あなたのドラゴン、差押えます ~アラサー公務員の異世界徴税~

飛野 猶/「L-エンタメ小説」/プライム書籍編集部

第一話 俺はいま、どこにいるんです?


 佐久間真は、缶チューハイ片手に深夜の住宅街をトボトボと歩いていた。駅から自分のワンルームマンションまでは三キロほどの距離がある。

 普段、駅までは自転車で行き来しているのだが、今朝自転車を置いた場所に行ってみたら生憎自分の愛車は忽然と姿を消していた。

 理由はわかる。

 今朝は、寝坊したせいで月極契約をしている駅前駐輪場に自転車を置きにいっている時間がなかった。だから、駅の入り口脇に路駐するしかなかったのだ。そして、運悪く今日は駐輪監視員が見回りにくる日だったらしい。

 自分の愛車の代わりにそこにあったのは、『このあたりの自転車は撤去しました』という無慈悲な看板だった。

 あーあ、という残念な気持ちで、少し髪に癖のある頭を掻きながら看板を見つめた。

 看板に記された撤去自転車の保管場所は、終電も終わったこんな夜更けに行ける場所ではなかったし、そもそもとっくに業務時間も終わっている。

 どうやら週末に罰金持参で取りにいくまで、しばらく愛車なしで過ごさなければいけないようだ。


(ちっ……ついてねぇな)


 終バスも終わっていたので、自宅まで歩いて帰るしかない。汗でべたついた襟とネクタイの間に人差し指を挟み込んで、首との間に隙間を作った。身体のあちこちに埃がこびり付いている気がする。早く帰ってシャワーを浴びたかった。


 佐久間は、とある県庁で公務員として働いている。

 公務員というと定時に帰れる気楽な事務作業というイメージが強いけれど、実際はそうでもない。佐久間が所属しているのは、財務局徴収部機動課。

 つまり、税金を払っていない人にあれこれ手を尽くして払わせるというお仕事で、しかも困難な案件ばかりを専門に扱う部署だった。

 今日は朝早くから、ある貿易会社の強制捜索があった。

 佐久間の担当場所は、港の隅っこにある巨大な倉庫。そこに預けられていたその会社の荷物の検品と差押えが担当だった。朝っぱらから埃っぽい倉庫でひたすら荷物を確認する作業をしていたせいで、全身くまなく埃でコーティングされたようになっている。

 夕方に現場作業が終わったあとは、職場の「お疲れさん会」があったので半強制的にそれに参加。そのあと課長たちに連れ出されて二次会、三次会もハシゴさせられていたので、こんな時間になったのだ。

 埃まみれになったこのスーツもクリーニングに出さなければならないだろう。

 けれど、金銭を扱う仕事をしている割に自分のお金に対して無頓着な佐久間の財布には、もう千円札が二枚しかない。駅を降りたときはもうちょっと入っていたはずだが、コンビニでタバコと缶チューハイを買ってしまった。

 銀行口座には、昨晩ネットで確認したものが見間違いでなければ、三桁の残高しか残っていないはずだ。

 そしてさらに残念なことに、次の給料日は一週間以上先だった。

 それなのになんでぎりぎりまで使ってしまうんだろうと毎月後悔するのだが、その後悔が役に立った例しがない。


(またしばらく、スーパーの格安インスタントラーメン暮らしか……チャリの罰金どうしよう)


 そのことが何より佐久間の心を沈ませていた。

 職場の同じチームで働く後輩に生活費を借りてもいいが、『佐久間さん、また今月も金欠なんですか?』とニヤッとしながら言う彼女の顔が目に浮かんで、そんな格好悪いことしたくないという気持ちもわいてくる。

 しばらく食パンでも喰って生きていくかな、なんてことを考えながら缶チューハイをあおったが、そのとき佐久間はふと視界に違和感を覚えて目を擦った。


(あれ……なんだろう。目の前が白い)


 もしや、これが目薬のCMでやっている中高年の『かすみ目』ってやつなのだろうか。

 まだ三十三歳だが、そろそろアラフォーの足音も近づいてきている。

 一応ぎりぎり若いつもりでいたけれど、身体は着実に老化していっているのかもしれない。

 なんて思いながら何度か目を擦るが、いっこうに目のかすみが取れない。

 そうこうしているうちに、別の異変にも気がついた。なにげなく視線をやった自分の左手。その左手越しに、通りの反対側にある街灯の明かりが見えた。


(……え?なんだ、これ。俺の手、透けてないか?)


 そんなに酔っている覚えはなかったが、自分が思っている以上に酔いが回っていて、ありもしないものを見ているのだろうか。

 不思議に思いながら身体を見下ろすと、佐久間がはいているスーツのズボン越しに地面のアスファルトが見えた。左手だけでなく、身体全体が半透明になったかのように透けている。

 頭の中に大量の疑問符が浮かんできた。


(なんだ、これ。いままで、どんだけ酔っててもこんな風になったことねぇぞ)


 目のかすみもますます強くなり、やがて視界が完全に白で覆われた。

 平衡感覚を保てなくなり、バランスを崩してその場に膝をつく。体を支えようと左手も地面についた。アスファルトのざらっとした感触が指に触れる……はずだった。

 しかし予想に反して手についたのは、なにかもっとじっとりと湿り気があり、ヒンヤリしたものだった。そう。まるで、むき出しの地面に触れたような感触。

 チ─チチチチチッと、鳥の囀りが聞こえた気がした。


(鳥……? こんな真夜中に……?)


 ハトともカラスとも違う。初めて聞く囀りだった。

 もう一度聞きたいと思って鳥の声を探す佐久間だったが、次に耳に飛び込んできたのは、鳥の囀りではなく凛とした甲高い怒鳴り声だった。


『そこのヤツ! 何もできないなら邪魔だから、どけ! 死にたいのか!』


「へ?」


 顔を上げた瞬間、目のかすみが晴れた。白濁していた視界が、一気に開ける。

 そこは自分がよく知っている通勤路の住宅街……のはずだったが、目の前に広がった景色はまったく予想外のものだった。

 真上には太陽がある。深夜だったはずなのに。

 しゃがみ込んでいたのはむき出しの土の上だった。地面に何か不思議な模様が描いてある。アスファルトはどこいったんだ。

 周りには家々が見えたが、自分の見知っているものとは少々形状が違っていた。まるで日干しレンガを積み上げたような、粗末な平屋ばかりだ。

 そして。

 声のした背後を振り返ると、すぐ真後ろに何か『デカいもの』があった。

 思考がついていかない。

 なんだこの、デカいの。

 青緑色をした鱗のようなものがびっしりとついた、象よりも遥かに太い『足』。

 三階建てくらいはありそうな『デカさ』。

 そのてっぺん近くにある爬虫類のような巨大な『口』。

 その中には鋭い無数の歯が見えた。

 背中には、コウモリに似た巨大な『翼』まである。

 そして、真っ黒な二つの大きな瞳がこちらを見下ろしていた。


「危ない! 逃げろ!」


(人……?)


 その『デカいもの』の頭上にへばりつくようにしている人影が見えた気がした。どうやら、さっきからこっちに向かって叫んでくるのはソイツのようだ。


(危ない? 逃げろ?)


 声からしてそれは女のようだった。彼女の言った言葉を、頭の中で繰り返す。言葉の意味を素直に受け取ると、このデカいものが危ないからどけと言っているのは間違いないだろう。

 言われなくても、こんなよくわからない巨大なものがいる場所からはとっとと立ち去りたい。

 でも、身体が動かなかった。目の前のデカいものが、その大きな黒い瞳でずっとこちらを見つめている。佐久間は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていた。

 ふと右手に何かを握ったままだったことに気づく。帰りながら飲んでいた缶チューハイがまだ手の中にあった。この混乱の中、よく落とさなかったものだと思う。

 目の前にある怪物の大きな真っ黒い目に射竦められたまま、右手を口元に持ってきてコクリと一口チューハイをあおった。

 馴染んだはちみつレモンサワーの味が口内に広がる。

 ほぼ無意識にやった行動だったが、さわやかな炭酸の刺激が混乱しまくって訳がわからなくなっていた頭の中を少し鎮めてくれたような気がした。そのおかげだろうか、次の声で間一髪身体が動いた。


「避けろ!」


 どっちに避けていいのか、まったくわからない。でも、どうせ逃げるならこの化け物から遠ざかる方向だろう。佐久間は化け物に背を向けると、躓きそうになりながらも駆け出した。その直後、横殴りの強風に煽られて佐久間の身体は飛ばされる。


「うわっ……!」


 風圧に押されて、地面をごろんごろんと転がる。スーツが致命的なほど泥だらけだ。だけど、そんなこと気にしている暇はない。

 化け物の方を振り返った佐久間が見たものは、鱗に覆われた巨大な尻尾だった。あのまま同じ場所に留まっていたら、潰されていたかもしれない。

 その化け物から少し離れたことで、そいつの全貌がようやく見えた。

 自分の知識の中で一番近いものをあげるとしたら。


(……竜だ。ドラゴンってやつだ……)


 そう、目の前には一頭の巨大なドラゴンがいた。

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