第6話

 2時間後、真奈美はアポロンとウェスティンホテル東京の22階のレストラン『ビクターズ』で食事を取っていた。真奈美はこの状況が信じられない。本来夜景を眺める大きな窓のガラス面に、自分の姿を映して見ると、そこには、今まで見たことのない自分がいた。


 オフィスから真奈美を連れ出したアポロンは、彼女を車に同乗させると青山通りを走り抜けた。車はやはり高級外車であったが、昼に自分がぶつけた車とは別な車だ。この人はこんな高級車を何台持っているのだろうか。真奈美は半分呆れながら、運転するアポロンの彫刻のような横顔を盗み見た。


 やがて車が原宿へ到着すると、アポロンは真奈美をエスティックサロンへ投げ込んだ。戸惑う真奈美を尻目に、アポロンがマネージャーにプラチナカードを見せながら、指示を出す。すると何人ものスタッフが真奈美を取り囲み、嫌がる彼女を取り押さえて服を脱がせた。ジャグジー、スキンケア、ヘアケア、コスメ、ネイルケア。スタッフは真奈美の全身に様々なビューティー・ケアを施していく。


 その間アポロンは、電話で指示を飛ばし、次々と服と靴をエスティックサロンへ運ばせた。服や靴の入った袋や箱には、ESCADA(エスカーダ)とかJIMMY CHOO(ジミーチュウ)とか、真奈美が今まで見たことも聞いたこともないような文字が書かれている。全身のケアを終えた真奈美は、自分の好みに関係なくそれらの服や靴を試着させられ、アポロンの前に引き出される。アポロンが首を横に振れば次の試着へ。5回の試着を繰り返して、ようやくアポロンの首が縦に振れた。そして最後にヘアセットとメイクの仕上げ。ガラス窓に映る見たこともない自分はこうして誕生した。


 正直に言って、そこまで磨いた自分が綺麗なのかどうか真奈美自身には解らなかった。ただこの格好だったら、自分は女だとすぐわかってもらえるだろうという確信だけは持った。アポロンは、今の自分をどう思っているのだろう。少し気になる。しかし一方で、真奈美の意思に関係なく、勝手に真奈美を磨き、あたかも人形を着飾るように扱うアポロンの強引さに、少し腹が立ってもいた。アポロンはひとこともしゃべらず、ただ黙々とナイフとフォークを動かしている。


「あの…」

「なんだ」

「お会いするのに…なんでエステ行ったり、服を着替えたりしなければならないんでしょうか」

「気に入らないか?」

「いえ…エステなんて今まで行ったこともなくていい経験になったし、服も素敵だと思いますが…ただ、お金持ちのお遊びで私を呼び付けたのなら、それにお付き合いできるほど私も暇じゃないので…」


 アポロンはナイフとフォークを持つ手を止めた。そして、あの緑がかった瞳でまた真奈美を見つめる。また彼女の身体が縛られたように動かなくなる。


「俺は、女である君と話しがしたかった。しかしあんな格好で来られると、話しをする気が失せる」

「話しがあるなら早く…」

「とにかく」


 アポロンは不満げな真奈美の言葉を遮った。


「話しは、コーヒーが運ばれてきてからにしよう。君もお腹がすいているだろう」


 そう言ってアポロンは、再びナイフとフォークを動かし始めた。


 やっぱり今日の事故は仕込まれたのか。あれは自分を呼びだすための口実だったのか。心の中で警戒警報がガンガン鳴っている。もしかしたら自分はこのまま拉致されて、アラブの見知らぬ土地で売られてしまうのか…。しかし、アポロンを見つめ続けているうちに、警戒警報の音色が段々変ってきた。もしかしたら、どこかで私を見染めて一目惚れしたのかもしれない。それで、話しをするきっかけが欲しくて、あんなことを…。ある社会心理学者は、人間は自分に振りかかる事象について、ほとんどがそのどちらかでもないのに、最悪のケースと最良のケースしかイメージできないと言っていたが、今の真奈美はまさにそういう状況であった。


 最悪、最良。その妄想を交互に繰り返しながらも、やがて真奈美の前のメインディッシュの皿も空になった。真奈美は、こんな状況でも食欲を失わない自分の性質を呪った。コーヒーが運ばれてくると、アポロンは改めて真奈美を見つめる。その緑がかった瞳に自分はどう映っているのか知りたくなった。


「今の君は、何処から見ても女性だ。安心して話が始められる」


 残念ながら、アポロンの口からは綺麗なという形容詞は出てこなかった。


「俺の名は小池秋良。名刺の会社のCEOだ」


 真奈美は、アポロンの名をついに知った。


「あらためて確認するが、君は森真奈美さんだよね」


 真奈美は思いがけなく自分の名前を呼ばれて息を飲んだ。ただ、小さくうなずく。


「君を…うちの会社で雇いたいと思っている」


 秋良のいきなりの申し出に、さすがの真奈美も仰天した。何か言おうとする彼女を遮り、秋良は言葉を続ける。


「先に報酬を言っておこう。君の家族が抱える負債の全額をこちらで引き取る。さらに母親の入院治療費そして妹さんの学費に充当できる充分な額を保証しよ。」

「貧乏人をからかうのもいい加減にしてください」


 真奈美は秋良が言ったことがにわかに信じられずそう応じたものの、やがて重大なことに気がついた。彼は自分のことを知り過ぎている。


「むろん雇用に際しては、厳しい条件をクリアしてもらう必要がある」


 秋良は真顔で言葉をつなぐ。


「まず君の身体を徹底的に検査させてもらう。いわゆるメディカルチェックだ。そこで身体の隅々まで健全であることが確認できたら、雇用契約を結ぶことになる。そして雇用期間中は、君は会社が指定する住居に住み、会社の徹底したヘルス管理の元に置かれる。家族と連絡することは可能だが、仕事の話しを一切してはならない。また雇用期間中は会うことも出来ない」


 秋良はここで間を置いた。当然発せられる真奈美からの質問を待ったのだ。しかし真奈美は、青ざめた顔をこわばらせているだけで、なかなか口を開こうとしない。急展開する秋良の話しについていくことが出来ず、理解するのにかなりの時間が必要だったのだ。しばらくしても、真奈美からの質問が無いので、秋良は焦れてその質問を、自分から口にした。


「では、いったい何の仕事なのか…。」

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