嘘つきの舌
※流血、暴力、グロテスクな表現が含まれます。
いよいよ青色の血を飲むつもりの猿。やつは死を免れて、全快するのだ。
じぶんこそが運命に選ばれたのだと、勝ち誇ったように「きぃきぃ」と鳴く猿の、横へ横へと裂けていく、口――そこから牙を剥き出して、しろくんの首筋へと狙いを定めた。
おかしい、血を飲むんじゃないのか? 優の目から脳へ、恐怖が伝達される。あんなにも大きい口で噛まれたら、しろい肉が、根こそぎ持っていかれてしまう。やつの真の目的は、血を飲むんじゃない、しろくんを喰らうつもりだった!?
優の脳裏に、嫌な未来光景が、サアァと浮かび上がる。
あってはだめだ、そんなこと、あってはいけない。今、身体の奥底から、熱された何かがぼこぼこと沸き立ってきた。それが怒りだと自覚した瞬間、優は爆発した。
ここからほんの数秒、優の頭の中は、まっしろだった。跳ねるように身体を起こす――と同時に、猿の大きく開いた口の中へ、じぶんの片腕を突っ込んでしまった。
「あっ……、え!?」
つっかえになるものと、とっさに放ったのが、じぶんの腕だ。鋭い三重歯列が食い込んできて、その痛みで、優は我に返った。チャンスだ――猿はこの数秒で、人間の子どもに何をされたのかまだ理解できていない。やつがぼう然としているその隙に、さらに喉の奥深いところまで、腕を突き入れる。
生々しい感触の中を侵していき、よくわからないが、手前と奥とで、閉じたり開いたりを繰り返す、ふたつ分かれのところの蓋に爪を立て、それをもぎ取るつもりで鷲掴みにしてやった。
猿が仰天して、なんとか優の腕を引き剥がそうと噛みついてくる。が、どんなに痛くても最期と決めた優だから、絶対に力は緩めない。もう片方の腕で、猿の口を押し開き、離されまいと抵抗した。
猿の小さいふたつの目玉が、宙を見て、ぐるぐるとまわっている。動揺と、焦り――猿も必死に考えて、牙を突き立てたままでは、憎たらしい優の腕は抜けないと気づいたらしい。今度は口を開けて、優の身体をぐいぐいと外へ引っ張ってくる。相変わらずもの凄い力だ。
「く……!」
腕、なくなるかもしれない。
優の呼吸が荒らぐ。苦しい、汗がだらだらと流れていく。
絶対に離すものか、ここで止めなければ、もう防ぐ手立てがなくなってしまう。このばかでかい猿の真下には、深刻に動けない、しろくんが……寝かされているのだから。そう思って、ちらりと視線をやって気づいた。しろくんの、服の上にしたたる、赤黒い血の存在だ。
これは猿の血じゃないか。ここにきて、例の脇腹の傷が開いてしまったのだ。今、猿の意識はそこにはない。治りかけの傷口が開いて、再び血が流れていることに猿自身が気づいていない。優は、足をふり上げた。
遅れて、猿が気づいたとき。
その脇腹には、なんとも憎たらしい異物が――優の片足が、突き刺さっていた。
「うぎぃぃぃぃ!」
「うわああああ!」
優としては、蹴っとばしてやったつもりだった。
傷口が思った以上に深かった。幸か不幸か、足がすっぽりと嵌って、抜けなくなってしまったのだ。
「あああああ……」
なんとも気味の悪い感触。
猿の中は、ぬちゃりと柔らかく、濡れていて、優の足を包むものの全てに、とく、とく、と脈がある。猿は悲鳴を上げて暴れたが、すぐに前のめりになって、黒い顔を苦痛に歪ませた。それでも上下に体を揺すらして、優をふり落とそうとしてくる。
腕と足を、猿の中に突っ込んだままの優は、宙ぶらりんになりながらも、がんばるのだが、少しずつ、少しずつ、ずり落ちていく。とにかく爪を立てて、爪がだめになったら指を食い込ませて、おしまいに、猿の口の中の、何か――にすがりついた。
するとここで、猿の動きが、ふしぜんにもたつく。
ああっ、しろくんだ、しろくんが地面から手を伸ばして、猿の足を引っ張っている。
「もう、あきらめろよ! 悪いのはおまえだ!」
優が叫んだ、その瞬間。ふと腕に、謎の違和感をおぼえた。
それが何かはわからないが、ずるり――と、それと一緒に優の身体も、地面に落ちた。
そこですっかり脱力してしまった。
もう感覚もない優の腕の中から、赤紫色の、太くて柔らかい、ぬめっとした物体が滑り落ちていった。その正体を目で追う前に、ダダッと、大量の液体が頭上に降ってきた。
猿が真っ赤に裂けた口を、大きく開いたまま、血と涎を垂れ流したのだ。体をふらつかせながらも、猿の小さいふたつの目玉には怨念の焔が灯り、憎々しい優の姿を的確にとらえている。猿の黒い手のひらは、優の身体を弄って首の位置を探ってきた――が、やがて止まった。
猿は優を睨んでいる。
優も、猿を見据えている。
猿の口からは、細く、ぐにゃりとした管のようなものが血色の糸を引くように伸びていて、それは少し離れたところの、優の手からずり落ちた、赤紫色の生々しい物体へと、続いている。
舌だ。
今しがた優は、全体重をかけて、力任せに、猿の舌を引き抜いたのだ。
出血が多い。
顎も動かないし、舌も使えない。
しろくんが、目の前で倒れていても、なすすべがない。
“ぁ、あ……あ、うぐっ!”
猿の体がぶるぶると、痙攣を起こした。そのおそろしい動きに合わせるように、ぴんと伸びた太い首の内側から、謎の塊が逆流してきて、猿の口いっぱいに含まれた。と、途端に「ブッ……」と膨らんだ口から、大量の赤黒い血が、飛沫となって噴き出て、散った。
それが最期だ。もう意識はない。
白目を剥いた猿は、膝から崩れ落ちると、地面へ倒れたまま、ぴくりとも動かなくなった。
猿は死んだようだ。
黒い顔、小さいふたつの目玉、灰色の体毛、奇妙に汚れた衣服。
その全てに、口から噴き出した血がべったりとついていた。なんと壮絶な死にざまだ。
ショックだった。
ぼう然と、優はそれを見つめていた。
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