クッキー
マフユフミ
第1話
真夜中のキッチンは、無限だ。
沈み込みそうな静けさに響く冷蔵庫の音。
蛇口から垂れる一滴の音が、妙に部屋中に広がる。
重いような分厚いような濃密な夜には、昼間には感じることのないよそよそしさがあって、ただ食べ物を作るだけのその場所が、なぜか妙に神聖なモノのように思えてくる。
それはまるで海のようだ。
夜の海、無限の広がり。
連なる波にそっと体を遊ばせれば、幾つもの腕が伸びてきて、見えない底へ引きずり込もうとする。
力を抜いて、身を委ねて。
ずぶずぶ沈む体は、もう快楽に溺れている。海底まで。この体が辿り着くまで、と。
そして今、この目の前にあるキッチンは、そんな底の見えない海のようだった。
この海の中、ただ一人。
無限の広がりの中放り出されて、暴力的な静けさに耳を塞いで。
それでも立ち去れなかったのは、そこがキッチンだったから。
この海に、沈んでみたいと思ってしまったから。
思考に一旦フタをする。
目の前には大きめのボール、泡立て器、ヘラ。
小麦粉やバター、砂糖を無言で練りまぜる。
カチャカチャと、器具が擦れる音がする。
混ざりすぎない程度にさっくりと。
この深い海の中、軽めの金属音が響き渡る。
人の行動の理由なんて、きっと誰にも説明できないものなのだと思う。
なぜあの時、あの人は、あんなことをしたのか。
それはその瞬間の本能にも似た閃きで、その人自身にもはっきり理解出来ないものなのだ。
だから今、私が深夜のキッチンでクッキーを作ることに、意味なんてない。
ただそうすべきだと、私の知らない私がそう感じたのだ。
そして、その本能を、私は全面的に信頼している。
生地を丸め少し寝かせる。
その間思考は海の中を漂う。
一体私は今どこで何をしているのか。
海に沈み、波に体を委ねながら、何を思っているのか。
明確な答えなどなくて。
ただひたすら、無心にクッキーを作るしかなくて。
生地を伸ばす。
適度な大きさに切る。
オーブンで焼く。
甘い匂いが静かな海に広がる。
この静けさに似合わない、余りにも生きる意志に満ちたこの香り。
チン、とまぬけな音が暗がりに響く。
出来たてのクッキーは熱くて、柔らかくて、どこか儚い味がした。
クッキー マフユフミ @winterday
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