✅優とは(2)

※虐待、流血、暴力表現が含まれます。




 久しぶりの父だった。


 ここ数年優が、水泳の授業のある日をめいっぱいに引き延ばして風邪として休むので、これを不審にとった学校側が尋ねてきたのだ。

 父の仕事には影響力がある。醜聞は避けなくてはならない。そんな父の前で母は取り繕うのをやめた。ものが散乱していようが気にもせず、昼も夜も関係なしにお酒を飲んだ自堕落な容貌は、美しい父と対照的だ。ふたりは互いを責め合った。


 今ここに、リビングルームには優もいるのに、父と母はじぶんのほうを見ようともしない。

 喧嘩の原因は、いつも優だ。

 遊園地の写真の頃のように、子どもがいなければ、ふたりの仲は直るんじゃないか。――存在が、静かに消えればいいのだけれども、死ぬのは迷惑がかかるから、行方不明がいいなと優は思う。誰かが……遠くへと、攫ってくれればいい。そのときに大切なのは、心をおき忘れないようにすることだ。この家に忘れても、誰も気づいてはくれないだろうから。


 ものが飛んでくる。思い出が壊れていく。

 父が優を連れて家を出ようとしたので、優は慌てて、床へ散らばった本たちを掻き集めた。


「そんなものばかり読んでいては、だめだ……」

父が言った。


 優が、まっ先に抱えた本はなんだったか。

 人魚が出てくる美しい海の物語だ。


「これから優は、現実をしっかりと見て生きなくてはいけない」


 別に、空想好きなわけじゃない。優と同じくらいの子どもは皆、夏休みになると海へ行く――家族とだ。いろんな海辺、いろんな魚。足もとに散らばった本たちを見て、気がつかないのだろうか。

 優の母は、大きな海の見える裏野町の屋敷で生まれた。昔々、海には美しい人魚がいた。それはたんなる地元の伝承であって、誰がいつ見たのかは知らないし、人魚の姿かたちだってあやふやだ。

 けれども、口数の少ない気まぐれな母は、幼い頃からその美貌を人魚の姫にたとえられてきた。父が教えてくれたのだ、優はずっとおぼえている。――夏休みに、裏野町へ行こう。海を見れば、父も母も昔を思い出すんじゃないか。その足で、遊園地に行って、お城の前で写真を撮ろうよ。


「うちへ、おいで……優」


 美しい海の本に惹かれるのは、優だけなのか。リビングルームを明るく灯して、家族で団らんしていた頃があったとは、夢みたいだ。ばらばらの三人が一緒に暮らすのはもう無理なのだと、父に手を引かれながら、優は気づいてしまった――。




 父の暮らす部屋には、優の知っている女の人がいた。

 父の仕事を手伝っているはずの人だ。父とは何もないというが、身の回りの世話をして、夜になるとわざとらしく帰っていった。優はここで数日間、不思議な同居生活をしてみたが、どうにもだめだった。父の会話は全て無神経に聞こえるし、女の人のほうは妙に馴れ馴れしくて、ことあるごとに優の髪や身体に触れてくる。


 嫌だった。


 こっそりと優は家に帰ってきてしまった。

 母はリビングルームのソファで眠っていたが、ただいまを囁くと、穏やかに目を開いた。


「おかえりなさい」


 そうして久しぶりに抱きしめてくれた。すごく嬉しかったから、短い間でも母をひとりぼっちにしてしまったことを、優は謝りたかった。


「お父さん似。ほんとうにお父さんに似てる……優」


 うっとりとした母の口調、だが荒れた唇にはワインの色素が滲みついていた。

 またお酒を飲んだのか。心がずきりと痛んだ優の――その表情がまずかった。一瞬にして、母の目つきが変わったのだ。優は乱暴に突き放されると、骨ばった、枝のような細い腕にぐしゃりと髪の毛を鷲掴みにされた。怪しい力だ。ふだんの母からは考えられないほどの怪しい力が宿り、優の身体は床の上を引きずられていく。


「女の匂いがするの。優までつけて帰ってくるなんて、ア、アア最低……最低……」


 母の後ろ姿は黒い、黒い、どす黒い、大きな影の塊みたいだ。長い髪をふり乱しては悲鳴をあげたり、呻いたりしながら、家の奥へ、さらに奥へ……と真っ暗の廊下を突き進んでいく。広い家の中の、どこへ向かっているのだろう。暗い洗面所、じめりとした脱衣所、そして、浴室の扉を押し開いた。


「……嫌なの……」



 母の嘆きが、響き渡る。


 ああ。たしかに優は、すごく近くで、女の人にべたべたと触れられた。匂いなんて移るものだろうか。でもお母さん、いやだったんだ、ごめん、と優まで悲しくなってしまった。

 今から風呂に入れと命令されるのだろうか。おそるおそる母の顔を見あげた、次の瞬間――


 優は浴槽へ投げ込まれた。






 目を覚ますと病院の室だった。

 付き添ってくれていたのは、母方の祖父だ。


「ゆうくん。ごめんなぁ……恐かったろう」


 あの日何が起きたのか。

 祖父は、決意を持って話してくれた。


 子どもが浴槽で溺れたと、深夜に突然、優の母が現れたという。都心から車を飛ばして遥々裏野町まで、意識のない優を運んできたのだ。「救急車はだめっ!」と狂ったように叫ぶ母をやっとの思いで引き離すと、――頭を切って顔を血だらけにした子どもが、びしょ濡れの状態で毛布にくるまれていた。優は即入院だった。

 優の父が駆けつけて、錯乱する母と激しい口論に。離婚しない、離婚するだ、優のことではない。互いが互いを傷つけ合って、その場に居合わせた全ての大人たちが止めに入る一大騒動となった。


 父と母は親同士の決めた結婚だった。ともに容姿端麗で、子どもの目から見ても抜群にお似合いの夫婦だった。けれども、何かが違ったのだ。そのことに優はずっと囚われている。


 優の父は都心の名家の出身で、代議士だ。

 優の母は、地方の裏野町から多額の持参金を持って嫁いできた。はじめこそは大事にされたものの、すぐに親族のうちで孤立。憧れていた都心の生活にも馴染めず、しだいに家の中にこもるようになった。


 優があまり人とは喋らない、あまり人とは関わらないのには、理由があった。

 外の世界に通じれば、家の中、母が完全にひとりぼっちだ。優の世界が広がれば、母の仕打ちがいずれ明るみに出てくるだろう、父に迷惑だ。


 ふたりを庇って耐えてきた。それなのに、こんなことになるなんて。この入院で、傷痕だらけの身体をたくさんの人に見られてしまった。子どもが実の母から暴力を受けていたのは、誰の目にも明らかだ。


 いろんなことを諦めなくてはいけない日が来た。

 これからじぶんを取りまく環境が、大いに変わっていくだろう。




 祖父が席を立ったのち。

 優は人知れず、泣いた。


 泣くと涙が真珠になる。人魚はそうして長く生きた悲しみを、閉ざされた海の底へと沈めておくのだそう。


 優は人間だ。人間なんかの涙にそんな価値はないと思う。

 ただのしょっぱい水だから。

 でも、海の水もしょっぱいという。


 陸の上には悲しいことばかり。人間が泣けば、流れた涙が溜まって海となる。何億、何万年と海が枯れないわけだ。その海の中を泳ぐ人魚なのだから、悲しみを美しい結晶にして、みずからをも慰めているんだろう。世界はひとつに繋がっている。人間と人魚、生涯会うことのないもの同士だが、知らず知らずのうちに干渉し合っているのかもしれない。


 裏野町には、人魚の肉を食べた人がいたという。

 その人は、長く、とても長く生きたらしい。

 病気にならなかった。

 怪我をしても、またたく間に治った。

 優だって――、身体中の傷痕が消えていたら、母が責められなくてすんだのに。


「ふしぎだなあ。いいなあ。怪我がはやく治るの、いいな」


 それならば、こんな騒ぎにはならなかった。


「でもそんなの、そんなのって、あるわけがない、現実を見てよ……」


 子どもの優だって、わかるんだ。

 でも、いいなと思ってしまう。


「長生きの人って、しにたくなるほど悲しんだこととか、ないのかな」


 病室の窓辺から見えている。

 裏野町には海がある。

 もしかしたら人魚に会えるかもしれない。

 いや。現実を見て生きろ、と父に言われたな。


「そうするよ」

 かすれた声で、優はつぶやく。


「これからはそうするから、今だけは……」


 暗い夏になる。今だけは、悲しいことから目をそらして静かな海を見ていたい。




 退院すると、夏休みだった。

 父と母は話し合い、もうすぐリコンする。そこに、じぶんの意見なんかは必要ないみたいだ。


 そうして優は――、


 夏休みをまるまる裏野町の祖父宅で過ごすことになった。


 

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