第17話

 真奈美はスーパーの野菜売り場で悩んでいた。


 家に戻ってきた母も、そろそろ病人食ではなくてまともな家庭料理が食べたいに違いない。今夜は肉野菜炒めでもと思ったのだが、思いのほかネギが高い。なんとか今月の返済日は乗り越えたものの、財布の中にお金が無いのは変わらなかった。これからわずかでも豚バラも買わなきゃいけないし、まさかもやしだけの野菜炒めと言うわけにはいかないし…。財布の中身を覗き込みながら、思案に暮れていた。


「そんなに悩んでいたら、夕食に間に合わないぞ」


 突然背後から声を掛けられて、驚いて振り返るとすぐ間近に秋良がいた。

 あまりにも近づいて立っていたので、真奈美は後ろに飛び下がり、その拍子に、野菜が置いてある台に足をひっかけてよろけた。秋良はその逞しい腕で、そんな真奈美をしっかりと抱きかかえた。男性の腕に抱かれたことのない真奈美は思わず赤面しながらも、その腕の中に居ると、いままで感じたことのないような安心感を覚えるのを禁じ得なかった。

 この腕ならこのまま失神しても、きっと軽々と自分を抱き上げてくれるだろう。


「なんでここに?」


 真奈美は慌てて体制を立て直して、わが身を秋良の腕の中から離した。


「電話にも出ないし、家に寄ったらここだと言われた」

「家に寄ったんですか?」

「なんか問題でも?」

「別に…良いですけど…」

「何を悩んでいるんだ?」

「久しぶりに、お母さんに家庭料理を食べさせたいんですけど、結構野菜が高いから…」


 そう言いながら財布を覗き込む真奈美。しばらくそんな彼女を見ていた秋良が真奈美の腕を取った。


「来い」


 秋良はスーパーの入口へ戻ると、一番大きなショッピングカートを引出し、真奈美の腕を取って各売り場を引きまわした。

 有機野菜の白菜、椎茸、長ネギ、ニンジン、高級豆腐、葛切り、うどん、そして高級だし昆布。食材の買い物など自分自身ではしないはずの秋良なのに、解っているのかいないのか、どれもが、大陳のお得品ではなく、今まで真奈美が手を出したことのない高額な棚にあるものばかりだ。高級なスーツ姿でカートを押しながら食材を買う秋良が、妙にアンバランスで、真奈美の顔にも自然に笑みが浮かんだ。

 値段も賞味期限も見ずに、次々とカートに投げ込む彼は、ちょっとかっこ良いかも…。いやいや、たいした買い物ではないのに、そんなことを感じるのは、自分の身体によっぽど貧乏が身に着いてしまったのだと、慌てて打ち消した。


「いったい晩御飯は何を…」


 真奈美の問いに答える代りに、秋良は彼女を精肉売り場へ引き連れて行く。そこで、高級国産和牛を指定して、薄くスライスするように注文した。


「今夜は、しゃぶしゃぶだ」

「そんなこと言っても…ガスコンロも、しゃぶしゃぶ用の鍋もないし…」


 秋良は呆れたように真奈美を見つめると、今度は彼女を日用品売場へ引きずっていき、カセットコンロと鍋をカートに投げ込む。真奈美もこの際だからと、秋良の豪快な買い物に便乗して、切れていたラップとかトイレットペーパーとか、はたまた食器洗剤などをこっそりと投げ込んだ。当然カートは満杯。カートを押してレジに行こうとする秋良に、今度は真奈美が待ったを掛けた。


「これを忘れては、話しになりません」


 真奈美は、味ポンとゴマだれを手に、にっこりと笑った。


 カートの買い物を、秋良がカードで清算すると、真奈美はホクホクしながらスーパーの袋に買い物を詰めた。はちきれんばかりに膨らんだスーパーの大袋が四つ。こんな大量な買い物なんて久しく経験していない。やっぱり買い物って楽しい。しかしその楽しさが、秋良と一緒に何かをするということからきているのだとは、認めたくはなかった。


「ひとつ持ってください」

「なんで俺が…」


 結局、パンパンに膨らんだスーパーの袋を両手に提げて、ふたりは肩を並べて家に歩き始める。どちらも黙ったままで、相手の息づかいを感じながらただ黙々と歩いた。秋良にしても、こうした真奈美との沈黙のひと時が案外心地よくて、仕事の話は出来るだけ最後にしたいと考えていた。やがて、ふたりは家の前にたどり着く。お互いが向かい合うと、真奈美は黙って秋良の言葉を待った。


「家族との食事も当分できなくなるな」


 真奈美は、買い物の楽しさが徐々に薄れていくのを感じた。


「合格…ですか…」


 秋良はスーパーの袋を真奈美に手渡した。


「明日中に宅配の仕事のけりを付けて荷物をまとめろ。すでに部屋の準備は出来ている。明日の夜に迎えの車をこさせるから、会社で会おう。契約はその時だ」


 真奈美は覚悟を決めたかのようにひとつ息を吐くと、今度は悪戯っぽく笑って秋良に声をかけた。


「あれ、一緒に食べていかないんですか?しゃぶしゃぶ以外にも、おいしいご飯作るのに…」

「たとえ餓死しても、お前が作った料理なんか食うもんか」


 秋良はそう言い捨てて、大股で去っていく。真奈美は、秋良の姿が見えなくなるまで、その背を見守り続けた。


『絶対にあたしの作った料理を食わしてやるからね…』


 真奈美と秋良の壮絶な闘いが、今火ぶたを切ったのだ。

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