第15話 先制攻撃
イニピア王国とシフォニ王国の国境。国境といってもイニピア王家に仕える貴族所有の領地とシフォニ王家に仕える貴族所有の領地の境目というだけのものだ。街道に検問などはなく、強いて挙げるとするならば都市門がそれに当たるだろう。さしずめシフォニ王国側の都市セリクシアの都市門がそうだ。イニピア側の都市ロザからは一日ほどの距離になる。
数日間野宿を続けてきた俺たちとしてはセリクシアに入る前にロザで補給を済ませておきたいところだ。だがわずか一日の野宿を惜しんだせいで追手に追いつかれるのはあまりにも愚かだ。
あの田舎町で、宿屋の二階に上がってきていた者たちは全員殺せたが、屋外にいた者たちは眠らせただけだ。その者たちが増援を呼べば、どれくらいの時間で俺たちに追いつくだろうか。しかしそんな心配が杞憂である可能性も大いに考えられる。そもそも俺たちがシフォニ王国への逃亡を企んでいることを読めたとしても、ロザからセリクシアへ渡るルートに確信はもてないはずで、なぜなら国境をまたぐ街道はここだけではないのだから。
「気になるのか?」
ちょうど来た道を振り返った時、トーヤが声をかけてきた。
「ん、ああ。もう国境が近いからな。最後の最後で油断したくない」
「それもそうだけど、少しは落ち着いたらどうだ。さっきからずいぶんと後ろを振り返っているぞ」
トーヤは呆れたふうに肩をすくめた。まるで自覚のなかった俺はトーヤの前に座るリリヤドールを見た。すると彼女もまた、トーヤの言葉を肯定するように頷いてみせた。自覚がなかっただけに軽い衝撃を受けた。自分が冷静さを欠いていることさえわからないほどに緊張していたらしい。俺は大きく深呼吸をして前を向いた。
「それで、どうする? もうそろそろ国境都市ロザが見えてくるが、立ち寄るか? それとも通り越してシフォニ王国を目指すか。追手は……ないわけではないだろうが……」
必要な物を買い込む時間くらいはあると思う。だが、生憎すでに日が傾きかけている頃合いだ。買い物をしてその日のうちに都市を出られるかは怪しいだろう。日没前には都市門は閉じられてしまうから。日を跨いでしまっては、相手の速度次第では追いつかれてしまうかもしれない。都市の守備兵にまで手を回されれば厄介なことになるだろう。いくら入り組んだ市街地とはいえ三人でどうにかできる数ではないし、何より市民を巻き込むのは本意ではない。
トーヤとリリヤドールを見ると、ふたりとも俺の判断を待っているように思えた。追われているのは俺で、追手の素性も、この土地についての知識も、持っているのは俺の方だ。ならば俺が判断した方が良いと考えているのだろう。
「やはり、ロザは素通りしよう」
選択を託されているのならば間違えたくない。少しでも危険を排除できる方針をとることにした。
「シフォニ王国に入りさえすれば、後はどうにでもなる。むしろ彼の国の兵士が追手を撃退してくれることだろう。だというのにあえて危険を犯して国境手前で足踏みすることはない」
俺たちは最短距離で国境を目指す。一度街道を逸れてロザを迂回する。街道に合流し、さらに西へ。川をひとつ、丘をふたつ越えればもうシフォニ領は目前だ。背後に追手の影はない。逃げ切った! そう確信した時、
「ヨアン、あれは?」
と、トーヤが前を指差して言った。「え……?」と思わず口をついて出たのは動揺を表す疑問符。それが驚愕の感嘆符にかわるのに、さほど時間はかからなかった。
まだかなり遠くだが、五人分の群青色の軍服が確認できた。トーヤの前に跨っているリリヤドールは眼鏡越しに目を凝らしているがよく見えないようだ。
「まさか街道を先回りされているとは」
「ヨアンの敵は土色の軍服じゃないのか?」
「あれはここら一帯を治めるリュゲル伯の騎兵隊の軍服だ」
「じゃあ味方じゃないのか?」
リリヤドールが首を傾げた。
「……どうだろうな」
シフォニ王国との国境に、五名の兵士を配置する理由が、逃亡する王子を捕らえること以外にあるだろうか。混乱に乗じてシフォニ王国が攻め込んでくるかもしれないから、その動向を探るためだろうか。ノルバレン大公国がイニピア王国を併合し巨大な国として成長することは、確かにシフォニ王国にとっては好ましくないことだろう。将来的にちゃちゃをいれてくることも十分考え得る。だが、国境の領地とはいえ、一領主にすぎないリュゲル伯がそれを案じて数少ない兵士に哨戒を命じるだろうか。イニピア王国の王都が陥落したという知らせは、シフォニ王国の王都に今現在、届いてすらいないだろう。対策を講じるにはあまりにも早すぎる。
「どうする? あちらさん、俺たちの……お前の正体に気づいているかな」
目を凝らしながらトーヤが言った。
「どうだろうな。軍服姿ならまだしも、今はみすぼらしい庶民の旅装だし。だが、変装を想定してないとも限らないし――」
と、その時、五人の騎兵の影に隠れていた六人目が姿を表した。それは見間違えるわけがない、土色の軍服。
「あの軍服は!」
「ああ」
慌ててトーヤが報告する。俺も確認することができた。
二色の軍服が連れ立っているところを見るに、リュゲル伯も降伏したのだろう。すでにヴィゼルグラム家が崩壊した今、伯に戦う理由もない。
「しかしどうして奴らがいるんだ。追い抜かれた覚えはないぞ」
「夜は街道から離れて野宿しただろう?」
「その間に追い抜かれたと?」
「馬を乗り継げるなら可能だろうさ」
ノルバレン大公としては、是が非でも俺を捕らえたいところだろう。イニピア王国の正統王家たるヴィゼルグラム家の末裔が隣国へ亡命し、大国の助力を得て国を取り戻すために立ち上がる。俺の逃亡を許せば、その先にきっとこのような筋書きが待っていると、そう睨んでいるはずだ。
俺に反旗を翻す意思がなくとも、彼がそれを知っているわけではないし、伝えたところで信じるわけがない。そして彼の命令に従わなければならない兵士たちが俺の説得に耳を貸すなど、それこそありえないことだ。
わかりあえないのであれば打倒するしかない。
敵兵士はこちらに気づいている。気づいていはいるが正体にまで思い至れていないだろう。頭の片隅にちらりと考えながらも、確信できないでいるはずだ。なぜなら判断材料がないのだから。距離はおよそ二百メートルくらいだろうか。風もない。これならば十分撃ち抜くことができる。
「作戦を立てよう。相手が戦闘態勢に入る前に先制したい」
相手は六名。一人倒したところで反撃されれば不利になる。
「先制するといったって魔法が届く距離ではないし、俺も流石にこの距離は狙えないぞ」
トーヤが、自分たちは戦力になれないと言う。
「大丈夫。六名中三名倒せれば同数になる。ならば敵は撤退を選択するはずだ」
「そう上手くいくかな」
「彼らだって死にたくはないさ。それに死んでしまえば増援も呼べないし、言い訳だってできない」
なるほどと、トーヤが納得したところで俺は考えを話した。
作戦はこうだ。まず一発、先制する。すると敵は慌てて伏せるか、物陰に身を隠すだろう。それを確認した後、逃げるように街道を逸れて北へ走る。敵に側面を晒すことになるが、二百メートル先で横に逃げる獲物に命中させるのは至難の業。さらに、街道をはずれれば地面は平坦でなくなる。地面の凹凸に沿うように上下する俺たちの身体を、偏差をつけながら狙うとなるとどんな名手でも命中率は恐ろしく低下するだろう。まして、静止していれば俺たちとの距離はどんどん離れていくばかり。追わねばならないし、当てねばならない。たった五人では一斉射撃の効果も期待できないだろう。
だが俺は違う。状況が、逃走から先行に変化する。敵はこちらを最短距離、つまりまっすぐ追ってくるだろう。ならば俺からみて彼らの動きは点となる。相手が横に動かないのならば、それは一人目の時と同じ。普通に狙って撃てば良い。簡単な話だ。
「大丈夫かのう」
当然、敵の命中率もゼロではない。リリヤドールが心配するのも無理はないだろう。
「はは、心配なら以前見せてくれた風の魔法を周囲に張っておけばいい。銃弾は指先ほどの大きさしかないんだ。ほんの少し軌道がずれるだけで当たらなくなるものだ」
そう言って幼いレンの頭を撫でた。
銃弾は装填済み。だが流石に二百メートルの狙撃となれば馬上での射撃は難しい。下馬し、愛用のケラード銃を構えた。
標的と照星を照門に捉える。
ゆっくり狙える今は魔法弾は必要ない。
息を吐ききって止め、俺は引き金に指をかけた。
狙うは唯一のノルバレン大公国軍兵士。監督するものがいなくなれば、戦意に迷いが生まれるかもしれないからだ。部外者が殺されたところで、むきになって反撃してくることはないだろう。
周囲の木々からざわめきは聞こえない。風の影響は考えなくても良いだろう。敵が何やら話し合っている。標的と話している男が銃を構えている俺に気がついた。引き金を絞り、目を眇める。そして指摘された標的が振り向いた瞬間、軽く、指先に力を入れた。
立ち昇る白煙が晴れる前に俺は騎乗する。命中確認の必要はない。手応えがあるなどという不確定な理由ではなく、する意味がないからだ。命中していても、していなくても、一箇所に留まっているわけにはいかないからだ。確認は走りながら行えばいい。
馬の腹を蹴り、街道を逸れて北へ走る。ボルトを引き、排莢する。弾を込めながら俺は敵兵のいた方向を見た。
姿がない。とっさに身を隠したか、撃たれた兵士を介抱しているのか。銃声が聞こえてこないということは、まだ戦闘態勢をとっていないということだろう。ならばこれはチャンスだ。
「トーヤ!」
俺は前を走るトーヤを引き止めた。
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