かの家に泊まりに行って、自分の家の電気は消し忘れたか……

 とにかく訪ねてみるしかないと思い、「ごめんください――」言いかけて思わず息を飲む。

 こんなところに住む人々が言語翻訳チップをインプラントしているとは思えない。だとすれば、自分の発する日本語は、そのまま「日本語として」住人の耳には届くだろう。そうしたら、何事かと隣の住人が廊下に出てくるかもしれない。その時、日本軍の防爆スーツを着た自分の姿を見たら……

 ただでさえ未来の容姿は目立つのだ。ここはあくまで敵国だ。パニックになった住人が騒ぎ出したら、どんな面倒なことになるか分からない。


 未来はあらためてくだんの部屋の前に立つ。拳を上げて扉をノックしようとして――やはり思い直してドアノブに手を掛けた。

 すると……

 ドアノブは何の抵抗もなくくるりと回転し、扉がキィと小さな音を立ててすんなりと奥に開く。

 その状況に内心驚きながらも、未来はゆっくりとその部屋へ足を踏み入れた。


 玄関口は、思いのほか綺麗に整っていた。

 そこから奥の部屋の扉まで続く短い廊下には、淡いベージュのカーペットが敷かれていて、未来はそのお蔭で足音を立てることなく奥へ進んでいく。

 廊下の突き当たり――リビングと思われる部屋の入口扉は格子状にガラスがはめ込まれていて、室内の様子がそれなりに見える。慎重に中を覗いてみるが、住人の気配はない。だが、思った通り部屋の電気は煌々と点いている。

 未来は思い切ってリビングドアをカチャリと開けた。


 そこは、リビングというよりダイニングだった。厳密に言うと、部屋の真ん中にダイニングテーブルがあって、壁沿いにはいくつかのキャビネット、モニターなどの家電類、そして大きめのソファが置かれていた。窓は開け放たれ、カーテンが風になびいてゆらゆらと揺れている。

 未来は部屋に入るときょろきょろと辺りを見回したが、やはり住人はいないようだった。そのまま窓際までゆっくりと進み、外に向かって開け放たれた窓に手を伸ばしてパタリと閉める。風がやみ、先ほどまで揺らいでいたカーテンをシュッと引くと、縁にくっついていたマジックテープで継ぎ目を密閉するように張り付けた。

 どうやらこれで部屋の明かりが外に漏れることはなさそうだった。ふぅーっと息を吐き、「これでよし」と思わず小さな声をあげて、くるりと回ってそのまま部屋から出ようとした時。


「――謝謝シェシェ(ありがとう)」


 どこからか、女性の声が聞こえた気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る