かくしごと

ゆお

かくしごと



 千種五十鈴ちくさいすずという少女は雨が好きだと言った。


 わたしは思わず心の中で、変わってる子だな、と感想を浮かべていた。


 確か雨が降りしきる日の、近所の小さな公園でのことだった。子どもたちに人気のある遊具の、黄色い屋根の下、わたしと五十鈴は雨宿りをしていた。


 普通の人は晴れの方が好きだと言うけれど、わたしもその一人だ。当時小学校五年生だったわたしには関係ないけれど、洗濯物がよく乾くのは気持ちのいいことだと思うし、登下校も傘一つあるとないとでは学校での心持ちが全く違ってくる。靴の中もぐちょぐちょにならないし。


 それなのに雨の方がいいの? わたしがそう訊くと、五十鈴は、

「もちろん優珠ゆうじゅの言ってることはわかるけど、雨も結構気にしてるんだよ? 突然雨を降らせて洗濯物を濡らしちゃうのだって悪いと思ってるし、傘と長靴、できれば合羽も使ってほしいって思ってるもん」

 と答えた。


 なんだか実際に雨と会話でもしているような言い草だったから、わたしは冗談でそう言ってみると、五十鈴の方はきょとんとした表情になって真面目な口調で、

「話せるよ。本当だよ」

 と訴えてきた。


 そんなに真っ直ぐ言われると、わたしはそれ以上何も言うことができなかった。


「ホントはね、秘密の事なんだ。お父さんにもお母さんにも余所でその話をしないようにって言われてて。でも優珠に話したのは優珠を信じてるからだよ」


 五十鈴から突然の告白にわたしは困惑した。


 信頼してくれているのはありがたいことなんだけど、五十鈴の話をどう信じたらよいのだろう。小学生でも一般的な物の分別はつく。雨と話せるなんて絶対にありえないことなのに、目の前の少女は純真無垢にそう言うので、わたしはいつのまにかうなずいていた。


「実はわたしも雨と話せるんだ」


 そんな嘘をついたからって五十鈴のためになるわけではないし、これから彼女とつきあっていく上で何度も罪悪感を覚えることになるだろうとは思った。けれど、その時の五十鈴の笑顔は、初めて公園で逢ったあの雨の日から一度も見たことのない表情だったから、わたしも嬉しくなって、今はそれでもいいや、と軽薄な考えのままにした。


 その後わたしたちは、意気投合して同じ高校に通うことの他に、雨と話ができるのは二人だけの秘密にしようという約束を誓った。その秘密は、わたしたちの間では「かくしごと」と呼ぶこととなった。



   高校生になってから



「優珠、部活行こ」


 教室中に響く生徒たちの黄色い声の中に、親しみのある声が混ざっていることに気がついたのは、ちょうど筆箱を鞄にしまい終えた後だった。


 顔を上げたわたしの視界に、よく見慣れた二人の顔が映り込む。


「どうした? ぼーっとしてるね」


 心の奥底まで見透かされそうな澄んだ瞳がわたしを見つめた。長い髪を後ろで束ねた、女子としては長身の彼女の名前は新見文歌にいみあやかと言う。


 わたしと同じ陸上部に所属している高校一年生で、わたしと違って実力のある陸上部期待のホープだ。運動神経がいいのは見た通りだが、人としても完成していて気配りがよくできる。今もこうして何も考えずにぼうっとしていただけのわたしに、心配そうな瞳を向けている。


 そしてその後ろには文歌の身体に隠れるほど小柄な女子生徒、東槻麻子とうつきまこの姿もある。彼女も同じく陸上部に所属しているが、わたしたちとは違い選手としてではなくマネージャーとして部員を支えてくれている。


 もともと陸上部で選手として活躍していた時期があったようだけれど、内気な性格と裏方の仕事の方が自分には合っているということで高校ではマネージャーに従事している。


 この二人とは高校に入って初めて知り合った。教室も部活も同じということもあって自然と仲良くなり、今ではたわいのない会話が学校生活の中で一つの楽しみでもある。


「うん、大丈夫。行こ」


 わたしは文歌の気遣いに若干の罪悪感を抱き、作り笑顔で答えた。


 廊下に出ると、窓から西に傾き始めた陽光が射し込んでいた。キラッとわたしの手元が光り、自然と視線が下に向く。わたしは数瞬、光を反射する「それ」を見つめた。


 ふと視界の奥に前を行く二人の影が映り、その長さに目を奪われて先端を目で追っていた。


「そういえば、明日雨降るみたい」


「えー、うそ。じゃあ今日はみっちり練習しないとね――優珠?」


 そんな文歌と麻子の会話をよそに、わたしの意識は伸びる影のその奥にあった。


 わたしの視界の端に、清潔感あふれる真っ白なハイソックスが映り込み、それは西日でわずかに肌色に染まっている。


 目線が自然と上に向いた。


 着崩れのないピンと張った制服は凛としており、気品の高さを思わせる。わたしはその人物の顔を中心にとらえて、一瞬息が詰まった。


 五十鈴……。


 背後で二人の動きが止まった気配がする。


 わたしは怯えていた。


「ゆ……、優珠」


 五十鈴から発せられた小さな声を聞くと逃げ出したい気持ちになった。それでも身体が動かなかったのは周りに人の目があったからなのか、五十鈴に対する嫌悪感からなのか、わたしにはわからなかった。


 その場は異様な雰囲気につつまれていた。


「……私たち先に行っとこうか?」


 背後からの声で、わたしは我に返った。トーンを落とした控えめな声は文歌のものだ。


 わたしは咄嗟に振り向いて、「ごめん」と一言謝った。


 声音だけで意味が通じたのか、文歌は、

「じゃあ、先行ってるね」

 と言い、麻子にアイコンタクトを送ったと思うと、二人は踵を返して下駄箱の方に向かって歩きだし

た。


 廊下を往く生徒たちは何人もいるが、わたしたちのことは露ほども気にしていないようで、わたしは文歌と麻子が視界からいなくなったことを確認すると、五十鈴に向き直った。


 嫌な緊張感がわたしの身体をこわばらせた。


「……なに?」


 発せられた一言は、自分でも驚くほどに冷たさを含んでいた。もっと違う、オブラートにでも包んだ優しい言葉はかけられなかったのか。数秒前に時間を戻したい気持ちになったけれど、そんなこと叶うはずもない。


「え、えっと……」


 五十鈴の声は短く区切られ、どこかぎこちなさを思わずにはいられなかった。その原因を作ってしまっているのはわたしだけれど、冷徹な言葉は口を衝いて出てきてしまう。


「用がないならもういいよね? わたし部活あるから」


 わたしはそう冷たく言い残し、完全に五十鈴に背を向けた。


 わたしは、五十鈴が呼び止めてくれることを密かに願った。どんな些細な話でも、相手から話を振ってきてくれれば聞き手は楽になる。けれど、そんな都合のいい願いが叶うはずもなかった。


 思えば、いつのまにかわたしはそうなっていた。


 小四の頃。わたしには親友の女の子がいた。家も近所で、ほとんど毎日遊ぶほど仲が良く、それは学校生活でも変わらないことだった。お互いの好きな人も嫌いな女子の話も共有し、わたしは少しだけその女の子に特別な感情を抱いていた。


 ある日、少しだけだったはずのその感情は、自分でもはっきりと認知できるものに変わっていた。


 小学生の頃なんて心変わりも速く、わたしの親友は他のグループの女子とお喋りすることが増えていった。その輪の中にわたしは入ることができなかった。特別わたしがグループから嫌われていたわけではないけれど、ただ、親友を取られてしまった感覚が輪の中に入りたくないと思わせていた。なんたってわたしたちは特別なはずなのだから。


 そんな中、久しぶりに親友と遊ぶ約束をした。実際は前回遊んでから三日も経っていなかったけれど、わたしにとってその期間はとても長く感じられた。そして、いざ会ってみるとその時間は今までのどの時間よりも特別に感じられた。


 何を話したか鮮明に覚えていないけれど、たしか好きな人の話や嫌いな女子のことについてだったと思う。わたしはいつもの調子で話していたが、親友はそうではなかった。それだけはよく覚えている。


 わたしはその場にひとり取り残された。親友が帰ってしまった後で、わたしはしばらくの間、物思いに更けていた。


 わたしと彼女は何も特別な関係ではなく、ただ、わたしが勝手にそう思ってしまっていたということ。勝手な思い込みで深い関係であると錯覚してしまっていたことに気がついたわたしは、それ以来、仲良くなった子とは距離を置くようになり、いつしか周りに信頼のおける友達がいなくなった。


 そんな経験が現在の状況を生み出してしまっていることはわかっていたけれど、長い間定められたわたしの意志は、そう簡単には曲げられることではなかった。


 わたしは、廊下を突き当たった所で、一瞬五十鈴の姿を見た。


 彼女はその場に立ち尽くしたまま悄然しているようで、わたしはそんな彼女の姿に少しだけ苛立ちを覚えて、直前の記憶を消すように昇降口まで走った。



 部室に着くと、すぐに文歌が心配そうな表情でわたしの元までやって来た。


「何かあったの?」


「ううん。なんでもない」


 わたしは首を横に振った。


「そう? けど、昨日も千種さん、優珠に会いに来てたよね。それでも何もないって言われても信じられないよ。何か悩んでるなら話聞くよ?」


「ありがとう。でも、本当に大丈夫だから……。心配させてごめんね」


「……けど」


「大丈夫だって。ほら、練習始まるからグラウンド行くよ」


 わたしはそう言って、半ば強引に部室を出た。


 文歌のことだから深刻そうに話をしたら、どんなことでも解決しようと親身になってくれることはわかっていた。けれどわたしはそんなことを望んでいないし、過去の体験を繰り返すようなことにはなりたくない。知られてしまえば、わたしはまたひとりになってしまうから。



 それから三日間、五十鈴がわたしを訪ねてくることはなかった。


 一日二日程度なら気にするほどでもなかったが、三日目になると知らないふりもしていられなくなる。


「土曜日部活休み。先生、出張みたい」


 五十鈴のことを考えていたわたしは、突然声をかけられドキリとした。


 気が抜けるようなスローテンポな声の持ち主は麻子だ。机に肘をつき手で顔を支えてぼうっとしていたわたしは、咄嗟に彼女の顔を見上げた。


「え、なに?」


 と訊くと、麻子は表情を変えることなく、

「部活休み」と言った。


「え? 今日部活休みなの?」


 わたしがそう言うと、麻子は困ったように首を小さく傾げた。


「休みは明日だよ。先生が出張で。……優珠なんだか変。考え事してた?」


「え、ううん。逆に何も考えてなかった。明日部活休みなんだね」


 はぐらかしたのがわかったのか、麻子は少しの間、内面を見透かすような鋭い瞳でわたしを見つめてい

たけど、何かに合点がいったのか目つきを穏やかなものに変えた。


「なんだか嬉しそう。文歌にまた怒られる」


 麻子は、わたしの都合の良いように解釈してくれたらしく、わたしはそのまま話を合わせることにした。


 その後はなんでもない世間話を麻子として、教師の手伝いで職員室に行っている文歌を待っていた。教室に戻って来た文歌はわたしたちの姿を確認すると、「先に部室行ってていいのに」と少しだけ叱るような口調で言うので、わたしと麻子は「当たり」と言って笑いあった。


 話が掴めていない様子の文歌は頭上に疑問符でも浮かべていそうな顔をして、わたしたちを眺めていた。



 わたしは、その日の部活終了後、いつもは一緒に帰る文歌と麻子に断って、先に帰路に就いていた。途中まで慣れ親しんだ家並みの道を歩き、いつもは左に曲がる十字路をそのまま真っ直ぐ進んでいく。


 見慣れない家並みのせいか、街路灯は他と同じように等間隔でついているのにも関わらず少しだけ暗く感じる。心なしか、不安な気持ちがわたしの中に湧き、気がついた時には早足に道を進んでいた。


 わたしはこれから五十鈴の家に寄るつもりでいる。夜遅い時間で迷惑かもしれないけれど、部活前からある胸騒ぎが邪魔をして、そのまま家に帰る気にもなれなかった。


 それから数分で五十鈴の家に辿り着いた。目の前には重厚感のある数寄屋門がどっしりと構え、その奥に荘厳な横長のお屋敷が静かにわたしを見下ろしていた。塀の高さを優に超える立派な松との組み合わせはいかにもお金持ちが住んでいそうな家を思わせた。


 わたしは門の前で立ち尽くした。呼び鈴を鳴らして五十鈴の在宅を確認したところでそれ以上の会話の話題は用意していない。いればいいです、だけではさすがに変だ。それに学校で嫌な態度をとってから三日も会っていないというのに、今更どんな顔をして会えばいいのかわからなくなっていた。


 遠目で確認することができればいいのだけれど、お屋敷から門まで距離がある上、部屋の照明も点いていないようで確認のしようがない。


 胸騒ぎと緊張がごちゃ混ぜになって、もう休日を跨いで月曜日に学校でこっそり確認すればいいかと思っていると、インターホンの鳴る音が聞こえて、わたしは視線を門の方に動かした。わたしはボタンを押していない。にも拘わらずインターホン越しに声は聞こえてきた。


「どちら様でしょうか?」


 その声には聞き覚えがあった。バスの利いた落ち着いた声は確か、千種家で雇っている使用人の平松さんのものだ。


 わたしは平松さんと面識がある。しかし、それも小学生の頃のことで、体躯の良い、しっかりとした物の言い方をするおじいさん、という印象しか残っていなかった。


 わたしは、もうどうとでもなれ! という思いで、え、えっと、と話を切り出した。


「小学生の頃お世話になった、鈴木優珠です」


 そう言うと、平松さんは数瞬考えたのち、

「ああ、優珠様。これはこれは、ご無沙汰しています――ご足労おかけしまして大変申し訳ないのですが、只今、十五夜いさよ様は家を留守にしておりまして……」

 そう答えた。


 わたしは聞き覚えのない言葉に困惑した。イサヨ? 文脈的には人の名前だろうとは予想がついたけれど、何故その名前をわたしに言ったのだろうか?


 聞き間違えかと思い、わたしは、五十鈴が家にいないのかと訊ねたところ、平松さんはそのままの調子で、「どなたですか? そのイスズという方は」とそう答えた。


 その瞬間、わたしの胸騒ぎは完全な違和感となり、咄嗟にお手洗いを貸してほしいと理由をつけて屋敷の中に上がり込んだ。


 何度か入ったことのある場所なので、大体の間取りを把握していたわたしは、トイレがある方に歩いてはいるが目的地は違う場所だった。二階に上がり左に続く廊下を歩いていくと、四枚組の襖が二つ隣り合う箇所がある。そこが五十鈴が使っている部屋への入り口のはずだった。


 わたしは静かに襖を開き、中を見て当惑した。


 もともとだだっ広い部屋だったのを記憶していて、家具などもタンスが二、三置かれているだけだったと思っていた部屋の中は、タンスは勿論、布団もカーテンもなく、物寂し気に浮く空気と冷たい夜空を映す窓だけがそこにはあった。


 わたしは背中に嫌な物を感じ、咄嗟に振り向いた。当然背後に誰かがいるわけはなく、それでも近くに得体の知れない目に見えない何かがいる気がして、わたしは怖くなってその場から逃げ帰った。




 わたしはその日の夜、空を飛ぶ夢を見た。正しく言うと浮遊する、の方がしっくりくるかもしれない。


 見慣れた家並みを二階ほどの高さから見下ろすその先に、小学生の頃のわたしがいた。


 驚くほど現実感のある夢は、実際にその場の出来事を体験しているようで、心にその時々の感情が流れ込んでくる。


 小学生のわたしは、当時の友達の後ろ姿を憂いを帯びた目顔で眺めている。置き去りにされ、自分だけが輪の外にいる息苦しい感覚がわたしを襲った。思わず目を逸らすと、向けた視線の先に一人の少女をみつけた。


 その少女の表情はわたしと似ているものがあった。気になって少し近づいてみると、それが小学生の五十鈴だということに気がついた。彼女の視線は小学生のわたしに向けられている。


 わたしは疑問に思っていると、五十鈴は何かに驚いて小さく肩を揺らし、キョロキョロと辺りを見たあと、目の前の公園に走り込んだ。彼女の姿を目で追っていると、わたしは突然の既視感に襲われた。


 そういえば、この状況をわたしは一度経験している。


 わたしの予想通り、五十鈴は黄色い屋根のあの遊具の下に潜り込んだ。


 しばらくすると公園にわたしが入ってくる。足取り重そうに向かうその先は、五十鈴が身を隠した遊具だった。わたしの視界に雫の筋が上から下へ通り過ぎる。


 そう。それがわたしと五十鈴の出逢いだった。



 そんな夢を見たわたしは、一時間ほど布団の中でもぞもぞ動き、もう寝むれそうにないと察して部屋のカーテンを開いた。天気予報で言っていた通り、今日は朝から雨降りだ。


 大粒でもなく、風に吹かれることのない雨は、我先に地面に落ちては道路や木々に潤いを与えている。しとしとと落ちる静かな雨を見ていると、あの日、五十鈴とした会話が思い出された。


 五十鈴は雨と話ができる。それに同調してわたしが嘘をついたこと。


 わたしのクセが原因で、高校生になってから五十鈴とうまくいっていなかったことも、嘘をついたことへの罪悪感も少なからずある。というより、罪悪感があるから、という理由が五十鈴と不仲でもいいという甘んじた考えを生み出す逃げ道になっていた。


 そんな最低なわたしに、今の状況が罰となって降りかかっているのだ。そう思うと、五十鈴が消えてしまったことも、今朝の夢も、わたしの罪が具現化したものだと思うと致し方ないと納得できる。


「――そんなことない」


 はっきりと聞こえたわたしの心の声。こんな状況になっても、まだ自分を肯定しようという気持ちがあるのだと思うと虚しくなってくる。


「間違ってない」


 まだ認めない気?


「本当のことだもの」


 こんな状況にしておいて?


「全部あたしのせいだよ。弱い、あたしの――」


 わたしはそこで初めて自分の心の声ではなく、他の誰かと話していることに気がついた。


 急いで部屋中を見回したけれど、誰もいるはずはなく、まだ微かに聞こえる声を頼りに窓側へとゆっくり歩く。足音を立てないように慎重に、耳を澄ませて。


 その声は窓の外から聞こえていた。はっきりとしていないが、確かにそれは窓の外、「雨の声」のようだった。


 わたしは中空を見つめた。どこを見たものかと考えたが、上から下へ落ちる雨を見ていると意識がぼうっとしてきて、気がつくと耳の奥で聞いたことのない声が響いた。お年寄りの掠れた声とも、若い女性の声とも、幼い少年の声とも聞こえる声。その声は、穏やかな口調で言った。


「あなたの探し物はあの公園にある。君が初めてあの子と出逢った、あの公園に」



 わたしは雨の降りしきる中、全速力で道を走った。何も気にならない、どんな目も今のわたしには映らない。この瞬間だけは、雨もわたしの味方のような気持になって、わたしはギアを一段上げた。


 公園まで持たないかも。でも、きつくはない。部活にかまけて五十鈴のことを後回しにしていたからだろう。少しでも早く公園に着くのなら、その選択は間違えではなかったと思いたい。


 十字路を左に曲がると公園が見えてきた。


 わたしはそのままの速度を維持し、公園の入り口を目の前にして初めて速度を緩めた。


 胸が大量の酸素を欲して大きく早く上下し、わたしは膝に手をついて苦しくなるほど空気を吸い込んだ。なかなか元に戻らない心拍を放り出して唾を飲み込む。


 公園に入ると、わたしは真っ先に黄色い屋根のある遊具へ歩いていった。


 雨天で誰もいない公園は雨音だけが響いている。他に聞こえてくるのはわたしの息遣いくらいだ。さっきの雨の声もいつのまにかなくなってしまっていた。


 わたしは徐々に大きくなる黄色い屋根のある遊具を見定めた。そこに行けばきっと五十鈴がいるはずだ。


 わたしの探している物は五十鈴――のはずなのに、その遊具には人の影も形もなかった。


 わたしは地面に膝をついた。雨で緩んだ土がぐにゃりと沈む。走って足に疲労が溜まっていることも忘れ、わたしは胸に押し寄せてくる絶望に吐き気を覚えた。


 もう二度と五十鈴には会えないのかもしれない。わたしが五十鈴を突き放したから、彼女は誰からも忘れられ、雨に溶けて消えてしまった。紛うことなく、わたしの責任だ。


 雨が染み込んだ髪の毛を伝って流れる冷たい雫の中に、暖かくしょっぱい何かが唇の隙間から口内に染み込んだ。それが涙なのだと気がつくと、押し殺していた息が唇から小さく漏れ出した。


 息がしづらい。さっき走っていたせいだ。落ち着かないうちに泣いたりするから……。


 意識して呼吸を整えようにも、思い通りにならず、わたしの身体は力無くゆっくりと地面に近くなる。肘がつき、腕がべっとりと土に濡れ、前髪にも泥がつく。意識が朦朧としてくる中、わたしは背後に何かがいる気配を感じた。それが誰なのか考えることもできないまま、熱くなった目を薄く開けてそちらに視線を向けた。


「……優珠?」


 わたしを見下ろすそのひとは幼く、心配そうな顔をして両方の拳を胸の高さで握っている。とても懐かしい。


 ああ、なんだ、五十鈴か……。いなくなってなんかいなかったんだ。わたしの早とちりだったんだ……。


 消え去りそうな意識の中に、

「優珠!」

 と強くわたしを呼ぶ声がした。


 瞑った目を力無く開けると、すぐ近くに五十鈴の姿があった。わたしは五十鈴の腿に頭をのせているようで、後頭部に柔らかく暖かい感触があった。心配そうな彼女の顔が、ぼんやりとした灰色の背景の中心にある。


 わたしは五十鈴に応えようと、上手く動かない唇を無理矢理に震えさせと、声が聞こえたのか五十鈴は、「大丈夫、大丈夫」と言って、わたしを黄色い屋根のある遊具の下まで運んでくれた。


 力を使い果たしたのか五十鈴も屋根の下でしゃがみ込み、少しの間呼吸を整えていた。


 さっきまで聞こえていなかった雨音が徐々にわたしの耳に戻り、呼吸も幾分かはマシになってきていた。上体を起こすことはできないけれど、首だけを動かして五十鈴の方を見る。彼女は疲労が回復したのか、わたしの方に身体を向けて今にも泣き出しそうな瞳をこちらに寄越した。


 どうにかして笑顔を作りたかったが、どうしても引きつった感じになってしまう。視線が下に落ちると、五十鈴の手元が見え、その中に見覚えのある「それ」を見つけた。


 わたしの視線に気がついたのか、五十鈴は「それ」をよく見えるようにわたしに差し向けた。


「あたしの部屋に落ちていたの」


 五十鈴はそれだけ言うと、冷たくなったわたしの手を取り、「それ」を握りしめさせる。


「忘れずに持っていてくれてたのね」五十鈴はくしゃりと破顔した。


 そんなの当たり前だ。「それ」は初めて五十鈴に貰ったヘアピン。銀色のピンにサファイアを模したプラスチック製の飾りをあしらった物。安物であることは簡単に見抜ける代物だけれど、中学でも高校でも、片時も忘れることなく通学鞄に付けていた。


 わたしは少しだけ恥ずかしい気持ちになったが、五十鈴は自分も同じ物をわたしに見せてきて、安心してわたしは心の中で笑っていた。


「ごめんなさい。心配かけて……」五十鈴は小さく呟いた。


 ううん、そんなことない。そう言いたいのだけれど、上手く声にならない。どうにかして気持ちを伝えなければ、と思っていると、またあの歪な声がわたしの耳の奥に響いてきた。


「言いたいことがあれば心に思いなさい。そうしたら、私が代わりに伝えましょう」


 透き通るような声だった。


 その瞬間、わたしの声がどこからともなく発せられた。


「わたしこそ、ごめん」


 五十鈴は一瞬驚いた顔になったが、すぐに状況を掴んだようで、

「雨の声」

 そう呟いた。


「聞こえていたんだ」


「ついさっき。五十鈴のことを考えてた時に急に――ほんとはね、それまで聞こえていなかった。わたし、五十鈴を騙してたんだ」


 わたしの代わりに雨が言うと、五十鈴は強く頭を振った。


「あたしも優珠に嘘を言ってたから。実はあたしも、雨の声が聞こえなくなってた。早く本当のことを言わないと、って思ったけど、優珠はもう気がついているのかもしれないって思ったら言い出せれなくて……」


「じゃあ、お互い様だったんだ」


 わたしは苦笑いした。身体の力が元に戻るのを感じて、ゆっくりと上体を起こしていく。


 五十鈴が補助してくれ、ようやく目の前に彼女の姿を見ることができた。


 実際に顔を見合わせると、何故だか恥ずかしさが勝って、わたしと五十鈴は同時に顔を反らした。


 また雨脚が強まる。いつのまにか雨の声は聞こえなくなっていた。


「ねえ、優珠――」


 小さな声で五十鈴が言った。


「あたしたち、今まで通りになれないのかな?」


 悲しい声にわたしは俯いた。答えはもう出ているのに、その先が声にならない。


 廊下で会った時、口ごもっていた五十鈴はこうして変わったというのに、わたしはあの時望んだ返事がきてもすぐに答えることができない。このクセはいつか改善するのだろうか。


 不安に押し潰され、また逃げてしまいそうになったわたしの腕を五十鈴が強く握りしめた。


 わたしは驚いて五十鈴の顔を見る。


 瞬間、五十鈴の顔を近くにとらえ、わたしの唇は五十鈴に奪われた。


 暖かい吐息が口許に触れて、わたしは顔が上気するのを感じていた。唇が未練がましいと言わんばかりにゆっくりと離れていく。


 お互いの額をぶつけ、わたしたちは繋がれた手を見つめた。


「優珠。あたしたちが結ばれたのは『かくしごと』のおかげなんだよ。きっとそれがあればあたしたちは

今まで通りになれる。より強い意味を持ったかくしごとで」


「でも、もしわたしがまた五十鈴を遠ざけたら……」


 わたしは不安を口にする。


「大丈夫」五十鈴は言った。


「優珠はしっかりとあたしを受け入れてくれたから。だからあたしは心配してない。忘れそうになったらあたしが思い出させてあげる。あたしが忘れそうになったら優珠が思い出させてくれればいい。あんなことしちゃったんだから、もうあたしたちは特別な関係でしょ? 優珠はそう思わない?」


 言われて、再び唇にさっきの感触を思い出す。温かく甘い感情が胸の辺りぐるぐると巡り、濡れて冷たくなった身体が仄かに熱を持つ。


 わたしはまた涙を流していた。


「……わたしの、目の前からいなくならないって、約束してくれる?」


「もちろん」


 五十鈴は優しい声で答えた。


「裏切ったりしない?」


「絶対に」


「他の子と仲良くならないで」


「優珠が望むなら、あたしはそうするよ」


 どこまでも優しい五十鈴の声は、今までわたしの心に溜まっていた陰鬱な感情を洗い流してくれるようで、これまで我慢していた感情が一気に思い出され、わたしはまた激しく涙した。


 そんなわたしの身体を五十鈴の腕が包み込む。


 どこからともなく来る安心感を、わたしは一生離しはしないと思った。


「五十鈴……、もう一度したい」


 わたしは小さく呟いた。


「わかった。あたしたちを結ぶ大切な『かくしごと』だから一度だけ……」


 その声を聞いて、わたしは目を瞑った。


 幼い日から変わった「かくしごと」。決して誰にも知られてはいけない、わたしと五十鈴を結ぶもの。


 わたしは一瞬不安に駆られた。


 けれど五十鈴のキスはそれを簡単に打ち消し、わたしたちは今、本当の意味で特別な関係になった。

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かくしごと ゆお @hdosje8_1

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