✅海
ぱしゃり、ぱしゃり……、
優は今、海へ入って身体中の汚れを落としている。ひどいのは、腕にしつこくこびりついた猿の赤黒い血だ。粘りけのあったものが時間とともに固まって中々落ちない。
しろい岸では、しろくんが座り込んだままぴくりとも動かずにいる。ふぅ、と優が一息ついて顔をあげると、そんなしろくんと目が合った。
「――にんぎょ?」
さっき、優の問いかけに対してしろくんは、ぱちりとまばたきをしただけだった。
「人魚って言葉、聞いたことない?」
「うんない」
「人魚は生き物の種類なんだけど、説明すると……僕は人間ってやつで、しろくんは人魚だと思うんだ」
「ゆうくんにんげん にんぎょぼく? わからない」
「そっかぁ。人魚っていうのはやっぱり、僕ら人間が、勝手につけちゃった名前なんだね」
しろくんは、じぶん自身のことについて殆ど知らないようだった。ここで死んだ猿は、優を指して「にんげん」、しろくんを指して「さかな」と言っていじめてきた。
優は、しろくんは人魚と思う。
魚ではない。かといって、人間と呼ぶにはあまりにも様子が違う。
だが人魚と聞いて誰もが思いえがく、身体の下半分が魚の――足の代わりに鰭があるような姿もしていない。全身が鱗で覆われた魚人なんて怪物もいたはずだが、しろくんの容姿はもっと人間に近しいし、美しく、繊細だ。
陸に上がってからは、すっかり泥だらけで汚れてしまっているけれども、陽の当たる場所で見るしろくんは、膜が張ったようなしろい肌に薄っすらと光るラメのような鱗模様がある。暗い洞窟ではわからなかったことだ。直射日光を浴びると、手足の先のほうで光るように骨が透けて見える。優なんかとは身体をつくる細胞から違うのだ。
まじまじと観察したいところだが、しろくんは嫌がって隠してしまうだろうから、我慢する。
この子が本物の人魚であるとしたら、鰭ぶぶんは退化だろうか。いや、進化か。
たとえば、大昔の裏野町伝説に登場するような人魚がしろくんの祖先で、ある日彼らが海から陸へとやって来て、だんだんと人間の姿を真似て二本足で歩くようになったんじゃないか。それか、なんらかの理由で魚と人間が交ざったのかもしれない。ハーフの子どもが人魚だ。
ああ、しろくんはどんなふうに生まれたんだろう。
ただの人間である優とは違って、しろくんのお父さんと、お母さんの、きっとすてきな秘密なのだろう。
「ねぇしろくん。人魚について知りたいって思う?」
優は期待を込めた熱い目で、しろくんを見つめた。以前優の父親に、だめだ、だめだと否定された本の中で得た知識が役に立つのだ。しかし、しろくんのほうは寂しげにうつむいてしまった。
そして、ぽとりとつぶやいた。
「ぼくも にんげんがいい」
「え……?」
優は、しろくんの手がボロボロでひどく汚れたあの〈タオルハンカチ〉を握っていることに気づく。言葉を詰まらせていると、しろくんのほうもだんまりに。
ふたりの間を自由に流れていた空気が隔たれてしまった。
それで、ひとまずしろくんの機嫌が直るまで、優は海へと出ていって身体中の汚れを落とすことにしたのだ。そのさい、しろくんのタオルも洗おうか――と声をかけてみたが、しろくんはしろい首をぶんと横にふっただけだった。この海の水は、生臭い。見かけの美しさと引き換えにずいぶんと奇妙な臭いを漂わせているから、宝物を浸すなんて嫌なのだろう。
優は思い出す、アクアツアーのアトラクションを――その川を流れていた水は、ふしぜんなくらいに透明で綺麗だった。しろくんと出会った青い地底湖の水はもっと綺麗だった。じぶんがそこへ落ちて、みっともなく溺れたなんて遠い昔の記憶みたいだ。
「疲れた……」
ほんとうに疲れた。
しかし沖のほうで再び海が燃え出した。オーロラが降ってきた。海面水温が上昇していくから、避難しなくては。優は衣類の水気をしぼって陸にあがろうとしたが、ばしゃりと、その場にへたり込んでしまう。急ぎ、しろくんがやってきて優を陸へと引きあげてくれた。
ふたりはまた、しろい岸に座り込んで海を眺めた。
優が転んで、しろくんが助けて。永遠に繰り返している。
見捨てていけばいいのに、いつもしろくんは、優の横にぴたりと寄ってくっついてくる。
「ごめんしろくん、ごめん……」
優の口から情けない声が出た。
「今、上を着るからね……少し離れてよ」
しろくんは離れなかった。うずくまったしろい膝の上に、しろい肘、その上にしろい顔をちょこんと乗せて、優の身体を――身体中の古い傷痕を観察している。優の心が、これらをつけられた晩のようにひりひりと痛んだ。しろくんの目にも奇妙なものとして映るらしいから。
「さっき、ごめんね……いきなり傷痕見せて、驚かせちゃったでしょ」
この秘密の場所へと入る前のことだ。アクアツアーの枯れた密林の中に突如現れた鉄の扉のところで、優はシャツをみずからめくりあげて、傷痕だらけの身体をしろくんに見せつけた。
「きず おどろいた」
しろくんには無いものだから。
それから優は少しばかり、じぶんのことを話した。
長い年月をかけて、両親から受けた傷。
外側の傷は母親、内側の傷は父親からも刻まれた。
深い日もあれば、浅い日もあった。
「いたい」
「もう痛くはないんだけど、大人になっても傷痕、消えないかもって言われてる」
「いたい」
「だから、痛くないんだ」
「ゆうくんなおった て」
「手……腕か! 痛くないよ。いや、疲れ過ぎててよくわかんないや」
「なおるよ ぼくなおせるよ からだも」
「あ、いいよ……そういうつもりで話したんじゃないから」
「なんでなおるのに」
「こんなの……、しろくんが痛い思いをすることない」
「いたい ぼくもへいき」
「だめだめ、平気なもんか。それに傷なんて、また増えるかもしれないし」
「なんで ふえるのなんで」
「なんでだろうね、なんでだろう。……僕ほんとうにわからないんだ。あの家に帰れるか、じぶんがこれからどうなるのか、わからない」
「ふえないと いいね」
「うん……」
「ふえなくなったら ぼくなおすよ やくそく」
「約束?」
「やくそく」
「そこまで言うなら、いつかはお願いするかも……ごめん」
「やくそく ぜったい」
ふたりは再び、小指の第一関節あたりで結び、不格好な〈指切り〉を交わしたのだった。
ざざん、ざざんと、波打ちの音が、響く。
海はやはり燃えている。
いつしか、てかてかとした七色の、透明の中にあぶらの溶けたようなとろみのある波が、しろくんのしろい足もとまで迫っていた。この場所はずっと明るいから、夜が近づいたのかもわからない。時間の経過とともに海のテリトリーの増える、満ち潮、だろうか。
これが海。
はじめての海。
隣にはしろくんがいるけれども、今、優の心に小さな寂しさが押し寄せた。
「僕は、海に来たかったんだ。家族とね……」
優と同じくらいの子どもは皆、夏休みになると海へ行く。
もう叶わない。家族は、前よりもっとばらばらだ。
裏野町の祖父宅に預けられて、大人は勝手で、どいつもこいつも大嫌い、と思ったのに。
「お母さんと、お父さんに、会いたくなっちゃった……」
優の心に、感情が湧いた。
とてつもなく情けない感情だ。目頭が熱くなって視界がうるんでいく。
すると隣でしろくんが、もぞりと動いた。
表情なく優を見て、そして海を向くと、そのままぴくりとも動かない。
「しろくん?」
返事はない。
突然どうしたのか。
また気分を害してしまったか。
優は困惑しつつも、しろくんの見つめる海の先を、一緒に眺めるしかない。
七色に燃えて波立つ海も、ゆらめくオーロラも、素敵なことだ。
なんだか優は――今日という日がとても素敵に思えてきた。ここへ来るまで何度も何度も大変な目に遭って、心も身体もすり減っていたが、やっと穏やかな気持ちでいられる。
結局、海が綺麗だ。
こわかったこと、痛かったこと、気味の悪かったこと、全てが海へと吸われて、流れて溶けていく。
隣には、薄っすらと笑うしろくんが、いる。
そうしてふたりで海を眺めている。
今が、いい。
今、だ。
このまま行ってしまっていい。
やっとここまで来れたのだから、この先の新しい場所へ、海の向こうへと、しろくんと行ってしまっていいんじゃないか。
「ねえ、しろくん。僕さ……」
優がそう提案しようとしたときだ、
「お客サン。あんまり其方を眺めていますと、……帰れなくなっちまいますよ?」
背後から声をかけられた。
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