偽善防止法
ノックの音がした。
ソファーに腰を下ろし雑誌を読んでいた私は、壁のモニターに目をやった。モニターに映った男たちは、どこにでもいそうなくたびれた中年に見せかけているが、隠しようのない鋭い目つきが彼らの職業を明確に示していた。
ついに私のところにもおいでなすったか。私はグラスに揺れるバーボンを一気に飲み干すと立ちあがった。
ドアを開けると、男たちはすかさず室内に足を踏み入れた。
「島田さんですね。任意ですが、あることで事情をお伺いしたいのですが、署まで御同行願いますでしょうか」
タフガイで通っている私だが、今夜はちょいと体調が優れない。アルコールも入っている。一人で五人を相手するのは少々面倒だ。まして、相手は偽善Gメンである。偽善がもっとも重罪とされる現代において偽善者摘発専門に組織された偽善Gメンの捜査員は屈強な肉体を備えたエリートであり、彼らに抵抗しようとする無謀な馬鹿者は、体調のいいときの私だけだろう。
私が何をしでかしただって? 私のようなアウトローになると思い当たる節はいくらでもある。たとえば数日前、横断歩道を渡れず困っている老人を助けたことがある。一週間ほど前に路上の空き缶を拾ってゴミ箱に捨てたこともある。路上清掃程度の罪なら罰金とお小言程度ですむかもわからないが、老人を助けたことが密告されたとすると少々厄介である。
私はトレンチコートから葉巻を取り出し一服味わった。至福の吐息を紫煙とともに吐き出し、肩をすくめてみせた。
「よし同行しようか。ただし事情徴収は若い女Gメンを指名するぜ」
偽善防止法が可決される背景には、人々の偽善に対する嫌悪感があった。そしてインターネットの普及がその嫌悪感を決定的なものにした。ネットは高潔な理想を語る政治家や善人ぶった慈善家たちの裏の顔を容易に暴き出し、検索という道具は、時間による風化や、水に流すといったことを困難にさせた。電子掲示板は嫌悪感情を増幅させ継続させる機能を果たした。
民意が醸造されると、あとはカリスマ的政治家が一人いればいい。
こうして偽善防止法は可決された。
そして、醜い偽善者どもが幅を利かせる時代は過去のものになり、わざとらしく老人を労わるいやらしい行為も姿を消した。清掃ボランティアもなくなり街はゴミだらけになった。民意が反映された素晴らしい時代ってわけだ。
密室で私と年配のGメンのふたりが机を挟み向き合う形で事情徴収は行われた。
空調が私には暑すぎて汗が浮かんだのを見られたが、Gメンは空調を緩めようとはしなかった。相手を気遣うのは偽善と判断される恐れがあるからだ。その程度なら誰でもやっている軽犯罪として暗黙の了解で見逃されてはいるが、さすがに偽善Gメンが取調べ中にやるわけにはいかないのだろう。
「三日前の午後七時三十分ごろ、あなたは何をしていましたか」
やはり、あのことが密告されたようだ。
「そんな昔のことは忘れちまったな」
ボギーを気取ってニヤリと笑った私を睨みつけたGメンは、おもむろに書類ケースから一枚のディスクを取り出した。
「こんなビデオが送られて来ましてね」
再生されたのは、トレンチコートの男が老人の手を引いて横断歩道を渡っている犯行映像だった。そしてトレンチコート野郎がズームアップされると、葉巻をくわえた私の顔が画面いっぱいに映しだされた。わざわざビデオに撮ってまで密告するとはご苦労なことだ。
「他人の空似っていう言葉を知らないようだな。それにCG加工が誰にでも出来る時代にこんなのが証拠になるとでも思ってるのか」
あくまでもシラをきる私を追及するGメンの手法は、おどし、なだめ、すかし、いきなり大声で怒鳴りつけ、そのあと情に訴える話をする、など実にありふれたもので修羅場なれした私には何の効果もなかった。
くだらない事情徴収から開放された頃には夜が明けていた。帰り道を歩きだしてすぐに、尾行されていることに気がついた。現行犯を狙うつもりなんだろう。正面から歩いてきた登校途中らしい不良少年たちがこれみよがしに道端の空き缶を拾って大きなゴミ袋に取り込んでいた。こうして自分のワルぶりを誇示したい時期というのは私にもあった。微笑ましいものだ。しばらく立ち止まって少年たちを眺めていると、一人が睨みつけてきた。
「テメエ、何見てんだ。サツに垂れ込むつもりじゃねえだろうな」
「いや、そんなことはしないよ。じろじろ眺めてすまなかったね」
尾行しているGメンにとっちゃ葛藤の瞬間にちがいない。少年たちを現行犯逮捕したいが、それをやれば尾行していることが私にバレる。まあ実際にはとっくにバレているわけだが。
Gメンの葛藤を想像して私はニヤリとし、紫煙を風に乗せた。
まったく、素晴らしい時代だ。私はゴミの散乱した道を踏みしめ家路を急いだ。
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