光る粒


 猿はどこからやってきて、園内に紛れ込んだのだろうか。

 夏休みの遊園地がいくら非日常の空間であっても、こんな巨体の化け物が現れたら、たちまち大混乱になるはず。それでも猿は平然と、人間の言葉を喋ってみせた。なんなんだ、こいつは。謎だらけで、気味が悪い。


 まさか、しろくんのように遊園地の中に棲んでいた、というのか。それなら、しろくんの秘密を知っていたのもわかるし、猿としろくんの互いを繋げる共通点にもなる。遊園地の住人――それこそが、緑の密集地で植物たちに狙われることのなかった、もっともらしい理由じゃないか。


 猿の屍を見ていると、ぼんやりと、黒い顔が人間の顔のように見えてくる。優はそのおそろしい考えを、ふり払った。たとえ同じ言葉を喋っても、やつは絶対に人間じゃなかった。「きぃきぃ」と耳障りな声で鳴いていたが、あれと同じ鳴き声は、アクアツアーの川辺のいたるところで聞いた。仲間がいるのだろうか――いや、いるに違いない。ならばその仲間は今、どこにいるのだろう。


 びくり、と優は肩を竦めた。

 考えごとに夢中になるあまり、小さな足音が、ほんのすぐそばまで近づいてきたのに気づかなかった。


「しろくん……か」


 足音の主は、しろくんだ。歩けるまでに回復したらしい。

 猿に噛まれたはずの首筋も、地面に叩きつけられた胴体も、つるんとした肌に傷はなくなっている。驚異の回復力――青色の血を少し飲んだていどの猿の傷が、またたく間に塞がっていったことも妙に納得だ。いやそんなことじゃない。そんなことよりも、小さい身体をたくさん痛めつけられたのに、この子は、泣きもしないし、叫びもしなかった。優はしろくんが心配だ。


「もう、大丈夫なの?」

「うん だいじょうぶ」

「本当に?」

「うん ゆうくんだいじょうぶ じゃない」


「え……」


 優は言葉を詰まらせた。心配しているのは、じぶんのほうなのに。それをうまく言い表せないのだから、頭の働きが鈍くなっている。一呼吸おこうとしたところで、猿の屍と目が合った。血のついた、虚ろのふたつの目玉が、優を見上げている。


「しろくん……少し、ここから離れたい」

「うん」

「ごめん、ちょっと手を貸して。歩きながら話すよ」


 そう言いながらも優は、ひとりで立ち上がると、ふらふらと歩いていった。

 このしろい花畑は猿の墓になる。美しい花々が猿の屍へと覆いかぶさり隠すまで、優は延々としろい岸を歩いていこう。いつでも膝をついて、座り込むことはできるのだが、その必要はない。かろうじてくっついている腕の感覚はなくなって、身体がずいぶんと軽くなった。心が海を目指して、しろい岸を、すいすいと進んでいるのだ。


 そうやって歩き続ける優の腕を、しろくんが引いて、止めた。


「ゆうくん ここでいい」

「あ、うん」


 優はふり返って、がっかりした。

 猿の死んだ場所から、ほんの少ししか離れていなかった。実際には短い距離を、とても長く歩いた気がする。その間、優は無心になっていたからか、軽くなったはずの身体は元通りで、ずんと重くなってしまった。


「はぁ。座ろうか、話しの続きをしないとね」

「うん」


 しろくんとふたりで海を眺めるようにして座り込むと、遠く、海面が静かに燃え出した。上空からオーロラの幕が降ってきたからで、ここでは一日のうちに何度もそれを繰り返すようだ。


「ゆうくん これ」


 しろくんが、優のシャツを拾ってくれていた。さっき、――ずいぶんと前のことのように思えるけれども、優はこれに海水を含ませて、猿に投げつけたのだ。


「ありがとう。でもごめん……それ、もういいや」


 優は微笑んで、お礼だけを言った。受け取るにも腕が上がらないし、着ることもないだろう。しろくんも、やがて気がついた。優の身体はしろくんとは違うから、ただ待っていても怪我は治らないのだ。


「ゆうくん なおるよ」


 しろくんが〈タオルハンカチ〉を見せてきた。表が黄色、裏がオレンジ――のはずが、猿から取り返した後に、しろくんの青色の血が滲んで変色している。もちろんついているのは、しろくんの血だけではない、もともと水に濡れていたし、地面の泥だってついている。赤黒いのは猿の血だ。いやな予感がする。


「まさかしろくん、ちょっと待っ――」


 問答無用で、優の腕に〈タオルハンカチ〉が押しつけられた。


「痛った、たたたた、痛いよっ!」


 優は悲鳴を上げたが、しろくんは容赦なかった。


「がまん」

「違う、こんなことしちゃだめだ、しろくん!」


 優は必死にしろくんを止めた。こんなことをして欲しかったわけじゃない。しかし、しろくんの青色の血は〈タオルハンカチ〉から滲み出ると、優の意思とは関係なしに、腕の中へと吸われていく。


「な……」


 青色の血が、優の細胞と結びつく。腕の中の時間が巻き戻っていくような、神秘の感覚だ。新たなものを生み出すのではなく、役目を終えたものが蘇り、しぜんともとの形に返っていくのだ。少ない量でこれほどまでに回復するのか。こんなに大きな秘密を、じぶんに明かすとは。


 遊園地へ出てはだめ――しろくんは、アクアツアーの底で身を隠すように生きていた。優はてっきり珍しい、しろくんのしろい容姿のため、と思っていた。しかし本当の理由は別だったのだ。


「ご、ごめん……しろくん」


 優の身体が小刻みに震えた。

 あのとき、緑の木と化せばよかった。

 鉄の扉を開けなければよかった。

 〈タオルハンカチ〉を渡さなければよかった。

 アクアツアーの底で、出会わなければよかった。

 遊園地に来なければ。今日のことは全て、優のせいだ。


「僕が洞窟から、しろくんを連れ出したから……」


 優の目から涙が溢れる。

 驚いたしろくんが〈タオルハンカチ〉を手放すと、露わになった優の腕には、猿の歯型の痕が薄っすらと残るのみだった。


「僕は、こわいよ。どうなっちゃうのか、こわい」

「こわい」

「ここに来てから、僕は……僕じゃないみたいなんだ。きっと僕の本性ってすごく狂暴なんだ。僕が、猿にしたこと見たでしょ?」


「うん みた」

「僕が無茶して怪我をするたびに、治すの? そのたびに、しろくんが危険になるんだ」


「こわい こわ い」

「猿だって! 最初から怪我してたけど、僕らを見つけなければ、へんな気をおこさなかったかもしれない。あんなふうに、死なずに、すんだかもしれないっ――!」


 最後は叫んでいた。

 もっと、もっと言いたいことはたくさんあったけれども、優はそこで言葉をとぎって、涙を拭った。


 優だって――猿に殴られて、痛かったし、悔しかった、悲しかった。同じ言葉を喋るのに会話は通じず、殺してしまった。あの猿って、死ぬまでの必要があったのか。皆の運命が、優のせいで狂ってしまったんじゃないか。


「こんなことになるなんて」


 優は顔を上げたところで、はっとした。


「……ゆうくんこわいの ぼく?」


 しろくんまで、ぽろぽろと泣いていたのだ。

 小さな声で、何を言ったのかは優の耳には聞こえない。その美しい目元から、光る涙の粒を、溢れさせている。


「え……?」


 ただの涙ではない。しろい頬を伝ううちに、まんまるに固まって、地面へとこぼれ落ちていく。涙の粒は、しろい砂の上で、きらきらと光る宝石になった。


 ああ、しろくんには驚かされてばかりだ。


「やっぱり、しろくん……へんだよ」

「うんそうみたい ゆうくんも なみだ みずみたいへんなの」

「僕の涙、へんかな。よくわからないけど……しろくんの涙、綺麗だよ」

「そうかな」


 しろくんも、じぶんで流した涙に戸惑っていて、優の涙と比べては首をかしげている。


 優は息をのんだ。

 ここまで材料が揃ったのだから、いいだろうか。

 ずっと、心に秘めていたことを、思い切って尋ねてみる。



「しろくんってさ、人魚なんでしょ」



 ざざん、ざざん、と波打つ音が、沈めた記憶を呼び覚ます。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る