第2話

 この世に永遠に存在するものがないように、完璧なものも存在しない。アクシール・ローズの住居兼要塞である塔もその一つである。塔はローズ渾身の魔法防壁と様々な罠により、一般人はもとより帝都当局までが侵入不可能としている建物である。しかし、そこにまるで自宅の居間に入るような気軽さで侵入する存在がいる。

 彼が初めてローズの前にあらわれたのは、ローズがフレアを迎えてすぐ後、ほぼ五十年ほど前のことである。彼はそこが自宅であるかのようにベランダから街を見下ろし、居間でくつろぎ、地下書庫の書物を読みあさる。ローズもとりあえず女性━その気になれば帝都を滅ぼすことも可能なほどの力を持っているが━二人住まいであるため 、相手が何者であろうと、自宅内を好きにうろうろされては迷惑であるため、いろいろと策を講じるのだが思うように効果は出ていない。

 便宜上彼と言っているが、正確には性別などはなく、生き物ですらない。自ら熾天使と名乗り、燃えるような赤い髪を持つ青年の姿で現れる存在のため便宜上彼と呼ぶことにする。彼は衣装持ちらしく簡素なフード付きローブや凝った作りの鎧など様々な装いで姿を現す。そして、すべての衣服は白で統一されている。

 フレアや一般市民の正教徒は彼の主張を信じている。帝都もとりあえず信じている。彼は帝都正教を含め、様々な宗教の聖なる書物に登場している存在である。その中でも、極めて高位の存在が帝都に現れたとなれば、政治的にも有意義なことであるためである。ただ、その彼と親交があるのが、新市街のごろつきたちを束ねる高齢の吸血鬼アクシール・ローズというのが微妙な点でもある。そのローズはと言えば、彼が帝国正教聖典に描かれている六枚の翼を持つ存在とは信じてはいない。しかし、そんな彼女とて、そこから感じる力が尋常でないことは認めざるを得ない。

 彼が帝都へそれもローズの元へ頻繁にやってくることに対して、様々な憶測が飛び交っているが彼は何も語らない。ただ、舞い降りてくるのみである。

 

 今夜も彼は舞い降りてきた。今夜は帝国歌劇場の舞台に立つ声楽家といったいでたち。

純白の礼服の襟元、袖口は過剰なほどのフリルで飾りたてられている。毎回旧市街の貴族や資産家もうらやむほどの豪華な衣装で現れるが、すべては彼の思考による造形物であり一切の元手は掛かっていない。

 通常、塔上空を包む外層の防壁に接触したものは、接触時と同じ力で跳ね飛ばされる。そのため帝都に住む鳥などが誤って防壁にぶつかっても、不意の衝撃に驚くということはあっても、それが原因で死亡するということはない。さらに内部へと侵入を試みるものだけが中層の防壁により焼き尽くされることになる。たとえ、そこを通りぬけることができても、内層に絡めとられることとなる。

 帝都も力技での防壁の破壊について試算を出したことはある。試算の結果、破壊は十分可能であるとの答えが出た。しかし、その余波で新市街が消し飛び、旧市街も甚大な被害が出るとわかり、以後誰もそれについて話すことはなくなった。

 彼とてこの世に具現化している以上、ローズの防壁を越える際、その身体は赤く燃え上がるのだが、通過後に身体を綺麗に再構成するため、見た目ではまったく損傷を受けているようには見える。彼に限っては、ローズの防壁は呼び鈴以上の効果はない。彼が防壁を越える際に発する炎は、ローズたちばかりか街の住民たちにも、その来訪を告げる目印となっている。そして、それが神の愛と情熱により、燃え立つ炎を纏う熾天使という聖典の記述を裏付けする結果となっている。

 塔の最上階のベランダに舞い降りた彼はいつもの場所へ向かう。そこには凝ったつくりの錬鉄のテーブルと椅子が設置してある。椅子は四脚あるが特に誰のものと決まっていないため、彼はその時の気分で好きなものに座る。少し待っていれば、メイドのフレアが現れる。

 初の来訪から約五十年、ローズの再三の抗議により、彼の無断で塔の居住区画への立ち入りはなくなった。

 彼は炎の天使の他、死の天使、そして氷の天使などの呼び名も持っている。炎の天使はその伝説と容貌を現したものでよく知られている。死の天使という呼び名はあまり知る者はいない。聞くことはあっても、大概はそれを腕のいい請負の殺し屋と勘違いしていることが多い。事情を知る者はその名を使わずただ あの方 と呼ぶ。

 彼はフレアをパートナーとして、罪人が悪魔の元へと走る前に転生の輪へと導くという活動を帝都で行っている。その対象は多くの人々をだましている偽医者、詐欺師、祈祷師、占い師、そしてそれを煽り加担する者たちである。多くの殺し屋などと違い、彼の行為は神の慈悲に満ちている。彼は自らの名前を告げ、悔い改めることを勧める。そして、それを拒まれたとしてもいやな顔一つせず、対象が無事神の元へと旅立てるよう葬送の儀式を行い、最強の捕食者の手により痛みを感じる暇もなくこの世から旅立たせる。そして、速やかな転生が遂げられるよう罪の元であり成果でもある資産を回収する。さらに新聞などに対象自らのこれまでの行いの告白と謝罪を掲載するおまけつきである。

 無断で記事を載せられ、広告代や他のおこぼれをむしり取られた者たちは何らかの行動を起こしたいのはやまやまだが、帝都やローズが見て無ぬふりを決め込んでいるため泣きねいりをする他ない。

 彼が椅子に座りほどなくすると、ベランダへと通じる扉が開き、メイドのフレアが姿を現した。

「いらっしゃいませ」フレアは彼に向かって深々とお辞儀をした。

「うむ、今夜もよい日和だな。君も元気そうでなによりだ」

「ありがとうございます」フレアはエプロンのポケットから二つ折りにした紙を取り出した。「これを御一読ください」紙を彼に差し出す

 彼は紙をフレアから受け取り、それを開き目を通す。端正な顔立ちではあるが、少し薄い唇、薄い青の瞳が若干の酷薄さを感じさせる。その面差しが氷の天使の異名の所以と誤解する者は多い。

 一読の後、紙は霧散し、彼の身体へと取り込まれる。それは奇跡の瞬間、しかしローズは簡単な魔法にすぎないという。といっても彼女に霧散した紙を体内に取り込むことはできない。

「前回の拾い物は知り合いの方にお願いして換金していただき、あなた様のお言葉を添えて修道院へと届けておきました」

「ありがとう、これでかれらもよりよい未来へと旅立てるだろう」

 彼は口元に笑みを浮かべる。フレアは喜ぶが、若干の恐怖を感じる者もいる。

「まだしばらく、ここにおすごしなら、お飲み物でもお持ちしましょうか?」

「あぁ、それはありがたい」彼は優雅な手つきで右手を振った。「今夜は、そう、そうだ、ソーダを頂こうか!」

 これこそが氷の天使の所以である。最高位の天使が街にいる中年男と変わらぬダジャレを飛ばす。それに皆困惑してしまう。どう反応していいか分からずその場が凍りつく。さすがに駄天使と呼ぶことはできず、氷の天使という呼び名がひっそりとささやかれている。

 この世に永遠など完璧など存在しない、しかし、それぐらいでよいのかもしれない。


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