第2話 大海原を越えて

 海岸にあった小船を拝借し、男と出会った沖を目指した。あの男は、そう大きくない船に一人で乗って漁をしていた。遠くから来ていたとは思えない。きっとあの近くの漁村に住んでいるはずだ。

 誰も漕いでいなくても、船はすいすいと進む。下り坂をそりで滑るかのように速く、進路をそれることもなく。竜王の血を引く私にとって、波を操ることなど造作ぞうさもない。

 その私が人間の釣り針にかかってしまったのは、珍しい石に気を取られていたからだ。常ならば、あんな失態しったいは犯さない。あれはきっと、天がいたずらでも仕掛けたのだろう。

 そう……今こうしているのも、すべては天のいたずらだ。目には見えず、あらがえない力が、私の背を押しているに違いない。

 さまざまに思い巡らせている内に、目的の沖までたどり着いた。そこにはまた男の船が……などと都合のいいことを期待していたわけではないが、他の船や人の姿もない。魚影がちらほらと見えるだけの海は、やけにがらんと広く感じられた。

 さらに船を進めると、海岸が見えてきた。あそこから陸に上がって漁村を探そう、と考えていたが――。

 砂浜に誰かいることに気づいた。よく見ると、どうやら漁師が立っているようだった。

 あの男だ。

 男は不審げな様子で、じっとこちらをうかがっている。一瞬どきりとしたが、落ち着けと自分に言い聞かせた。亀の姿しか見られていないのだから、私の正体などさとられるわけがない。あれは、女が一人で小船に乗ってやって来たのを、奇妙に思っているだけだ。

 私は一度、深く息をついた。思いがけず早い再会になったが、男と会ってどうするかは、ここまでの道のりで考えてきた。それを実行するだけだ。

 そのまま船を海岸まで寄せると、男もこちらに近づいてきた。私は、いかにも心細げな風情ふぜいでうなだれて見せた。案のじょう、男は心配そうに声をかけてきた。

「あなた一人でこの小さな船に乗って、ここまで来たのですか?」

「はい……」

 自分の声とは思えないほど弱々しい返答がするりと口から出て、愕然がくぜんとした。

 私は、こんな話し方だったか?

 男はますます気づかわしげに、

女子おなご一人で海を渡って来るとは、いったいどんな事情がおありですか? 私で力になれることがあれば、手をお貸ししましょう」

「……船に乗って、知人のもとを訪ねてきたのですが、その帰りに嵐にあったのです。一緒に船に乗っていた者は、みんな海に放り出されましたが、その中の一人が私をこの小船に押し上げてくれました。私はただただ船にしがみつくことしかできず、海を漂い続け、ようやくここまでたどり着きました」

 私は、頭の中に作り上げた筋書きをそのまま語った。不安な表情や声音こわねを装いながら。

 男は真摯しんし面持おももちで耳を傾けてくれた。話を聞き終わると、

「それは気の毒に。さぞかし恐ろしかったでしょう。でももう大丈夫。すぐ近くに私が住んでる村もありますから、安心なさい」

 こちらの気持ちを落ち着かせようと微笑ほほえむ男は、やけに頼もしく、そして純朴じゅんぼくに見えた。釣り上げた亀を海へ放した、あの時のままだった。

 この様子なら言いくるめられる。私は船縁ふなべりにしがみつき、うつむいて嘆いて見せた。

「早く故郷に帰りたい……」

「それはそうでしょう。一人きりで、このような見知らぬ土地へ流されてきたのですから。ご家族も心配しておられるに違いない」

「父上……」

「あなたはいったい、どこから来られたのですか? 私は船を操ることにはけてますから、場所を教えていただければお送りいたしましょう」

「本当ですか? それはありがたい」

 思いがけず向こうから送ると申し出てくれて、幸運に顔を輝かせそうになったが、ぐっとこらえた。まだだ。もうしばらくは、頼りなげにしていなくては。

「私は、竜宮という所から来ました」

「竜宮……聞いたことがない地名だなあ。どちらの方角なのかだけでもわかりませんか?」

「船がどのように流されてきたのかは、よく覚えております。嵐にあってからここにたどり着くまでに、丸一日もたってませんから、それほど遠くないはずです。私がご案内しますから、その通りに船を進めてください」

「わかりました。では、ちょいと仕度したくをしてきますから、待っていてください」

 そう言い置いて、男は砂浜を駆けていった。その後ろ姿も見えなくなると、われ知らず安堵あんどの息がれた。同時に、自分が今やったことに居たたまれなさを覚えた。

 私は、こんなに狡猾こうかつだっただろうか? 困り果てている女のふりをして、人のさに付け込むなんて。これまで一度もやったことがないし、そのようなことをする者を軽蔑けいべつすらしていたのに。

 だが、これ以外に方法が思いつかなかった。私は人間の世界で、それも陸の上では、あまり長居できない。ならば、男に竜宮へ来てもらうよりほかにない。

 海に目をやると、ゆるやかな波が初夏の日差しを受け止め、あちらこちらへ軽々と跳ね返していた。沖合いには、かすかに魚影も見える。すべてが平穏な光景の中にいると、自分が異質な火種ひだねでしかないように思われてならなかった。

 ほどなくして、男が小走りで戻ってきた。何やら荷物を背負っている。

「お待たせしました。いくら遠くないといっても、波の具合によっては長旅になるやもしれませんし、万一のこともありますから。いろいろ用意してきました」

 そう言って、背の荷物を船に乗せた。

「それは?」

食糧しょくりょうやら火打ち石やら、いざという時に必要になりそうな物です。これだけあれば、当分は大丈夫でしょう」

「それは心強い」

「他にも、両親に事情を話したり、墓参りを済ませたりもしてたので、少々遅くなってしまいました。すみません」

「墓参りまで?」

「万一に備えてしっかり準備をしておくと、何も起こらずに済む。たかをくくって何もしなかったときに限って、災難が起きる……よくあることですよ。だからこれは、おまじないみたいなものです。何かあった時を考えて、そのためにできることをやっておくと、何も起こらずに済むっていう」

「用心深いんですね。ご両親は、船旅を許してくださったのですか?」

「二人とも、こちらは心配しなくていいから送って差し上げなさい、と言ってくれました。これで心置きなく船出できます」

 そう言って、男は船を海に押し出すと同時に、ひょいと乗り込んできた。荷物を置くと、さっそくかいを手に取り、

「では……おや、これはいかん。まだあなたのお名前もうかがってませんでしたね。それどころか、こちらも名乗ってなかった。私は浦島太郎と申します」

「私は、おとと申します」

「では、乙さん。参りましょう」

 船はゆっくりと、元来た道筋をたどるように進み出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る