第4話 少女
獣の足跡は森の奥まで続いていた。たどっているうちに山の傾斜が厳しくなり、雪を削るように足を滑らせながら進む。そうしてぽっかりあいた穴の前にでた。
穴は岩と木の根に覆われるようにしてあった。ひとがひとりやっと通れそうな大きさだ。おっかなびっくりなかを覗きこんで息をのんだ。
ひとがいた。
女というにはだいぶ若い。10代の少女だ。
目があって数秒、少女がなにも着ていないことに気がついた。黒く長い髪がからだを隠しているが裸だ。周囲に服らしきものはない。
彼女が自分のからだを抱えるように腕をまわした。
「寒い」
その言葉で弾かれたように彰人はコートを脱ぎ、少女をくるんだ。
「誰かほかにいるのか。知りあいは? 家族は?」
少女は首を横にふるばかりでガタガタと震えている。少女を抱え穴のなかから這いずるようにしてでたあとは夢中だった。
小屋に着くとすぐに自分の着替えを渡し、囲炉裏に火をつけて湯を沸かした。
彼女は渡された服を手に首を傾げ、不思議そうに手のものを見た。
「着ればいいのか?」
意外にしっかりとしている声は日本語で、彰人は驚いて少女を凝視した。
「日本人?」
「ちがう」
「じゃあなんで……。いや、今はとにかく服を着てくれ」
彼女は頷き、彰人は背を向けた。もぞもぞと動く気配が終わって振り向くと、男物の大きめなセーターが肩からずり落ちそうになっていてどうにもだらしがなかったが、とりあえず服は着ている。
「湯を沸かすのにすこし時間がかかるけど、寒くない?」
「へいき」
「なんであんなところにいたんだ。日本語はどうして?」
薄い色素の、灰色がかった瞳が彰人を見つめる。
「私はあそこに住んでいる」
「住んでる?」
「服はない。この言葉はおまえが話す言葉だから」
まとを得ない答えだった。山の中腹にあるあんな穴倉にひとが住めるわけがない。服は盗まれたのか。
「僕が話すから?」
彼女が頷く。
「会うのは初めてだと思うけど」
「何度も会っている。虎のすがたで」
彼女は左足のズボンの裾を捲った。帯が足首に巻いてある。それにはあの穴倉にいたときから気がついていた。
くべたばかりの薪が爆ぜる音がした。
彰人は髭の生えた自分の顔を撫でた。
こんな世捨て人のような男を騙してもいいことはないはずだ。もしかしたら近隣の村に住んでいるすこし頭の弱い子が迷いこんでしまったのかもしれない。包帯は、彰人が虎の手当てをするのを窓からでも覗き見ていたのか、怪我をした虎を見て推測したのだろう。
「そういうことにしてもいいけど」
「怪我の手当をしてくれたお礼をする。なにか望みをいえ。叶えてやる」
バカバカしくなってきたが、どうせ退屈していた。話に乗ってみようと思った。
「べつに欲しいものはないし、毎日寒いけどここはそういうとこだ。しいていえば話し相手が欲しいな。これまで誰かと話したいなんて思ったことはないけど、雪のせいで外にも出られないとなるとさすがにこたえる。話すだけでも退屈しのぎになるから」
思いつくまま適当にこたえると、彼女は頷いた。
「わかった。雪の降る日は話し相手になる」
「そりゃあいい。いつから?」
「いまから」
「いま?」
「なにを話す?」
彰人は腕を組んだ。いざ話すとなると話題はなかなか思いつかない。
「そうだなぁ。この山のなかをどこまで行ったことがある? 僕は下にある川のあたりから、裏の祠の近くまでしか行ったことがない」
「わたしは隣の山もその隣にある山も駆けまわってる」
「おもしろいところがあったら教えてほしい。雪が溶けたら行ってみるから」
そうして聞いた、彼女の山に関する知識は驚くべきものだった。
夕暮れどきになると美しく染まる巨木。暑い日に横になるとそれは気持ちのいい、川の源流近くにある大きな岩。葉擦れの音に心が躍る草むら。
地良いリズムで彼女は話し、夜が来るまえ、彰人がふと目を離したときに幻のようにいなくなっていた。
次の日もその次の日も雪は降り、彼女はやってきた。
その次の日は晴れていて彼女はこなかった。
ドアを叩く彼女は前に渡した服を着ているものの、雪に濡れているのでそのたびに着替えを差しださなければならなかった。彼女には表情があまりなかったが、話しているうちに灰色がかった瞳が輝いたり、鋭くなったり、優しい色を宿すことに気がついた。
山のことをよく知っている彼女と話すほど、彼女こそが山の化身なのではないかと思えてくる。ここに来たばかりのとき拒絶を感じることもあった山は、今は優しく彰人を受け入れてくれている。
雪の日が次第に待ち遠しくなった。
はじめて夢のなかで彼女を抱いたとき彰人は絶望した。そういうことがしたいわけではない。そうではない。彼女といると心がやすらぐ。楽しいし、もっと話をしたいと思う。それだけだったのに。
徹底的に押し殺そうとしたその感情は日増しに強くなり、彼女を前にするたび苦しむようになった。
艶やかな髪にふれたい。柔らかそうな頬にふれたい。手を握ってみたい。よりそってみたい。抱きしめたい。暖かさを感じたい。肌を触れあわせたい。
「子が欲しいのか?」
はっと彰人が振り返ると、いつもの無表情な顔に囲炉裏の明かりがゆらめいている。
「僕の考えていることがわかるのか?」
彼女は頷いた。
もはやなにが現実でなにが非現実なのかわからなかった。
雪の日にだけ現れるこの少女が自分の幻でないとも言い切れない。これが自分の妄想ならなんでもありえる。彼女が彰人の考えていることがわかるというのなら、そうなのだろう。彼女が嘘をつくことよりも、そちらの方が信じやすかった。
「さいきんそればかり考えている」
「ごめん」
「どうして謝る」
「いやじゃなかった?」
彼女は首を傾げた。
「もうじき春がくる。春になったら食べものも増える。問題ない」
「どういうこと?」
「子が欲しいのだろう」
彰人は温めていたスープのコンロの火を消すと、彼女の隣まで行ってしゃがみ、目線を合わせた。
「違うんだ」
「じゃあなにが欲しい?」
君が、と喉まででかかった言葉をのみこんだが、彼女は容易く彰人の心を読み取った。
「私?」
「僕は頭がおかしいのかもしれない。人間の社会から離れてこんな山奥にきて、やっと穏やかな日々が送れるようになったのに。どうしてひとを好きになったりするんだろう」
「私を好きになったのか」
「そうだね」
「私も彰人は好きだ」
「たぶんそれとは違う」
ただの好意とはちがう感情だ、ということを彼女に伝えるのはこの上なく難しいことに思えた。
彼女がぐっと顔を近づけて彰人の顔をのぞきこんだ。
「それがしたいのか?」
「それ?」
「彰人がいま考えていること」
カッと頬に血がのぼった。お願いだから自分の汚い妄想など見ないでほしい。
「だけど、おまえの願いは話し相手になることだった」
「……じゃあ、話しをしながらならいいのかな。話すことの延長のようなものだから」
ひどい男で、ひどい大人だった。
汚い人間だ。
山奥に住んで人との接触を最小限にして浄化でもされたようなつもりになっていたけれど、一番の問題は自分だった。なによりも自分のことが嫌で、なににも興味を持たないようにして生きてきたのではないか。なにひとつ認めずに、すべてを現実のものとして捉えていなかったのではないか。
頷いた彼女の頬を両手でそっと包む。新雪のようにすべらかでひやりとする。
顔を寄せると、ぺろり、と濡れた感触がして彰人は目を見開いた。
彼女はいつもと同じ表情のない顔で自分を見ている。
もう一度顔を寄せると、ペろりとまた彼女の舌が彰人の唇を舐めた。
「あの……」
「なに?」
「キスをしても?」
彼女が頷く。
顔を寄せる。
ぺろり。
「あの」
「なに?」
「虎はそうやって舐めるものなのかもしれないけれど、ひとは違うんだ」
「ひとはどうする?」
「口のなかを舐める」
彼女がすこし目を丸くする。
「それは毛繕いのようなものか?」
「ちょっと違うと思うけど。やってみせるからしばらくじっとして」
黙った彼女にこんどこそ顔を寄せ、唇がふれた。
すべてのきれいなものが汚れてしまう予感があるのに、自分だけのものにしたいという欲をどうしても捨てられない。
ん、と彼女が眉を寄せて呻いたのを最後に、腹の奥底から激しい劣情がわき起こってきて、なにも考えることができなくなった。
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