人生最悪の日

 しばらくの間、ソファーから動けなかった。別に留年に抗議しての行動ではない。単純に、全身に力が入らなかったのだ。


 どのくらい座っていただろう?横を通り過ぎる大学職員の目が厳しくなってきたので、俺は教務部をあとにした。


 今日は、バイトの予定が入っていたので、少し早いがバイト先のコンビニに向かうことにした。

 気持ち的には、休みたい気分だったが、そんな日に限って、口うるさい店長と同じシフト。どこまでもついてない。


 バイト先に着くと、店長が少し意外そうな顔をしていた。残業すると、口うるさく帰るように言うクセに、早く来る分には文句は言わない。実に都合よくつかわれている。

 控え室で店長と2人きりでいると、息がつまりそうになるので、俺は制服に着替えて、店に出て行った。


 ただ、この日は、どこまでも運が悪かった。レジに入って最初の客に、いきなり怒鳴られたのだ。


「お前、このワシが20歳以下に見えるのか!!」


 怒鳴っているのは、白髪頭で、少し腰が曲がっているじいさん。右手には杖をついている。

 タバコを買いに来たので、年齢確認をお願いしたら、いきなり切れはじめたのだ。レジに表示された確認ボタンを押して欲しいだけなのに、何でこんなに怒るんだろう。こんな風に歳は取りたくないものだ。


「申し訳ありません。規則ですので……」


 俺はマニュアルどおりの対応をするが、怒りは一向に収まる気配を見せない。


「何でワシが押さなければいけないんじゃ!このバカたれが。ワシが20歳以下に見えるのか!」


 ホント、めんどくさい。年齢確認なんて、俺が決めたルールじゃない。確認を取らないと、俺が怒られるんだよ。

 そもそも、普段なら、若く見られて喜ぶだろうが。何でいきなり切れてるんだよ。


 そんな思いが溢れてしまったのか、俺は不覚にもため息をついてしまった。


「お前、今、ため息をついたな?」


 モンスターじいさんは、俺のスキを見逃さなかった。より怒りを増して怒鳴りつけてくる。

 横から、見かねた店長が割って入ってきた。俺には品出しでもしてろとばかりに、手で合図して、クレームの対応をしはじめた。


 しょうがないので、俺は倉庫からお酒が入ったコンテナを運び出すことにした。コンテナいっぱいにお酒が入っていると、男の俺でも持つのはひと苦労だ。腰を痛めないように気をつけながら、慎重に持ち上げる。


 奥の倉庫から店内に戻る時も、お客様にぶつからないように、細心の注意を払いながら運ぶ。その時だった。足元に何かが絡んできた。俺はバランスを崩して、その場に倒れてしまった。もちろん、持っていたお酒を盛大にブチまけながら。


 倒れながら、一瞬だったが、杖を持ったじいさんが、いやらしい笑みを浮かべているのが見えた。


「ガラガッシャーン」


 音を聞きつけた店長が走ってくる。店内にいた客も好奇の目を向けている。俺は、割れた日本酒の瓶からこぼれた酒を全身に浴びて、放心していた。


「並木くん、何をしてるんだ!」


 店長が、まるでお酒に酔っているかのように顔を真っ赤にして怒鳴ってきた。


「いや、あのじいさんが……」

「言い訳はいらん!もう来なくていい!帰れ!」


 この日、俺は留年確定して、バイトをクビになった。忘れられない人生最悪の日。

 濡れた洋服から湧き立つお酒のニオイが目にしみた。そのせいで、俺は帰り道に少しだけ泣いた。

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