第84話 久遠スケルトン

 士郎はガシッとくるみを抱き寄せた。

 くるみは、湯船の中で胡坐あぐらを組んだ士郎の上にまたがり、ぴったりと身体を密着させる。豊かな胸が士郎の厚い胸板に押し付けられると、弾力を持った双丘はぷるんぷるんと士郎の身体の上を滑り回る。それがきっかけだったかのように二人はお互いの裸身を夢中で擦りつけ合い、その感触を確かめ合う。

 その勢いで、士郎は左腕をくるみの細い腰にガシリと巻き付け、右手で彼女の後頭部を掴むと半ば強引にその上気した顔を真正面に引き寄せた。

 頬と頬、鼻と鼻が密着したかと思うと、士郎はそのまま貪るようにくるみの唇を求め、熱い吐息を漏らしたくるみも士郎の唇に激しく吸い付いて――


「……ろう! 士郎! ――大丈夫か!? ……士郎っ……!?」


 ――はッ……!?


「士郎ッ!! うなされているぞっ!? ……苦しいのかっ??」


 え……?

 次第に視界が開けてくる。

 無意識に目を開けると、上から黒い影が自分を覗き込んでいた。


「……」

「――汗びっしょりじゃないか……!」


 そう言うと、顔にひやりとした感触が伝わってきた。


「……く……るみ……?」


 思わず呟くと、影が激しく揺れて士郎の両肩を揺すった。


「くるみの番はもう終わりだ……私は……久遠くおんだぞっ」


 ――今度こそはっきりと意識が戻ってくる。

 見上げると、薄暗がりの中で蒼流久遠が上から心配そうに見下ろしていた。額には、冷たいおしぼりがあてがわれている。


「うわっ!? く……久遠っ!?」


 そう言うと士郎はガバっと跳ね起きようとしたが……すぐにふらっ――とよろめいて再び倒れ込んでしまった。身体に力が入らない。

 頭の下に、程よく硬くて柔らかい感触がある。枕だった。


「そうだぞ……気が付いたなら、もう少しリラックスして横になってるといい……」


 いつの間にか、士郎は見覚えのないベッドに横たわっていた。天井にはいくつかダウンライトが埋め込まれているらしく、オレンジ色の小さな灯りがぼうっと辺りを照らしていた。次第に目が慣れてくると、そこはツインルームほどの広さの部屋であることが分かる。ベッドはクイーンサイズで広々としており、ふと横に目をやると、傍らに久遠が腰掛けていた。


「……ここは……?」

「私の個室だ。もう小一時間、ここで眠っていたんだぞ」


 久遠は穏やかに微笑むと身体の向きを少し変え、もぞっとベッドに膝を乗せてきた。そのまま覆いかぶさるように近づいて、横たわる士郎の頬につっ――と人差し指を這わせてくる。そよそよと頬を撫でる風が心地よい。少しだけ風上に視線を向けると、久遠が左手に団扇うちわを持って士郎をあおいでいた。


 ――てことは、さっきのは……夢……?


 途端に士郎は赤面して固く目を閉じる。寝返りを打ち、久遠とは反対の側に身体を向けた。なんという破廉恥な夢だ――! いくら血気盛んな年頃とはいえ、あれはさすがにマズい……。まるでくるみのことを情欲の対象としてしか見ていないみたいじゃないか。


 それにしてもリアルな夢だった。未だに夢の中の感触が全身に残っている。すべすべとして掌に吸い付くような柔らかな肢体。ぽってりと艶めく唇。そして、絡め合う舌のなまめかしい感触……。

 士郎は再び身体の芯が熱くなっていくのを感じ、慌てて言葉を発する。


「く、久遠……俺は……どうしてここに……?」


 背中を向けたままの士郎に、久遠は優しく返事をする。


「くるみと風呂に入っていたら、急に気絶したらしいじゃないか……まったく、のぼせるほど入っているなんて、士郎は意外に長湯なんだな……」

「そ……そうか。いやぁ……みっともないな……」

「それで、風呂場からくるみの悲鳴が聞こえたから、みんなで慌てて駆け付けて、のびたままの士郎をそのまま私の個室に運び込んでもらったというわけだ」


 その言葉に、ふと気になって掛けられていたシーツをガバっと剥ぎ取る。

 全裸だった。

 脇の下と首筋、下腹部の中心に、タオルに包まれた氷嚢ひょうのうがあてがわれている。「がッ」と思わず声を上げて再びシーツを被る。


「……その……悪いが寝間着が見当たらなかったのでな……風呂から引き揚げて、そのままの格好で休ませていたのだ……」


 久遠が戸惑うような声で説明する。


「……それでその……のぼせてたみたいだったから……し、然るべきところを冷やしていたのだ……」

「……っ!」


 確かに応急処置としては百点満点だ。首筋、脇の下など毛細血管や大動脈が集まるところを冷やせば、身体のオーバーヒートは時間の経過とともに改善する。熱中症の処置と同じだ。

 だが、セオリー通りとはいえ、股間の中心にも氷嚢があてがわれていたという圧倒的事実が士郎を打ちのめす。

 先ほどの生々しいまでの夢のせいで、そこは相変わらず活火山のようにそびえ立っているではないか。


「……み、見たのか……?」


 士郎は、恐る恐る久遠に問いただす。すると、背中越しにおずおずと返事が返ってきた。


「……わ、わざとじゃないぞ……その……いちばん熱を持っていたようだから……」

「……っ!!」

「……す、少ししか触ってないぞ! ……その、氷嚢をあてがうのにちょっと……」


 こみ上げる羞恥心に耐えきれず、士郎は再びガバっと起き上がって今度は久遠の方へ振り向いた。「ひゃっ」と小声を上げて久遠が身体をのけぞらす。その顔は真っ赤に染まっていて、切れ長の美しい瞳はきまり悪そうに横を向いていた。

 そんな彼女の様子を見て、士郎はますます立場をなくす。穴があったら大至急飛び込みたい。


「……ま、まぁ……しょうがないけど……」


 士郎は必死で声を絞り出し、この期に及んで弁明を試みる。


「――これはその……しょうがないんだ……身体が勝手に反応して……だから別に変な気持ちを持ってたわけじゃ――」

「だ! 大丈夫だ士郎! 分かっている!」


 いつのまにかベッドの上に正座していた久遠が士郎を制する。

 卵のようなシルエットの頭頂部から細く引き締まった腰のあたりまで、相変わらずその艶やかな黒髪は美しく、まっすぐに伸びていた。原宿ショッピングの時と同じく、ポニーテールを下ろしたガーリーな雰囲気だ。

 前髪はぱっつんと切り揃えられ、ちょうど同じ高さにある切れ長の瞳と長い睫毛は相変わらず涼やかな印象を彼女に与えている。ほっそりとした頬は先ほどから朱色に染まっていて、薄く開けられた唇から僅かに荒い息が漏れていた。

 士郎はあらためて気持ちを落ち着かせようと久遠を見つめる。目の前にいるのは、士郎の煩悩を無限に掻き立てるくるみではなく、久遠なのだ――。


 士郎がじっと見つめてくるのに気づいたのか、久遠は恥じらうように視線を逸らし、正座を崩して片側に脚を投げ出す。その様はまるで、遥か昔に江戸の職人が描いた美人画のようだ。

 背中に小さな光源を背負っているせいで、士郎から見ると久遠は逆光になっていて、身体のシルエットが美しい曲線を描いていた。次第にその淡い光に慣れてきた士郎は、彼女が着ている服になにげなく目をやり――

 ドクンッ……と再び鼓動が大きく脈打つ。


「し、士郎……?」


 久遠が濡れたような声で士郎に呼びかける。もぞもぞと右手を動かしたかと思うと、小さな白いリモコンを握り締めていた。おもむろにピッとボタンを押す。

 すると、ふわっと部屋全体が一段階明るくなって、先程よりしっかりとお互いの姿が見えるようになった。

 その瞬間――

 士郎の鼻腔に生暖かい何かが流れたかと思うと唇を伝って顎に滴り落ちる。


「うわっ! 士郎!? 鼻血はなぢっ!」

「えっ!? わわっ!!」


 人間って刺激的なものを見ると本当に鼻血が出るんだ――と士郎は生まれて初めて実感する。


 その目は、久遠に釘付けのままだ。

 スラリと細く引き締まったその上半身には、ぴったりと肌に密着した薄手のキャミソールだけが纏われていた。だがそれは、着ているようで着ていないのと一緒で、実際のところ下から肌色が透けて見え、彼女の形の良いバストがくっきりと浮かび上がっていた。例えばそれは彼女の胸が士郎の手のひらサイズであることとか、布越しにやや茶色がかった先端部分がつんっと尖っていることなどが手に取るように判る。

 下半身に纏った小さな白い下着も同じようにかなり薄手で、太腿に挟まれた三角形の前面部分は少しだけ影が差しているようにも見えた。

 久遠の肌も割と色白の方なのだが、オレンジ色に染まる部屋の灯りの元では、肌色の赤みが強調されて、白い下着との対比が余計に際立つ。

 くるみの時は全裸だったが、こちらは少しだけ着衣がある分、余計煽情的に見えてしまう。


「そ……そんなに見つめるな……」


 久遠は、自分の作戦が士郎を完全に虜にしたという確信に密かな勝利を感じながら、あまりにもその視線が遠慮なく自分に向けられていることに気付いて急速に恥じらいを覚える。


「……だ、だって……これは……」


 士郎は咄嗟に言い訳を考えようとするが、もはや頭が真っ白になって何も思いつくことができない。

 というか、こんなあられもない格好をした女の子を目の前にして、自分はよく自制しているとむしろ褒めてもらいたいくらいだった。本当だったら飛びついて、本能のままに好きなことをしたいという欲望が激しく突き上げているのだ。

 目を逸らせなくなっていることくらい、許してくれ!

 士郎は叫んだ。


「――反則だぁぁぁっ!!」

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