新しいバイト
デートの翌日、俺は新しいバイト先にいた。俺の担当は、8階建てのオフィスビルで、その中の5階と6階を先輩と2人で清掃するのだ。
ビル清掃の仕事は、意外と俺に合っているのかもしれない。ゴミ箱の中を回収したり、床を清掃したりするのは、普段の生活でもやっていることに近いので、新たに覚えることは少ない。マニュアルでガチガチのコンビニやファミレスより、気楽に作業できる。
一緒に作業する先輩も、イイ人だった。格闘家をやっているチアキ先輩は、3年目のベテランだけど、細かいことは言わない。自分のペースで作業させてくれるので、すごくやりやすいのだ。
「並木くん、ちょっと休憩すっべ」
「あ、はい」
5階の清掃がひと段落したところで、休憩をすることにした。缶コーヒーを飲みながら、雑談をした。
チアキ先輩の夢は、大みそかに開催される格闘技イベントに出場することらしい。テレビ中継もされているので、そのイベントのことは俺も知ってる。知り合いが出るなら、応援する。
「なかなか、簡単じゃねぇんだよ」
「そうでしょうね」
「チャンピオンに挑戦させてもらえたら、一発、狙うんだけどなぁ」
「でも、チャンピオンって強いんじゃないですか?」
「あぁ、メチャメチャつえぇよ。だから、一発狙うしかねぇんだよ」
チアキ先輩は、パンチを突き出しながら言った。俺の拳とは違って、ゴツゴツしてて痛そうな拳だ。今まで、何人の人を殴り倒してきたんだろう。
「あの、何で格闘技をはじめたんですか?」
「よく聞かれるわぁ、その質問」
「すみません……」
「別にいいよ。最初は、人を殴って金をもらえるなんて、ぼろい商売だと思っててよ……」
「そうなんですね」
「でも、世の中そんなうまくいかねぇんだよ。上には上がいる。つえぇ奴は山ほどいるんだ。今は、試合のたびに自分の無力さを思い知るんだ……」
「じゃあ、何でやめないんですか?」
チアキ先輩は、自分の拳を見つめながら、答えを探しているかのように見えた。
「何でだろうな。俺から格闘技を取ったら、何も残んねぇ気がしてな。やめられねぇのさ」
チアキ先輩は、照れたようにフッと笑った。
「リングに上がる前は、メチャメチャ怖いんだ。死ぬんじゃないかとか、ボコボコにされるんじゃないかとか、ネガティブなことばかりが頭に浮かんできてさ。これで終わりにしようって思いながらリングに向かう訳さ。でも、試合をやって、痛い思いを沢山して、それでもスポットライトを浴びて、声援を受けちゃうとさ。また次も頑張ろうってなっちゃうんだよ」
俺は、何も言えなかった。そこまで打ち込むものがあるチアキ先輩を羨ましいと思った。勝ったり負けたりしていても、男としてカッコいいと思う。
「並木くんは、どうなの?何かやってみたいこととかあんの?」
「俺ですか?いや、今はまだ探してるって感じですかね」
「そか。見つかるといいな」
改めて、自分には何もないんだなぁと痛感した。でも、チアキ先輩は俺を軽蔑したりしない。俺のことを応援してくれるかのように声をかけてくれた。
見た目はいかつくて、怖いチアキ先輩。多分、街ですれ違ったら、道を開けてしまうだろう。
でも、本当はすごく優しい心の人だ。こんな大きな心を持った男になりたいと思う。
「さぁ、さっさと上も片付けちまおうか」
「はい」
休憩時間を終えて、6階の清掃に取りかかることにした。
5階と6階は、同じ会社が使用しているようだった。俺も名前くらいは聞いたことがあるIT企業のオフィスだ。ここで働いている人は、公私ともに充実したキラキラした人ばかりなんだろう。
各机の上には、パソコンが設置されている。複雑な配線も、綺麗に隠されているので、掃除をするのはラクでいい。ペーパーレス化が進んでいるせいもあって、ゴミ箱の中もキレイなもんだ。
「並木くん、なかなかいい筋してるよ」
「ホントですか?」
コンビニのバイトの時は、褒められたことなどない。だから、素直に嬉しいと思った。誰かに褒められながら仕事をすると、こんなにも楽しいんだと知ることができた。
明け方5時。ようやく、仕事が終わった。俺とチアキ先輩は、他のフロアを担当していたメンバーと一緒にワンボックスカーに乗り込んで、オフィスビルを後にした。
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