第3話 虎
しばらくして地元の者がぱらぱらと小屋を訪れるようになった。年若い夫婦であったり、腰の曲がった老人だったり。最初は言葉がわからずにどう接したものか不安だったが、ここに詳しい者たちのようで、小屋につくと黙って荷物を降ろし、彰人がだす飯をありがたそうに食って、寝袋で夜を過ごし、朝には出ていった。祠に参りにこんなところまで来るのだ。敬虔な者たちなのかもしれない。人懐っこい者もなかにはいて、漢字で数回コミュニケーションをとったりもしたが、深く関わらずに出会って通りすぎていくだけの関係はまるで山で遭う動物たちと同じだった。
虎について、彰人は世話役の男に尋ねたことがある。
「見間違いではないんですか?」と男は興奮して身を乗り出した。「昔はいたようですが今では野生の虎は貴重です。もしそれが確かなら懸賞金がでるかもしれません」
「遠目だったからよくわからない。また見かけたらお話しします。それまでは誰にもいわないでください。無駄な騒ぎは起こしたくない」
あの美しい虎が懸賞金の対象になるなど考えられない。虎のことはもう話さないでおくことにした。
山での生活に慣れてきた彰人は、虎にすっかり魅了されていた。陽を反射する滑らかな毛並み。ゆらりと歩を進める姿。山そのもののように美しく力強い生きもの。
燃えるように色づく秋が過ぎると、その映えた色が薄暗く沈殿していって冬がくる。ちらちらと雪が舞いだして世話役の男は春までここには来られなくなるといった。山小屋を訪れる近隣の村人もまたいなくなり、外界との接触は断ち切られる。けれど冬を越せるくらいの食料は溜まっていたし、薪の割り方も学び、囲炉裏に火を灯すのも慣れたものだった。彰人は問題ないと伝えた。
予想外だったのは、雪が人との関わりだけでなく山との繋がりも遮断したことだ。
小屋のなかを暖かい静寂が包みこむ日が続く。
雪がやんだある日、ザ、ザと雪を踏みしめる音に顔をあげると、窓の外をなにかが動いている。結露のしている窓を指で拭って顔を寄せると、あの虎が小屋のまわりをぐるぐると回っている。
彰人は小屋のドアを開けた。
とたんに刺すような冷たい空気に鼻が痛くなる。
小屋の裏から姿を現した虎が、ぴたりと足を止めた。小さな灰色の瞳が疑わしそうに彰人を見つめ、喉の奥で唸る。すこし見ないあいだに美しかった体躯は骨張って、右足を不自然に曲げていることに気がついた。
彰人がより大きくドアを開けると、虎はひょこりと一歩進みでた。
「餌が欲しいなら入るといい。いまはやんでいるけど、そのうちまた雪が降りだす」
ドアを開け放したまま小屋のなかに戻り、シチューの缶を開けて鍋にかける。ぬるめに温めたものを皿によそい、ドアから二、三歩離れた床の上に置く。
「食べるかわからないけど」
虎はドアから小屋のなかを覗いて、瞬きすらせずにじっとしていた。
彰人は定位置である窓辺の椅子に腰掛けて、まえに世話役の男に持ってきてもらった本を手にとった。数ページめくるうちに文字の世界へ没頭し、ふと顔をあげると、虎が背中を丸めて小屋にはいってくるところだった。シチューの皿に顔を寄せて鼻をひくつかせ、ふいっと顔をそむける。出て行くのかと思ったらその場に腹をつけて寝そべり、怪我をしている右の前足を伸ばして舐めだした。
陽が山のむこうに隠れるとさすがに寒くなりドアを閉めた。小屋に閉じ込めるかたちになって怒るかと心配したが、虎は床に伏せったままちらりと視線をドアに向けただけで、また目を閉じた。
夜ベッドに横たわると、うずくまる虎の黄色い背中がランプの明かりにぼんやりと浮き上がっている。ゆっくりと上下を繰り返すのを見眺めていたら、いつのまにか眠ってしまった。
次の日、近づいても虎が怯えないことを確認して、前足の怪我に消毒液をかけ、包帯を巻いた。虎は出ていく気配がまるでなかった。食べ物は与えていたが口にする量は少なく、瘦せ細った足で頼りなく歩いたと思ったらすぐにうずくまってまるくなる。
その状態が3日続き、とうとう彰人はいった。
「腹が減ったからひとを食べに来たんじゃないのか。なんで襲ってこないんだ」
つぶらな瞳が探るように彰人を見つめる。
「我ながらあまり美味そうじゃないけど、それなりに食べるところはある」
右腕の裾を捲くって虎の鼻先に突き出す。虎は腕に見向きもせず、ただ彰人を見つめ、鼻の頭に皺を寄せ低く唸った。立ち上がりドアをガリガリ引っ掻きだす。ドアの閂が外れると外へ飛びだしていった。
彰人は慌ててドアに寄ったが、虎は軽やかに雪原を歩いて森へ入っていってしまった。
雪は降っていなかった。薄曇りの空は明るいが空気は痛いほどに冷たく、森の木々の枝が鋭く刺すように尖っている。
餌があるとは思えない。
そしてあの虎は怪我をしている。
泡のような雪に足跡がひとすじ森へと続いている。
コートを引っつかみ、彰人は外へでた。
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