世界のはなし
鯵哉
present for you.
その日、野ばらが目を覚ました。
ばしゃ、と水から身体を引き起こす。げほげほと咳込む音。久しぶりに開いた目から光が入って目がちかちかとする。ぐらりと後ろへひっくり返りそうになったところで、背中に手を添えられた。驚いてそちらを見ると、目が合った。
「今、起きるとは」
白い肌に黒い短髪、エプロンを首にかけている。ぱっと見ただけで整っているその顔は人間離れしていて、野ばらはそれを少し怖く感じた。
「言葉は分かるか? 言語が違うのだろうか」
「……けほ」
「動く人間を見るのは久しぶりだ」
「言葉は、わかる、ですけど……」
まだ喉の奥に違和感があって、咳込んでいると、"彼"は背中に添えていた手を上下に動かした。
落ち着いて再度そちらを見る。
「どちら、様?」
その違和感に気付く。そうだ、"彼"は瞬きをしていない。
「俺はナンバー147、君を見守っていた」
「ナンバー、見守る?」
「高機能性人間型ロボットだ」
目の前にいる、この彼が。ナンバー147が、ロボット?
いつから彼がうちに来たのだろう。野ばらは自分が浸かっているバスタブのような容器を見下げる。薄青く光っているのは、液体の方か、容器の方か。
午睡のつもりだったのが、次の昼まで眠ってしまったような。そう言った、少しばかり長い睡眠から目を覚ました気分だった。野ばらはどうしてこの液体の中で眠っていたのか分からず、そして家の人間が誰も来ないことにも不信感を抱き始めた。
「私の、パパは?」
「……いない」
「家の人は? 誰か、いるはず」
「君、一人だ。ここにいる人間は」
何か、聞き違えただろうか。野ばらはロボットの彼の顔を見た。表情がない。眉も睫毛もあるのに、ぴくりとも動かない。
冗談か、嘘か。判断もつかない。
「君が眠ってから、もう千年以上が経ってる」
野ばらが眠りにつく前、大きな事故に遭った。その詳細は今となっては知る者はいないが、野ばらを溺愛していた父が昏睡状態となった野ばらを冷 『冬』睡『眠』させた。
野ばらの父は当時、権力を持った有能な科学者だったという。
しかし、野ばらが昏睡から目を覚ますことは無く、人類が滅亡するまでナンバー147に見守られていたわけだ。
野ばらがいたのは家では無かった。人が元々使っていた洞窟の中らしく、薄暗い。ナンバー147が出してくれた質素なワンピースを着て、随分使い込んだソファーのような物の上に座っていた。
父も母もいない実感も沸かず、まさか人類が滅亡危機だなんて想像が追い付かない。これは悪い夢か、もう一度目を覚ましたら、次はふかふかなベッドの上に横たわっているのではないか。野ばらは何度も考えて、頬を赤くなるほどに抓ったが、現実は変わらなかった。
しかし、それほど悲しむ余裕もなかった。悲しむ暇を、ナンバー147は与えてくれなかった。
「寒くはないか? 人間はすぐに風邪をひくから」
「腹は空いてないのか? 向こうにショートブレッドが置いてある」
「やはりこちらの服の方が良い気がする」
「どうしてそんなに頬を引っ張っているんだ。痕がついてしまう」
野ばらは眉を顰める。寒気も空腹も感じなかった。
「ナンバー147は、私の、ママですか?」
「俺はナンバー147だ。野ばらの母はもう亡くなっている」
「……うるさい」
何度も言わなくても、分かっている。ソファーから立ちあがり、ふらふらと歩く。その様子を見てナンバー147は手を差し伸べようとするが、野ばらが睨んだ。その表情を読み取ったのか、手をおろす。
野ばらは薄暗闇の中を手探りで進み、外への出口を見つけた。野ばらはその取っ手に手をかけ、一瞬躊躇った。
きっと、さっき言われたのは全部嘘だ。この先には普通に世界が広がっていて、店があって、人の声があるはず。
何度言われなくても分かっている、と思っていたのは誰だ。野ばらは取っ手に両手を添えた。この向こうに期待しているのは何か、自分でもよく分からない。
「……っ!」
その向こうは、灰色の世界だった。粉塵が舞い、遠くで何かがゴオゴオと動く音がする。辺りは瓦礫やゴミで埋もれている。昔、砂漠の映像をテレビで見たことがった。ここは、世界の果てだ。
呆然と立ち尽くして、それから走った。裸足に小さく固い破片が刺さる感覚。走る、走る、走って……転んだ。
「どう、して!!!!」
自分の気持ちでさえ、滑らかに紡ぐことが出来ない。野ばらは昔からこの喋りで、同い年の子と仲良くできなかった。そんなことをどうして今思い出すのか。
もう会うことも出来ない人々の顔を思い出して、涙を流す。膝から血が流れ出ているのが見えて、この灰色の世界でそれだけが鮮やかな色だった。
野ばらの後ろからナンバー147が近づき、腕の下に手を入れて立ち上がらせた。
「膝から血が出ている」
見たことをそのまま告げる。野ばらの膝の裏に腕を入れて、横に抱く。ぐずぐずと泣いている野ばらを気にせず、ナンバー147はまた洞窟の方へと戻っていく。
体温のないナンバー147の首に腕を回して体勢を安定させる。野ばらはそこから見える遠くで、小さなロケットのような物が発射されるのを見た。
「何か、発射した、です」
「発射じゃない。対戦ロボットがミサイルを撃ち続けているんだ」
「ミサイル?」
「この世界は、主人を失ったロボットたちが戦争をしてる」
戦争。野ばらは口の中でそれを復唱した。ナンバー147の首の後ろに、数字が彫られていた。それは作られた製造年月日らしく、確かに野ばらが事故に遭った少し後の年代だった。
「戦争、いつ終わる、ですか?」
「燃料がなくなったら動かなくなるだろう。ああやって、思い出したように動いたり止まったりするのもいる」
ナンバー147が立ち止まり、一点を見つめる。瓦礫の下にぎっぎっと車輪を動かしては止める小さなロボットが見えた。
この瓦礫はゴミの山ではない。元々何かの部品だったものだ。
「世界は人が何人いれば世界になるか、知ってるか?」
世界は何人から構成されているのか。ナンバー147の質問に、野ばらは考えた。
「わからない、です」
「二人から、らしい。二人いると人には関係性が生まれる」
野ばらは腕を伸ばしてナンバー147の目を覗いた。綺麗な緑のビー玉の向こうに動くカメラ機能。
「じゃあ、ここは、やっと世界?」
緑のビー玉が野ばらの方を向いた。瞬きをせずとも乾かない瞳。その間に野ばらは何度も瞬きをする。
「世界?」
「一人」
野ばらは自分に指をさす。ふむ、とナンバー147は頷いた。
「二人」
向けられたのはナンバー147の方。
「俺もその世界に含まれるのか。人じゃないのに」
「ナンバー、147は、ロボット」
「その通りだ」
「私を、見守って、くれてた」
洞窟へ入った。先程野ばらが座っていたソファーへと座らされ、ナンバー147は跪いて膝から流れ出た血が固まっているのを見る。
「血が固まっている」
「洗って、絆創膏、貼れば治る、です」
「絆創膏……ない」
ナンバー147が立ち上がりどこかへ行く。水の張った桶とガーゼを持って戻ってきた。
野ばらの膝を濡らして傷口を洗浄する。ガーゼを当てて、その周りをタオルで縛った。
「俺は、野ばらが目覚めるのを待っていた」
処置し終えた膝を見ながらナンバー147が話した。野ばらはぼんやりと頭頂部を見下ろす。
「世界がこうなってしまった今、野ばらが目覚めたのは辛いことだろう」
顔を上げて野ばらを見る。
「でも……こういうのを何というのか」
「んん?」
「今まで呼んでも来なかった猫がこちらに近寄ってきてくれた時のような」
「猫?」
「しんしんと降り積もった雪に足跡を最初につける時のような」
「足跡……もしかして、嬉しい?」
「それだ。きっと」
ロボットに感情はない。しかし必死にそれを説明するナンバー147に、野ばらは少しだけ笑った。
「やっと笑った」
ナンバー147が表情のない顔で、そう呟く。
「嬉しかった。野ばらが世界に俺を混ぜてくれて」
「……ふふふ」
「ふふふ」
「笑ってない、のに! あはは!」
きゃっきゃと笑う野ばらを見つめて、ナンバー147は立ち上がった。高い高いをするように野ばらを持ち上げて、ぎゅっと抱きしめる。
「今日が聖夜だからだろうか」
「聖夜って、クリスマス?」
「ああ。サンタクロースが、世界をプレゼントしてくれたんだ」
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